銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

貴景勝VS琴奨菊、mediaが上げたり下げたりする度合いは何ゆえに違う?、指原いく子、山寺重子、嶋田員子、国展審査風景は、まっとうか否か?

2019-03-28 21:19:48 | 政治

 今は、30日の午前、2時です。下の文章を推敲し終えて、末尾に、副題6から、移行を加筆している最中です。

副題1、『貴景勝、は、日本人大関としては、六場所制になってから、一番の、スピード出世だそうだが、メディアに、あげあげムードがないのは、何故だ?』

 桜が東京では満開だそうです。不思議なことに鎌倉は、まだです。未だ、まだと、言う感じです。しかし、世の中は、春めいてきました。そして、日本には、すみっこに、いいことがありますよ。結構、きれいな人間たちを見ることがあります。しかし、私は、引き続き、政治の問題にこだわり、どれ程に、いやなことが、現在の日本に、蔓延をしているかを語りたいと思います。自分の気分に応じて書くのではなくて、今回は、ずっと、以前から考えていたことを、継続して、まとめて行くつもりで、語ります。

 だから、内容としては、春景色より遠くて、まだ、まだ、冬景色だと、言っていいでしょう。

 さて、貴景勝の大関昇進に関して、NHKは、割と、あっさりとしていました。なぜ、か、皆様、お分かりですか? 私が一回、貴景勝について、文章を書いているからです。こういっちゃあ、おしまいですが、そこらあたりのスポーツ記者よりもずっと、面白い文章になっているでしょう。後で、リンク先を見つけておきます。(後注1へ)

 今、私が、集中して書いて居ることは我が家へ侵入する、泥棒4者についてです。これは、本当に忌まわしいものです。普通、子供の時は、「警察は、泥棒を取りしますものです」と、教わりますね。しかし、私が住んでいる山は、実際に活動している家が、15軒しかないのに、その中で、「警察の協力者です」と、公称している、家族が三つもあって、その三つが、非常に恐ろしいことをやってきているのですが、それ以外にも、合いかぎをもらって、侵入して居る画家Aとか、庭先方面で、狼藉を働く、柳沢昇(現在は、かまくら春秋窯主宰者である)などが居て、私は防衛するのには、非常に大変です。それを、結構詳細に、書き続けているのです。が、それが、CIAエージェントにとっては、あまりにも、衝撃の事実なのですね。

 これから先は、鎌倉エージェントが内々で、使って居るであろう言葉を使って書きますが、「あいつはさあ、全部裏側がわかっていると、言って居たけれど、そんなことまで、ばれている筈がない」と、思って居ただろう部分が全部ばれていると、初めて、気が付いたでしょう。その上、其れを、分かり易い文章として、書く人間が居るとも思わなかったであろうし、また、その書いている人間が、私、雨宮舜(=本名、川崎 千恵子)であるとも、思って居なかったので、衝撃を受けたことは受けたのですが、すぐさま、復讐に乗り出してきています。

 その復讐の一つが、貴景勝の、大関昇進をマスメディア的に、アゲアゲには、しないと、いう事に、象徴的に表れています。私は貴景勝のファンクラブに入っているわけでもなくて、大相撲は、一回も観戦をしたこともなくて、全く、ごみみたいな存在です。しかし、2009年ごろの八百長疑惑のころから、私が大相撲に関して、発言をしたことは、すべて正しいでしょう。だから、たった、一回だけ、貴景勝について描いている、その文章が、又また、広く広まるのを恐れて、貴景勝について、マスコミに、制限をかけていると、思います。

 本日、図書館で、調べましたが、琴奨菊の大関昇進の時には、伝達式が、朝日新聞の、一面に載っています。ところが、貴景勝の時は、伝達式は一面には載っておらず、社会面の下の方ですし、一面には、囲碁界が、宣伝の為に、特別にプロにした、菫さんの写真が、載っているのでした。人々の関心事は、貴景勝の方が、圧倒的に、菫さんよりも大きいのに、そう言う偏波が見られます。

 激しい、弾圧を、貴景勝の、マスコミ露出に加えているのです。たった、一回ほど、私が貴景勝について、文章を書いただけでです。琴奨菊については、其の昇進について、長文の記事が、前後で、六回ものっていました。貴景勝は、琴奨菊よりも、精神的には、大物かもしれず、横綱を狙える逸材だと、思うのですが、私を弾圧する為に、其のマスコミ露出が、押さえられているのです。

