昨夜、イスラエルガザ地区における、紛争の、よって来る由縁について、少し書き始めました。しかし、妨害が莫大なので、少し書くのを待ちたいと思います。その代わり、連続性のあるものを書き続けたいです。この一文は、最初、スマホの音声入力で書いて居ます。敵が居る私は、めちゃくちゃな誤変換を生起させられて、意味が分からないまま、後悔していた時間が長かったと思います。それは、お詫びします。16日の午前一時半にやっとこの部分だけは、完成しました。だけど、これで、渡辺幸子さんの分析が終わったわけではないのですよ。これで、半分程度です。
これは、前報
(これを後註1とする)
の続きです。だから、副題3から始まります。しかし、本当は、さらに前のブログ
(これを後註2とする)
の続きとなります。実際問題として、私はNHKニュース内に違和感を持つニュースを発見したりして、あれ、テーマを変えるべきかなあと、思ったりしますが、ずっと、渡辺幸子さんとの、確執について、書き続けているのは【中勘助の恋】富岡多恵子著、1993年刊、創元社版を、読み続けていることが、大きな影響を与えています。嫉妬の問題、そして、ある人が別の人を悪人にしてしまう事・・・・・などを中勘助の人生を通して学んでおり、それの実践的展開例として、渡辺幸子さんとのことを書いて居るのです。
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副題α、『中勘助は、一時期、非常に性格が悪い時があった。それを安倍能成が、記している。しかし、彼が、その様に悪い人格になったのは、14歳年上の兄の、激しいいじめで生成した性格であった。それを直していったのが兄嫁の末子さんだった』
中勘助という作家は、一高と、東京帝大文学部時代の、友人には、この上なく恵まれています。ここで、取り上げる安倍能成とは、のちに、一高・校長、学習院院長と成って行く紳士ですが、大生三年(=1914年)比叡山で同居しています。中勘助は、すでに、朝日新聞に【銀の匙】の連載を済ませています。が、安倍能成は、2歳年上です。当時の、雰囲気だと、二歳年上では、相当に、尊敬しなければいけない間柄でしょう。だが、とんでもない、セリフを勘助は安倍能成に浴びせかけるのです。
・・・・・私の畳を掃くのを見て、彼が「どんなに僕に気に入られようと思ったって駄目だよ」と言った詞に対しては、私は、実に生意気野郎だと思って、怒り心頭に発したことがある・・・・・
それは、雑誌 心 に1965年に発表された文章でタイトルは、【中勘助の死】ですが、それほどに嫌な性格になったのは、次兄のせいでした。兄からの絶え間ない…卑劣な威嚇、暴行によって、人格崩壊の危機に瀕していました。ほかの兄は、早世しています。
富岡多恵子の書物、【中勘助の恋】122頁から、124頁まで、中勘助が、兄嫁末子によって救われたことを書いてあるのですが、それは、安倍能成も、同上の文章の中で、記しています。
ここらあたりを読みながら渡辺幸子さんを考えると、田沢茂教室の中で、絶え間なく、いじられる(これは、現在の流行語で、芸人が、他者をからかったり虐めたりしてお笑いをとる事を指す)一方で、田沢先生が桜井陽子さんを大切に敬愛するのを見せつけられていて、それに翻弄をされて苦しんでいたからこそ、人格が劣位に陥っていたのだと思います。
という前置きを入れて、前報(後註1)の続きに入ります。副題2まで、そこで使っていますので、ここでは、副題3となります。
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副題3、『私は、渡辺幸子さんが電話内で、話すことには、共感が出来なかった。ただ、大学の先輩だから、承っていて、決して批判をしたりはしなかった。だが、人生の目的が違うとは、考えて居た』
ともかく私は、アートを、出世の道具とは、考えていない方ですが、文章も絵画もたくさんの人に読んでもらったり、たくさんの人に見てもらうためには出世したほうがいいんですよ。
だけど、それが、わかっていても、渡辺幸子さんの電話に共感が出来なかったのは、彼女があまりにも、新制作の会員になれないことを愚痴るからでした。その陰に、渡辺幸子さんが、大きくいじめて来た2002年の、望月画廊での経験のさらに、三年前に、ニューヨークで、経験したことが大きく影響をしています。