 しかし、此処にこういう風に書くと、それに、反対の行動を、取るのが、鎌倉エージェント(=CIA)ですから、今から、貴景勝の、露出が増えるかもしれません。まあ、いやな話です。しかし、それほどに、私が大物であり、このブログの、影響力を、悪人たちがどれほどに、恐れているかが、こういうポイントでも、わかります。

 ただ、この間、偶然に視聴した、日曜日夜の、大越キャスターの、NHKのサンデースポーツで、朝青龍が出てきてびっくりしました。朝青龍は、当時の、相撲人気に、絶大な貢献をした人間ですが、内館牧子さんの、・・・・朝日新聞側からの、指示があっての、・・・・・猛攻撃を、受けて、撃沈せざるを得なくて、相撲界を去ったのです。

 なぜかというと、当時、6チャンネルと、8チャンネルで、ゴールデンアワーに、若者向けの、バライエティ番組を持っていた、細木数子の影響力を、CIA側が、恐れた、からです。細木数子が、朝青龍のタニマチ(ファン)だったために、朝青龍を、追い出したのでした。細木数子は、若い女性に、「もっと、日本人としての、誇りと気概を持ちなさい」と教えていました。日本を被・植民地国家として、支配をしていて、大量の核燃料を売り込んで、儲けている、国際的軍産共同体にとっては、困ったちゃんだからです。そのとばっちりを食って、朝青龍は、引退せざるを得ませんでした。

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副題2、『内館牧子は、東北大学の相撲部監督だそうだ。それに関して、NHKは、一時間番組を作った。何とも、空々しい、かつ寒々しい番組だった。しかし、現代最高の、CIAエージェントが、仙台に拠点を持つ、井上ひさしなので、東北の、人脈、例えば、宮城県知事などを利用して、そう言う方向へもっていったと、見える』

 ともかく、現代社会では、嘘が蔓延しています。NHKが世論調査なるものを、一か月に、一回発表をしますが、あそこで、安倍総理大臣の支持率が、45%ぐらいだと、言うのは、嘘も嘘でしょう。調査数が、足りなさすぎるし。ともかく、井上ひさしが、実質的な、天皇のごとき、威勢を誇っていて、彼が、裏で、あれこれを、画策し、提案し、その通りに、大勢の人が、協力をするので、彼のアイデア通りに、現代日本は、動くのです。

 大相撲の八百長疑惑というのが、取りざたされ、琴光喜と、言う当時の大関が、除籍処分になっているそうです。私はすっかり忘れていました。当時は別の事で、忙しかったのです。私は1997年から、2009年ごろまで、テレビも、新聞も、見ないで、修行中だったのです。たまたま、家族が点けているチャンネルを、一緒に見るという形でした。

 しかし、本日図書館で、いろいろ、調べていた際に、偶然に見つけたのですが、琴光喜の、お坊ちゃんが、小学生でありながら、相撲をやっていて、すでに、強いのだそうです。なお、琴光喜は、日大出だそうです。という事は、一種のインテリであって、したがって、ほかのお相撲さんに、嫌われていた可能性がありますね。上のはみだしは、どこのフィールドでも、損をしているのです。うまく適応できない可能性を秘めています。だから、気の毒にも、スケープゴートとして、血祭にあげられた可能性があります。ただ、ここでは、そうらしいと、思うだけです。傍証づけはありません。貴の岩騒動などは、相当丁寧に、追跡してありますが、琴光喜騒動のころは、私は、テレビにも相撲にも、ほとんど、関心がなかったのでした。

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副題3、『NHKが、総合チャンネルで、週末の夜放映する、NHKスペシャルの一編として、杉並区の空き家特集をしたことが、10年以上前だが、あった。鎌田氏(現在は、TV東京、ジパングのキャスターをしている人物だが)が、インタビューワーとして仕切っていた番組だが?』

 ただね。2009年の一月第四週の週末だったと思うのですが、夜9時過ぎに、スペシャルとして、NHKが、杉並区を舞台とする、空き家特集というのをやりました。その時、二代目、子供ニュースの、キャスターをしていた、鎌田さんが、杉並区を訪ねたのですが、NHKは、社会派番組を装って、対・私攻撃用の番組を作ったのでした。

 それはです。私が、大変高く評価する、現代アート系作家、NKさんを、いじめる番組でした。NKさんは、私が上條陽子(=安井賞受賞作家、池田20世紀美術館での個展等、既に、有名人である・・・・・ただし、1981年に私が、銀座で初個展をした時に、毎日新聞の、今週の催しというコラムでは、私と上條さんは、同じ週に配置をされて紹介された、6個ぐらいの個展の作家であった)さんと電話で「あの人は、何故、今、上野に出品をしていないのですか?」と、話し合った際に、上條さんから、「あら、あの人は廃人になったのよ。お母さんの遺体を放っておいて、・・・・・それがね。救急車が来る大騒ぎだったそうよ。妹があの近所に住んでいるので、教えてくれたの」と、聞きました。

 それで、何故、NKさんが、母親の遺体を放り出していたか? また、何故、廃人になったのかについて考察した文章を、メルマガか、こちらかで、書いていると、思います。下に、北側順一郎として、ググったら出てきた、一文がありましたので、後注2として、置いておきますが、その中に、委細が、全部出ているとは、自信がありません。

::::::::::だが、此処で、少し、政治を離れて、芸術家と、お金の問題へ、入りたいと、思います。アート系作家が、集中して、制作に向き合っても、お金は、ほとんど入りません。で、女性でも、男性でも、親が、おお金持ちであって、貸しマンションでも、作って、子供に与えているか、又は、結婚相手が、毎月決まった収入のある人間である必要があるのです。今話題の若冲とは、一家が、京都で、商売をしていて、弟に、実権を譲り渡した人で、生活費、及び画材は、その実家から、もたらされた人物です。大正時代に、出現した、高等遊民の、さきがけとして、江戸時代に、生きた人だったわけですね。伊能忠敬もそうですが、江戸時代の商家の実力おそるべしです。

 結婚とは、とてもありがたい生活上の、保証制度ではありますが、むろんのこと、お互いに、我慢をすべきところもいっぱいあります。そこで、いろいろな、選択肢があるわけですが、NKさんは、ちょっと、間違った選択をしてしまったのでした。それは、高名な、美術評論家、三木多聞氏に、見出されて、草間彌生と、一緒の五人展を上野の都美館で、開くほどの、好調期があったのですが、その時、三木さんをしたって、夫と、離婚をしてしまったらしいのです。これは、ご本人から聞いたわけではなくて、伝聞です。三木さんは、三木さんで、そのストーカー的、慕われっぷりに悩んで、病気になったとか。

 上條陽子さんから、それらのお話を聞いても、私の方は、NKさんの経済状態については、心配をしていませんでした。『薬学部を出ている、NKさんには、本人自身の収入があるのだろう。夫に頼らなくても』と、思って居たし、杉並のお宅というのも、坪数にして、庭が300坪はあるだろう、大邸宅であろうと、思いこんでいたのです。そういう考えがそのNHK番組を見るまでは、数年間続いて、私は、NKさんの破綻が、経済的な、部分であるとは、思いもよりませんでした。ただ、NKさんが、出品をしなくなった経緯については、思い当たることがあり、それは、国画会で、主宰する国展で、彼女が審査に落ちたことがあり、其れが、きっかけだろうと、思って居たのです。私は、1991年から、2002年まで、国展に油絵を、連続出品をしています。その間、神奈川県展(山下町で、開催される方)とか、毎日展とか、上野の森大賞展などにも入選しています。それで、同じ週に開かれる、毎日展を見た方から、「川崎さん、あっちの方へ、いいのを出したね」などと、言われてしまって、そのせいか、次の年に落選をしたりしてね(苦笑)ただね。1998年から、版画部へも、出品を始めてそちらも五年連続をして入選をしているので、国画会の、おーぷにんぐパーティは、12年か、13年、連続出席をしています。

 しかし、私は、「毎日展に、わざと、いい方を出した」と、言われるのは、誤解です。私は、そんな、こずるい人ではないのですよ。全く違う。それは、ただ、唯、大きさの区別があって、150号だったから、其れを受け入れる、毎日展の方に出しただけなのですよ。

 唯ね。指原いく子さんなど、ギャラリーオカベで、山寺重子さんと、全くそっくりな色(cadmiumu red 系)と、形象(ほとんど画面全部赤なのだが、すみっこにちょっぴり違う色と形が入っている)の、10号(または、8号か、12号)を、30点近く、横に並べて、お追従をして、会員になったみたいですよ。そういう人が、国画会内部の、一般的な風潮であり、典型なら、私が誤解を受けるのも仕方がないですね。

 私が、逗子で、アトリエを構えていたころ、ある方が、教えてくれたのです。国画会内部が、特に審査が、どうなっているのか?、という事を。京都の京都芸大の、先生からではないのですよ。関東圏で、活躍をなさっている、高名な方からです。なお、嶋田章三さんと対立していた、今関一馬先生からでもないのですよ。それは、ちゃんと、言っておきたいです。星先生からでもないと。