以前書いたNYの美大の教授Msデニス・ムーランを自分の行動の結果、辞任に至らせてしまったやすこ=滋賀県にあるせいあんと言う美大を出てきてニューヨークの美大の大学院に留学してきていた25歳の女の子=が起こした、殺人未遂事件に等しい、大騒ぎが影響をしています。彼女は、はっきりって悪いけれど美的才能は無いです。それなのに、ただ、ただ、絶対の勝者になるためにアートを利用しています。その道で、有名になろうとしてニューヨークに来ています。彼女は、これも、まことに申し訳ないけれど、はっきり言ってしまうと、背が低くてお顔も綺麗じゃないです。だから日本において、特に20歳位までにおいて恋人ができなかったと推察しています。で、普通の結婚は無理だとあきらめて、別の道・アートで出世して、自分をはねのけた、人間たちを、見返そうと考えていました。が、無理がたくさんあったので、版画家にとっては、優に殺人未遂事件に等しいというような事件を起こします。塩化第二鉄原液と言う猛毒2リットルという大量を床にひっくり返すと言うことをやったので、それが、学内に寮(11階建て二棟)を通じて一気に広まり、彼女がサポートしているつもりの教授が大学をやめないと、いけなくなったのです。やすこは、教授Msデニス・ムーランの私に対する嫉妬心を先取りして、私をいじめて仕事ができなくなるようにさせると、教授を助けることになると、考えていた女です。そう言うすさまじい、嫉妬心の発露を、1999年にNew yorkで、経験して帰国していますから、渡辺幸子さんからの電話を聞いていてもね、共感が、できないのです。あまりにも新制作の会員になることに固執していますので、そんなことには、すでにこだわらなくなっていた、私は反論はしないのですが、共感もしないのです。
私のほうはね、もういい加減、上野の公募団体、に嫌気がさしていました。もともと誰かの紹介とか誰かの引きで国展やら、女流展に、入選してるわけじゃない、全く自主・独立した画家ですから、そこから身を引いても、誰に迷惑をかけるわけでもない。
だけどね、ああ言う世界ってやくざ組織みたいな足抜け禁止の側面があるのですよ。だからやめるのはすごく大変です。裏切り者扱いになっちゃうのでね。やめるとか身を引くとか、そういう事は秘密裏に実行しないとダメなんです。どうしてそうなるかというと、ちょうどそのころ、公募団体展の、人気が下がり始めていた時期で、したがって、危機感があるから、出て行く人を抜くむという現象が強かったのです。
で、私は渡辺幸子さんのいろいろな思惑とか、思いのたけを電話で聞きながら、「自分の方は、あなたとは違って、もう公募団体展を辞めるつもりですよ」と言う事は一切言いませんでした。
で、辞めるか辞めないか‥どうしようかなあ、と、迷っている最中に作った油絵正方形(163x163cm)を望月画廊の、国際基督教大学、同窓会展に、持ち込んだのです。
望月画廊と言うのは、今は、もう閉鎖してしまっていますが、絹谷幸二さんなどをトップとする独立画家協会の人が、主に個展用に使っている画廊で、女流展と独立の両方に作品を出している。上條陽子さんなどは見に来てくださると言うことを、私は信じていました。国画会会員と一般出品者合わせると、700人を超します。それらの人には、見てもらえなくても、上條さんひとりだけにでも見ていただきたいと思って、そこに出すことにいたしました。
ところがね、たまたまその同窓会グループ展の前に、渡辺幸子さんが私に電話内で、こう言って居たのです。「私ね、ほらあそこなんかね、全然、役に立たないでしょう」これはあくまでも、プロの画家の出世という意味で、役に立たないと言っているのですよ。確かに大学同窓会なんて新制作で、審査権を持って居る人は、見に来ないです。素人の集まりだろうと、みなされていますから。だから切った張ったの競争をしている公募団体展の今から会員になろうとしている渡辺幸子さんにとっては、どっちでもいい展覧会なんです。
でもね、渡辺幸子さんのご主人っていうのはICUで、幸子さんと同期の方です。だからその展覧会に見にくる人にご主人の友人が居ます。また出品している同期生も数人いるのですね。だから、彼女の方は、出さないわけにはいかないのです。で、続けて「鎌倉美術家協会に、出した6号をそっちに回すつもりよ。だってね。銀座の画廊巡りをする人と鎌倉美術家協会展を見に来る人って全然違うでしょ。だから重ならないもんだからそっちに回してもいいのよ」と。でね、私は、それは彼女の方針ですから、どうぞです。批判はしません。