 山寺重子さんというのは、中ボスで、票を持っているそうです。わたくしにも、それは、わかっていました。わざわざ埼玉県まで、彼女の個展の初日に行ったのに、私一人をターゲットというか、スケープゴートにして、山寺さんは、いじめるのです。それは、グループのほかの人間への、結束を促す政治的な、手法のひとつなのでした。鎌倉雪ノ下で、ご近所主婦の中の、特に中学生の番長みたいなグループ主婦たちが、取っている手法と全く同じ手法です。『やるなあ。この人!』と思いましたよ。そして、山寺さんの票というのが、その日、埼玉県にまで、遠征をした女性画家たちであるとは、わかっていました。

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副題4、『指原いく子は、そういう時には来ていない。オープニングパーティに出席するという事は、ほかの日に行くよりも時間の束縛が大きい。そういう部分では、奉仕をしていない。しかしなのだ。そっくりな絵を描いて、銀座のギャラリーオカベで、個展をするという事は、そちらに来た、男女の会員である画家(審査権を持っている人々。多数の票を取って、賞を得ることが次の段階へ進む、契機となる。で、賞を与えるためには、票が、多くなくてはならないので、選挙運動が必要なのだ)に、「自分は、山寺重子の、次期・会員・候補なのですよ」と、宣言をすることと、同じだから、男性の画家で、山寺重子の、美貌に、メロメロな、人物は、指原いく子に票を入れるだろう。そう言う未来の成功に有頂天になっている指原いく子は、票を持っていない私に、丁寧に対応する彼女の夫に向かって、背中側で、「この人は、親切にする必要はないのよ」と、知らせた。手のひらをひらひらさせて、犬を追い払う様に。

 これには、本当にびっくりした。夫という人物は、小田原の住民なので、フジ・フィルム勤務だと、思う。東大か、東工大か、千葉大、横浜国大、又は、慶応、理科大などを卒業をしていると、思われた。フジフィルムは、最近、フィルムで培ったゲルとかジェルの技術を応用して、化粧品の世界に乗り出しているのでデジタル写真全盛の時代になっても、社運が傾いていない企業である。で、その企業の、研究所に勤務しているエンジニアであろうと、推察されるタイプの男性だった。ただし、彼の苗字の方は、指原ではないかもしれない。というのも、

 山寺重子の、本名(というか、結婚後の姓が)が、矢田である様に、指原いく子も、結婚前の姓を、画家としての、自分を表す苗字として、使って居る可能性があるので、フジ・フィルム社内に、指原と、言う研究者は、いないかもしれない。ただ、如何にも理工系、かつ、エリート系の体格と顔つきである。細くて、神経質そうだ。しかし、一生懸命、絵を見つめている、私の、ただならぬほどの、真剣な気配を感じ取って、いわゆるおもてなしをしてくれたのである。

 もし、あのまま、時間が過ぎて、彼が、ずっと、私をエスコートし続けて、ギャラリーオカベの隅に在る小さなロビースペースで、「どうか、お茶でもいっぱい飲んで帰ってください」といってくれたら、そして、クッキー一つでも分けてごちそうしてくれたら、

 今、此処で、書いている様なことは、書かないであろう。しかし、数分、彼と話をしている、私に向かって、突然、今まで、無視をしていた、いく子が、近寄ってきて、私にではなくて、夫へ、合図を送ったのだ。背中で、手のひらをひらひらさせて、まるで、野良犬を追い払う様に。まさしく、しっしっと、追い払う様に。これは、2000年から、2001年か、2002年の間であって、私は、この様子を見て、国画会への出品を止めたのだった。

 :::::::::::ここから枝葉は、二つに分かれる。一つは渡辺幸子(ICU出身の画家、ガレリア・グラフィカで、連続的に個展をして居る。青木繁大賞展の、大賞を取った人)に向かい、もう一つは、鎌倉雪ノ下のご近所住民、富沢夫妻へ向かう。(ミスター富沢は、栄光・慶応・三菱重工というエリートコースを取った人で、たぶん、三菱重工の、核燃料棒・製造、工場を、担当した人。そのため、放射線被害者だと、思われ、身障者手帳を持っている人。この人も最初は、犬のごとく、私をバスの中で、追い払った。それが高枝切り事案の前哨戦となっている。内心で激怒している私にとって、富沢夫妻について、書く準備は、満々と整って居るのだった。それにもかかわらず、高枝切り事案という、あくどすぎる謀略を起こして、一種の殺人未遂事件を、起こした人であるから、バンバンと書く。

 それは、彼個人のアイデアではなくて、伊藤玄二郎達が、案出したことであり、費用は、全額鎌倉市が負担をしたことであっても、だからこそ、ひどい事なのだ。それに加担をしては、いけない。普通の人しかも、慶応大学教授の息子というエリートなら、なおさらの事、こんなちんけな悪事に加担をしては、いけないのだ。しかし、私のブログを、毎日というほどに、読んでいる人間ではないので、軽く、悪人たちに道具として、利用をされてしまう。あまりにも軽すぎる。しかも、利用をされている回数が、2回とは限らない。数回利用をされている。むしろ、哀れというべき存在へと堕している段階だ。

 ただし、指原いく子、渡辺幸子、富沢夫妻と、比べていくと、富沢夫妻、が、一番、善人では、ある。むしろ、悲哀の人でもある。特にミスターの方は。だけど、エリートでも、順、順に、または、徐々に、洗脳をされていくと、ああいう風に、無残な、判断に至るのだと、言う好例だから、書く。:::::::::

 とは、いうものの、国画会内部の、審査風景に戻っていかないといけない。山寺重子さんは、票を、確実に、15票は、握っていると、思われる。私が、銀座や、そのほかで、『ああ、この人は、山寺さんのお追従者ですね』と、はっきり把握しているのは、4,5人の女性会員だけど、彼女たちが誰に、票を入れるかについて、注目している男性画家も、いるはずだからだ。

 男性画家は、山寺さんの個展のオープニングなんかには、来ない。というのも、銀座以外で、開かれる個展は、主に、審査で、優遇をしてもらいたい、一般入選者が、審査権を握っている画家の作品を買うという、場らしい。私は、そのころは、お金持ちだったので、買えたはずなのに、お金持ちであるから、かえって、貧窮している人の気持ちがわからず、したがって、そう言う慣習には、まるで、気が付かなかった。今なら、はっきりと、それがわかるから、その絵を、実際に見て、それが、いい絵だったら、買うと、思う。しかし、もう、国展に出品をしていないので、その手の、「買いなさいね。私の作品を」と、言うような案内状は来なくなった。

 ここで、もう一度、山寺重子が、中ボスとして、票を15票ぐらい持っているはずだと、言う話に戻ろう。詳しいことを言うと、山寺さんは、嶋田員子さんという、これまた、中堅のボスだと、言われている人と、票のやり取りをしているとも、言われている。つまり、奇数年は、嶋田員子さんは、会員候補を立てず、山寺さんが、好んでいる人に、彼女が統率している票を、すべて、入れる。しかし、偶数年は、嶋田員子さんが、選んだ人を、山寺グループが、支援をして、いれる。個々票は、その人の好のみが、繁栄をしているわけではないと、いう事だ。そう言う事は、基本を常に守っている私にとっては、信じがたいことだ。画家なんて、徹底的に、主体的に生きるべきだと、思って居る。政治性をもって、山寺重子の、言うなりになるなんて、おかしい。

 と、こういう審査風景の裏側を、1991年の初入選後の、相当、初期に知ってしまった私は、既に、五年目ぐらいから抜け出たくて仕方がなかった。山寺重子と、指原いく子の間に在るのは、女子美の同窓だという学閥です。私は本当にいろいろなことを知っていて、山寺重子が、あれほどに、意地悪なのは、芸大に、不合格だったからだと、言うのも知っている。一時期、銀座で、「あの人が、」という隠語で、表現すれば、それは、山寺重子を指すと、言われたものだった。

 もし、学閥がなくても、山口千里さんみたいな、美貌の人であり、かつ、私よりも10歳程度若い時期に初入選すると、皆さんから、かわいがられたり、ちやほやされるだろう。千里さんは、ちなみに聖心女子大卒です。彼女には、国画会内部には、学閥的、ひいきをしてくれる人は、いません。ただし野見山暁次さんと、出身地が同じという、地縁がある。それが支えになっていると、推察されます。棟方志巧は、早期に、国展を離れていますが、それは、柳宗悦に、支援をされたと、いう事が、支えだったと、思います。

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副題5、『私は、NKさんが画壇から消えてしまったのは、国展での審査、特に、1998年の落選に、原因が在ると考えて、その審査風景を知りたいと願った』