そして私のほうは誰にも言えないが、国画会も女流展もやめるつもりだから、これが最後の大作の展示だと考えて・・・・・非常に念を入れて作った作品を、望月画廊に展示をしたのです。その時、私の心の中では、渡辺幸子さんを負かしてやろうなんて言う考えは、一切ありませんでした。彼女は彼女です。私は私です。処が大変な誤解を受けてしまいました。つまり、私が、彼女を負かすために、彼女が6号を出すと、言うのに、乗じて、大作を出して、そのグループ内のトップを取るつもりだと‥・・・それが、大変ないじめに繋がっていたのです。
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副題4、『渡辺幸子さんが、一瞬くるったのは、私が100号という大作を出して、裏切ってきたと思ったからだけではなかった。その時の私の絵が、所謂成功作で、非常に良かったので、彼女は焦りまくってパニックになったのだ。特に同席していた朝日新聞外信部の偉い人に数年後、青山で、あった私は、かれから、深い同情を得て、それを確信をした』
ここまでのことは、何度も書いて居ます。しかし、これから先、今まで、絶対に語ってこなかったことを書きましょう。
それは、その時の100号が、ものすごくよい絵だったと、言う事です。
たからこそ、ニックになったと、思いますよ。
だけど、その時、64歳であり、お子様二人を栄光(神奈川県一入試の偏差値が高い私立)から、上智大学、そして、外資系金融機関(現在の日本で、もっとも高給を食むクラスです)に勤務させ、夫は外資系企業の社長です。
フェリス出身で、ICU入学というのは、1950年代の高校生にとっては、知る人ぞ知るエリートコースです。特に鎌倉在住の人は、そのランクを知っている。で、何もかも恵まれている彼女が、あれほどのパニックに陥ったのは、絵を描くにあたって、田沢先生の言う事だけを聴いていて、主体性がないからだったでしょう。その上に他人の絵など、見もしない。他人の絵を見て、自分の立ち位置を勉強すると言う事もない。
で、初めて、私の油絵に接して、驚き入ってしまって、あれほどに、自分を失ったのです。でもね。普通の状態だったら、「あら、いやだ、川崎さんったら、大きいのを出して、私より、勝つつもり?」ぐらいの軽口をたたいて、にっこり笑うぐらいで、終わらせるべきなのです。それで、おしまいと言う事でしょう。
で、私は、そこまで言われたら、ずっと秘密にしていた、例の話を、出したと思います。「ああ、渡辺さん違うのよ。私ね、四月末の、国展の搬入の日に、今年からは、もう、持ち込まないことに決めたの。国画会へも接触するのをやめるし、女流展にも出しません。だから、去年から準備をしていた作品をここに回したのよ。あなたと勝負しようなどとは、みじんも思っていません」と言ったと思います。それで、「あら、そうだったの」ぐらいで終わるはずです。
その時の彼女が、どれほど、鬼の様だったか。そして、数年後に「曼殊沙華の絵を返して」と私の不在の家に電話をかけて来て受け取った時の彼女の顔、・・・・・それも鬼の様でしたよ。
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副題5、『ここで、栗田玲子さんが、鎌倉駅のトイレで言って居た、「川崎さんって、怖い人なんですってね」というセリフを解説しないといけなくなった。私はただ、負け切って、その会を出ただけである。2002年から、ずっとそのまま黙って負け続けていた。鬼の様に怖かったのは、渡辺幸子さんの方だった。2007年ごろ「貴方に、1999年ごろ、売った曼殊沙華の絵を返して」と、鎌倉駅まで、取りに来た時の彼女の顔も、鬼みたいだった。
でも、彼女が怖がるのは、2002年の、望月画廊での、大騒ぎのいじめの後で、私が、その会を退会したからだった。それが、彼女にとって、汚点になったから、彼女は、私を怖い人だと、言う事になったのだ。スチュワーデス時代に、女性同士のいじめは、盛んにあったであろう。で、ライブで行う、勝ち負け問題は、あっても、わたくしの様にさっと、身を引いてしまう様な解決方法は、幸子さんの辞書には、なかったのだと思う。ともかく、わたくしは渡辺幸子さんと、自分を比較すれば、自分の方が無欲だといえると思う。