 でもね、公募団体展が保存している大きな問題点は、足抜けが難しいという事です。今は、知りませんが、1990年代って、その内部が、ものすごく古かったです。一種のやくざ組織みたいで、足抜けが、非常に難しいのでした。で、中途半端な形ではなくて、スパッとやめるためには、「誰にも言わないで、出品だけを止めるのが一番、いい」と思って居たので、新制作に、出品をしていて、私と同じく、学閥のないことを嘆いていた渡辺幸子さんには、何も言いませんでした。特に渡辺幸子さんは、アマゾネス軍団として、湘南地方では、有名だった、田沢茂先生の弟子でした。そこで、噂を流されると、新制作と、国画会とは、女流展、もしくは、神奈川女流展で、つながっているので、あっという間にうわさが、流れるだろうから、自制して、自分野、気持ちと予定は告げませんでした。

 しかし、二人が、一緒になる、大学同窓会展は、たまたま、その年度には、2月に開かれるものだったので、既に、4月に搬入する国展用の出品作はできていました。で、其れを、同窓会展へ回したのです。だって、せっかく、できている作品にお披露目の機会があるのなら、与えたいでしょう。しかし、幸子さんは、誤解をしました。私が出し抜いたとか、裏切ったと、思ってね。私は、誤解を受けやすい人間らしいです。私の考えていることは、損得抜きなので、一般の人には、理解ができないらしい。

 特に渡辺幸子さんは、画壇で、出世することだけが、目的だから、私に向かって、私が手書きコピー郵便で、送っているメルマガの最も初期の、ものを受け取っても、読みもしないし、行動、そのものが理解ができない模様だった。一方の、私にしてみると、考えることが大好きで、それは、呼吸すると、同じく、常に行って居ることだった。そして、考えると、言う行動は次に、其れを文章に落とすという事をしないと、堂々巡りになって、疲労困憊することだから、次から次へと、書いては、其れを、郵送をしてたいのだった。特にパソコンを使わない主義の人に対しては、そうしていた。全く、生きる目的が違う、の、だった。私の方では、渡辺幸子さんが、理解できるが、彼女の方では、私のことは理解ができない模様である。彼女は、「あなた。なんで、こんな無駄なことをするの。お金もたくさんかかるでしょうに」と、言われた。彼女は、お父さんが破産をしたので、大学2年次に中退して、日本航空のスチュワーデスになった。したがって。お金についてはシビアなのだ。

 ただし彼女が、以下に示すエピソードの後で、大学を卒業した資格を与えられていて、同窓会ウエブサイトにも、其のインタビュー記事が載っているのを見て、『うわあ、石塚雅彦さんの、強者の恣意も極まれりだなあ。こんなに、軽く、ごほうびをあたえられると、そう言う事が、アリの一穴となって、堤防も決壊することになるなあ。学校の、信用が、なくなるでしょうに』と、私は、思うが、CIAエージェントたちは、『うわーい。お前が損をして。お前の敵は得をするのだ。どうだ。まいったか』と、言ってあざ笑って居るはずだ。

 特に、其の同窓会展の、会期の前に、「私ね、もう、あの会って負担なのよ。やめたいのだけれど、人間関係も大事でしょう。それでね。鎌倉美術家協会展に出したものをまわすわ」と、言って居ました。で、それは、還元をすると「私の方は手抜きをするのよ」と、いう事と同義語です。それを、言った後で、私が気迫のこもった、しかも、100号の、大きな作品を出したので、彼女は、私が裏切って、出し抜いたと、思って、激怒したというわけです。

 でもね。私も、その時点で、彼女と同等にというか、彼女以上に、彼女に対して、怒っていたのですよ。だって、100号の大作といっても、非常に静かな雰囲気の絵なのです。相手を打ち負かそうなどという意図など、どこにもない絵なのです。ただ、それが、いい絵だと、いう事は誰にでも分かったのでしょう。渡辺幸子さんにも、むろん分かったのです。で、渡辺幸子さんは、私が、そのグループで、一番になるために、その絵を出品したと、誤解をしたのです。

 で、電話を使って、彼女と、同期の、人々に、根回しをしたらしくて、私は、普段は、もらえるはずの芳名帳のコピーももらえないことになって、『ここまで、彼女と、彼女と同学年に人々との間、6人ぐらいを相手に、感情がこじれたら、もう終わりだ』と、思って、そこも去りました。ロビーの背もたれがない形式のソファーに置いてある私の荷物も「置き方が汚い」と、言って、彼女に、床に、振り落とされましたしね。場所は、今は閉鎖されている望月画廊でしたが。本当にあらしの様な経験でした。彼女は、直近のガレリアグラフィカの個展で、体が、曲がっていました。腰を痛めたとか言って居ました。しかし、なお、執念を燃やして、画壇で、出世することを目指している模様です。ご苦労様と、言っておこう。(苦笑)

 その後、私の方は、国画会を去り、彼女は、私の敵となったので、CIAのご加護が入って、酒井忠康氏が、審査委員をしている、青木繁大賞展の、大賞を取りました。ほかにもすごくいっぱいの、ご褒美が、あります。でも、それを全部書いていたら、指原いく子さんに戻れないし、したがって、NKさんにも戻れないので、此処で、幸子さんと、富沢氏は、中断として、

 国画会の審査風景に戻ります。NKさんは、国展、第71回展(=1997年)に初入選をしています。しかし、第72回展には、落選をしています。でも、すぐ引き続いて開催される、女流展では、NKさんは、会員なので、無審査で、展示をされます。で、其れを見た私は、何故、国展で落選になったかは、わかりました。それは、お金と時間がかかっていない作品だったのです。国画会は、芸大閥が一番、強い公募団体です。で、平面(主に油絵)だったら、「油絵の具が、たくさん使ってあって、制作にも時間がかかっていますね.技術的にも高度ですね」と、いう様な作品でないと無理なのです。一方で、NKさんの作品は、木のパネルに、びっしりと、週刊誌の頁を、一枚ずつ縦横に、張り付けてあるものだったのです。

 私はね。・・・・・これを落選とするのは、いかにも国画会らしいが、かといって、この作品は、コンセプト重視の作品としてみれば、結構ともいえるのだから、落選はひどいなあ。・・・・・と、思いました。現代アートは、controversial でないといけないと、ニューヨークの、美大で、学んできた私には、十分に、controversialと、感じられましたしね。

 それにね。この1998年より前に、彼女は、三木多聞氏の推薦で、都美館の、一区画を借りて五人展をやっています。新制作だったら、25人、国展だったら、100人が展示できるスペースを一人で、使ったのです。そう言う実績について、尊敬の、念があるかどうかを知りたかったのでした。また、彼女が国展に、応募をしたのは、私の例を見たからだとも、わかっていました。私は美大卒ではないから、女流展でも、ひきがないので、絵がよくても、誰も、会員にしてくれません。しかし、自分一人で、事をさっさと、行う人だから、次から次へと、トライをして、事を実現をさせていきます。それも、素敵なことだなあと、NKさんが、マネをして、国展に出品をしたと、いう事もわかったので責任も感じたのでした

 私は、この時点では、既に国画会への出品をやめています。出品しているときには、親切だった人で、電話をかけていい人を、10人ぐらい知っているのですが、出品をやめているその当時では、誰もが不親切に変化しているのは、覚悟しないといけません。

 で、1991年ごろ(というのは、電話をかけている時期からさらにさかのぼって、10年以上は前の事だが)、オープニングの日の二次会で、「あなたは、どうして、ほかの人にビールを注がないのですか?」と、言ってきた人(男性で、年上の会員)を選ぶ事にしました。私は父がお酒を飲まない人だし、主人もそうだし、勤務先が東大だったので、そこで、同僚となった人々も、飲まないので、お酒の席では、女が男にお酒を注ぐという事さえ知りませんでした。(非常に天然の人で、しかも、常にものを考えているので、周囲の状況には疎かったのです。(は、は、は)

 でも、普通だったら、そう言う注意を、初めてであった人にしないでしょう。でも、その男性作家は、注意してくれたのだから、非常に正直な性格の、人なんだと、思って、その人を選んだのです。この判断は、当たっていると、別の人に後で、言われました。超正直な人なんですって。

 ただし、足抜けが厳しい公募団体展で、足抜けしてしまって居る私ですから、不親切な対応を受けるのは覚悟の上です。ここは指原いく子のケースとは、違います。がラリーオカベでの、個展の初日という無礼な事や、失礼なことが起きてはならない場所で、ありえない筈の、意地悪をされたり、軽蔑をされたりしたので、びっくりしたのですが、最初から、嫌われることを覚悟で、電話をしている、今回は、何を言われても、驚かないというわけです。

 予想通り、相手は、すさまじい剣幕で、どなりました。「あんた、何、言って居るんだよ。あんなの、だめだよ。だって、新聞ざたを起こしたんだぜ」と。私はね。逗子で、一人暮らしをしている時期には、新聞もテレビも読んでいません。だから、その間だったら、知らないこともあるでしょう。

 で、自分の知らないことを知りたいと、思って、上條陽子さんに電話をしたのでした。そして、副題3に書いた事情を初めて知ったのです。その上條さんとの電話を、これまた、盗聴をして、杉並区の空き家特集という、対、私いじめの番組を作ったのでした。