中学時代にすでに、中勘助の提婆達多を読んでいて仏教とは何かと、考え抜いている私である。彼女ほど、欲張りで、画壇(特に公募団体展)での出世を考えていない。
どうして汚点になったかというと、ソファーから私のバッグ類を投げ落としただけではなくて、電話でも、12名の会員のほとんどに、私に関する詳細な悪口を言っておいたから、私が辞めるとなれば、原因は、渡辺幸子さんにあると誰もが判るからである。
そして、彼女は、時間がたてば、冷静になるだろうし、石塚雅彦さんから、「川崎さんは、文章力があるから、いずれ書くかもしれないよ。穏便にしておいた方がいい」と、忠告をされたりすることもあっただろうと思う。そいわれれば怖くなるだろう。
私は、実際に書くつもりだった。損失を、その瞬間は、受け止める。ただし、そのまま、ほうっておいたら、わたくしの頭がおかしくなる。物事は、左辺と、右辺をイコールにしておかないといけない。渡辺幸子さんは、その後、CIAに、利用されまくって、出世しまくる。
青木繁大賞展の大賞をとったのも、その、一つであろうし、ICUは、中退なのに、卒業したことにしてもらって、かつ、渡辺真理アナのインタビューを受けていて
に出ています。ICU同窓生の中で、塩見和子(日本財団で、クレモナさんの、古・弦楽・楽器を演奏家に貸与する仕事をしている)さんよりも松岡佑子(ハリーポッターの翻訳家にして、出版社社長)よりも先に、登場しています。
だから、特に、書いてもよい対象になったし、政治を分析する、一個の、そして、好個の材料になってくれているからだ。それは、ご近所連中の場合と全く同じである』
私が渡辺幸子さんと、自由に電話を交わしていたのは、逗子のアトリエを持って居た時代でした。そのころは、夜も電話が出来ました。ところが、この騒動が起きたころの私は、もう、夜は、鎌倉の家で寝るというせいかつにもどしていました。昼間はサラリーマンと同じ様にアトリエに通って居ましたが、夜は鎌倉へ帰る生活形態に戻していました。背中に激痛が走る病気をしてしまって、それを治癒してくれたのが、東洋医学を学んで、57歳から鍼灸医に転身していた主人だったからです。しかし、鎌倉の家で暮らすと、いろいろな意味で、自由がないのです。この大学同窓会展の最終日の土曜日に銀座に出かける自由がないのです。で、絵は専門業者に、画廊から、5時半に引き取って、鎌倉まで、持って帰ってもらう事をお願いが出来ますが、芳名帳を見ることが出来ません。木曜日が、渡辺幸子さんの、バッグを床に落とされたほどの嫌な思いをしたお当番の日でしたが、その日の午後四時から、土曜日の午後ごじまでの、ほうもん客の署名をみておりません。
もし公募団体展、国展と女流展に出さなくなると、足抜けをした人として、激しい阻害を受ける筈なので、もう、見てもらえないはずです。だから、上條陽子さんに観てもらうのはこれが最後だと、思って、絶対に、来てもらいたかったし、来てくれているかどうかも知りたかったのでした。
その時より前までは芳名帳のコピーが、全員に配られていたのです。だってね。この会に属してる人はまぁまぁ富裕な人たちばかりです。だから、100枚ぐらいのコピー代など、事務局長さんは、屁とも思っていなかったはずです。または参加費内で、処理できる金額だったでしょう。
ところが、急にそのとしだけ、コピーがもらえないことになったのです。で、土曜日に行かれなかった私は、事務局長さんにでんわをかけて、「一旦郵送で貸していただけませんか?後でお返しいたします」と言うと「だめです」と言われるので、「では、お宅をお訪ねいたしますから、玄関先で見せていただけますか?」というと、「それもだめです」ですって。ともかく私を「悪い人間だ。だから、不親切にしてやろう」と頭から思っていらっしゃるから、どうお願いしても、芳名帳を私が見る事は叶わないのでした。
その時ね、それまでとても親切だった5歳年上の、しかも、その時より前までは、紳士であった事務局長さんがこれほど、不親切になったのは、渡辺幸子さんが、どれだけひどい悪口を、私に関して言いふらしているのかと言うことが、明瞭に分かりました。でね。『ここまできたらもうこの会には参加しないほうがいいな』と私は判断をして、同じ電話で事務局長さんに 「あの、私この会を止めます」と言いました。すると彼はびっくりして「どうして?」と言われるのですが、私の方としては、もうすごく複雑ないきさつがあるわけで、説明をするのはあきらめて、ただ単純に「やめますと、言って電話を切りました。
私にとっては既に、修復不可能です。一年後ぐらいに次の回が来るわけですが、その時どんな顔して参加します。こうなると、こっちが辞めるか、渡辺幸子さんが辞めるしかないんです。しかし渡辺幸子さんのご主人と、この事務局長さんはたった250人位の同期生(=1957年入学組)として、43年間の長きにわたる友達なのですよ。そうすると、何をどう説明したって、この事務局長さんが幸子さんと私の、今回のごたごたを正しく理解する日は来ないと思いました。ここは私が引くしかない。
幸子さんの方は、新制作を、絶対に、やめないのですから、このだいがく同窓会展なんて、どっちでもいいのです。だけど、私の方は、上野から、撤退するのですから、小さな会であっても、ここが大切です。しかし、こっちが辞めないといけないのでした。それって、私にとっては、悲劇です。その悲劇を演出した人が幸子さんでした。
しかし、私は内心で、こう考えました。私には文章を書くと言う楽しみがある。そしてそれを紙の本にしようとする目的がある。そっちに集中しようと考えると、負けが負けだけではないんですね。ある意味で、ちょうどよかったということかもしれないのです。
それにねシューベルトが大好きで、彼の人生を研究している、私です。そこで、わかった事は、天才の活動期間て16年か18年なんです。私ね。1980年に銀座で一回、個展しています。毎日新聞にちゃんと案内を出してもらっています。上條陽子さんと同じ週です。でね。この2002年は1980年の個展から数えると22年目です。しかしその個展は北久里浜に住んでいる時に行っていて、公募団体展とは、関係がない時期でした。
で、1984年に鎌倉に引っ越してきてからある人の紹介で、1986年から、神奈川女流展に出品することとなり、そこから考えると、100号以上の大作を描く期間として、すでに、16年に到達しているのでした。自分が天才というわけではありませんが、創作をする人として、最も良い作品ができるのは、16年間か、18年間と言うのは、シューベルトに限らず、他の天才作曲家を見ても当たっていると思われます。そうか、じゃあここで、文章の方へ移転をしようと考えたのです。
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副題6、『ここで、熊沢淑さんが、登場するのだなあ。いろいろ、ごっちゃまぜだけど、人間の心の不思議を書くためには仕方がないのだ』
「大学同窓会って素人の会だから、渡辺幸子さんにとっては、(自分の新制作の会員になりたいと言う希望には全く役に立たない展覧会だから)、小さくて、しかも鎌倉で発表したのを持ち込むつもりなのよ」と、安心し信頼して私に語っていたら、なんと川崎千恵子はそれを裏切ってプロ向けの作品=国展または女流展に出すような100号の抽象画=を出してきたなんて、ひどい女なのよ・・・・・というのが渡辺幸子さんの2002年の2月の考え方だったでしょう。私は同じ日にお当番をしに現れた、彼女にさんざん怒鳴られた上に、自分が平型のソファー=肘掛けとか背もたれがない形のソファーの上に置いていった荷物を、ぴょんと音を立てて床に落とされたのです。
その時ものすごくびっくりしてね。初めて、渡辺幸子さんが嫉妬のあまり、ヒステリー起こしてることを、理解したのですよ。それから後がまたあるの。私はね。2002年にはもう鎌倉の家へ帰っていました。それでね。外出がままならないのです。鎌倉の家族は束縛が厳しくてね。外出がままならない。それで土曜日は最終日ですが、餌を運ぶ専門の業者さんに持って帰ってもらう。まぁお金を出すわけですが、薬餌を運ぶ専門の業者さんに持って帰ってもらうように頼んだだけで、土曜日には画廊に行きませんでした。そうするとグループ全体で1冊だけある芳名帳を見ていないわけです。途中までは見たわけですが、最後までは見ていない。そうすると私が自分の100号の絵を見てもらいたかったが、大切な人たちに、見てもらったかどうかがわからないわけです。
それでね。上の方では、上條陽子さんの名前を挙げています。
しかし、礫というグループの人にも、見てもらいたいという願いがありました。そこの指導者は小関利雄先生と言い、元横浜国大教授でした。つまり、田澤茂先生とは非常にカラーが違うのです。そこは新制作に作品を出す人たちの集まりですが、一人が既に新制作の会員で一人が協友でした。25年以上前のことです。ほとんどが絵を描く人達です。だけど作家ではない人が一人だけ居ました。高橋裕子さんと言って、のちに学習院の教授になり、サントリー学芸賞を受賞する人です。上智大学出身。