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副題6、『なんという残酷な事だろう。家を出て、別のところに住んでいる坊ちゃんさえ、NHKテレビカメラは、訪問をしている。無論。モザイクがかかっているが、坊ちゃんは、がけ下めいた、環境の悪いアパートへ住んでいるみたいだった。私は、この空き家特集が、対、私いじめだと、確信をして、たまらない思いに駆られて、その晩、高橋和さんへ、電話をかけた。私は外部へは、秘密にしていたが、女流画家の中では、高橋和さんが、きわめて、才能が高く、かつ、人格も高いと、認識していて、大好きだったのだ』

 私はね。高橋和さんとは、度々、電話を交わしている間柄です。そして、絵を一点だけですが、買って居ます。上條陽子さんは、ちょっと、耳が遠くなられたのと、二つのポイントで、考えが合わないと、感じたので、電話をかけるのもやめているし、友達であるとも、もう、考えていないのです。

 しかし、この2009年1月の、深夜の電話が盗聴によって、敵方に知られてしまって、高橋和さんは、向こう側にもぎ取られてしまいました。そのことは、彼女が、ギャラリーアーチストスペースで、個展を開くこととなって、それで、理解をしました。しかし、2018年に開かれた、和さんの個展の時には、私はロビーの真ん中の椅子に座って、五分以上、長話をしました。それは、『いよいよお別れしますよ。だから、これから、先は、和さんの名前を出して、ものを書きますよ』と、いうお断りを、暗示して置こうと、思ったからです。そして、和さんなら、たぶん、其れが、わかると、確信をして、人が大勢見ている中で、交流を温めていました。すると、私の背中で、木内万宇さんが和さんに、指原いく子と、ほぼ、100%同じ合図を送ったのです。

 私はね。和さんの、目の中に浮かんだ表現が、例の日、ギャラリーオカベ内で、いく子さんの夫の目に浮かんだ表現と全く同じなので、瞬時に事態を察しました。しかし、一応、木内万宇の合図は、無視して、しっかりと、最後まで、あいさつを交わした挙句、画廊を出るときに、今度は、彼の方に向かって、「木内さん、私って、背中に目が付いているのよ」と、は、言っておきました。(苦笑)

 しかし、彼の行動は、月8万円の謝礼を、もらえるか、もらえないかが、かかっていると、思ったので、指原いく子ほど、憎悪の感情は抱きませんでした。特に月曜日は、宮本和雄さんと、一緒に仕事をしますので、彼から、秋山祐徳太子に、告げ口をされたら、困るだろうと、思ったからです。本当は、木内万宇に関して、いろいろ、もっとエピソードを書きたいのですが、この章は、女性を中心にしたいので、先へ進みます。彼は、一応、男でしょう? お嬢さんもいる人だし、同性愛気質を見せる、人物でもないですが、しかしねえ。「あそこで、ああいう合図を送るとは、あほですなあ。飛んで火にいる夏の虫とは、あなたの事ですよ」と、言っておきましょう。

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副題7、『番組はさらに恐ろしい典型を見せた。誰を指すのか、企画者側には、120%分かっているのにもかかわらず。鎌田靖キャスターは、ミステリー仕立てとして、空き家の持ち主を探すという挙に出たのだ。それで、若い女性学芸員が、画面内で、資料をあたり、何とか、展覧会に、出しています」と、か、言う。その時に出た、展覧会とは、女流展ではなかった。女流展だと、NKさんは、既に、会員以上に役割を担って居て、委員をしている。だから、「女流展の、カタログに、名前が載っています』と、彼女が言ったら、より多くの人が、この空き家に住んでいた人が、NKさんだと、理解して、この番組に対して、『ひどいなあと、言う怨嗟の声が上がると思う。

 もしかしたら、私と和さんみたいに、すぐ、誰のことを指すのかが、わかった人は、大勢いて、「NHKは、ひどいねえ」t、言いあったのかもしれないが、それらは、秋山祐徳太子が、放ったスパイによって、把握をされ、美術9条の会などを通して、けん責を受けたはずだ。ひどいことだが、それが、まかり通ったのだった。それが、通ったからこそ、それ以降、やまゆり園事件の様なうそ(19人は、死んでいない)が、通るものとして、実行をされた。

 そして、北側純一郎が、現れる「

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後注1

後注2、

Nスぺ空き家特集・杉並篇は、日馬富士暴行問題と、同巧異曲である。北側順一郎、中島三枝子、嶋田章三、大沼嘉津江、杉本正子    2017-11-21 19:30:12 | 政治

 

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