@@@@@@ここが、推敲中の最先端です。
後の人はみんな神奈川女流展と言うところに出品していました。それで私も神奈川女流展に出品することになりました。しかし、私は小関先生に、出品作を見てもらっていません。私は小関先生がお出しになった課題を、次の回までに8号とか10号の油絵で描いて持っていっていろいろ先生と検討しあいましたが、他の人は神奈川女流展に出す予定の作を木枠からから剥がして丸めて持ってきて、先生にいちいち、ここをこうしたらいい、ああしたらいいって言うご指導を仰いだうえで、それを指導通りに直してから神奈川女流、に出品していました。
ここですが田沢先生と、渡辺幸子さんとの関係を考えると、その指導量が全く違うのです。小関先生は、ほんのちょっとを、特に、画家に考えさせる風におっしゃる。しかし、田沢先生は、朝令暮改で、新制作に出品する前に、四回ぐらい方針を変えて、指導をされるそうです。それじゃあ、本当に主体性が無くなってしまう。小関先生の方は、一回だけだったと思いますよ。そして、非常にシンプルで、画家本人を生かす方向で、指導をなさっておられました。
私は小関先生を尊敬していますけれど、絵の描き方について誰かに指導受けるなんて言う事は、ちょっと考えられないんですよ。それがまぁ2代目であるって言うことの証拠ですね。ここで、私が二代目の画家であると言う部分の説明が飛んでしまって居ます。初稿をスマホの音声入力でして、誤変換だらけの、ママにしておいた間に、そうなったのです。どうしてそうなるかと言うと、父が絵に関して高い評価を貰って居たことを書いてある新聞記事の切り抜きが11枚も盗まれて居て、国会図書館からも、マイクロフィルム化を理由に、満州の新聞は、文化面だけ、マイクロフィルム化されていなかったのです。その上、メルマガか、ブログで、それを書くと、マイクロフィルムそのものが劣化したとのことで、私は父の業績を復活できませんでした。非常にオーソドックスな油絵で、中国の遺跡を描いていたのです。そして、ラストエンペラーの宮殿やら、満映理事長甘粕(旧・大尉の部屋)などを飾っていたのでした。本職は石油が専門の技師です。それが、休日に、暁の超特急に乗って、北京他に出かけていたのでした。それ等の切り抜きを盗んだのが、今私を苦しめて居る敵だから‥・・・このことを一般の人へ知らせてもらっては困ると、言うわけです。で、元へ戻ります。
1代目の人はね、絵画界の状況がよくわからないし、自分が出品をして落選したら、はじをかいてしまうでしょ。それは嫌だから、小関利雄先生に事前に判断してもらって『これなら大丈夫ですね』って言う言葉に出さないお言葉をもらって、安心して出品する。そういう作業を経て出していました。だけど私にしてみるとね。ほんとにね、それって、おかしい。となります。立派な方であっても、先生に指導を受けて、こうしなさいと言われた上で出品するなんて、ほんとおかしいというのが、私の考えです。だから神奈川女流展に出品をする際に、事前に、小関先生に批評をしていただいた事はありません。
しかし、そのグループを退出することになりました。私は実は同じグループの中の事務局長役・熊澤としさんと とんでもない問題でトラブルが発生したのでした。先生の生徒として、あまりに、会話のピントが合ってしまったので、先生と愛人関係に成ろうとしていると、疑われてしまったのです。全然違うのにと、残念至極な事でした。
熊沢さんこそ、先生との、恋愛で、ご自分も離婚に至ったし、先生をも、離婚に至らせた人なのですよ。ただね、どうして、今こう言う事を書くかと言うと これも渡辺幸子さんの嫉妬と誤解による暴力の発露と構造が全く同じだからです。ただ、熊沢さんは、隠々滅々たる表現で、一年間にわたって続いたのですが、それに、比較すると、渡辺幸子さんは、すこぶる明快な、表現という違いはありました。ただ、渡辺幸子さんの方が強烈です。非常に強烈です。笑っちゃうほど、いじめ方が強烈です。スチュワーデスの世界って、そうなのでしょう。きっと。
私はね、小関先生との間に恋愛関係を持ち込もうなんて、これっぽっちも思って居ないのです。しかし、そのグループで質疑応答するのは、高橋裕子さんと私だけです。彼女は学者の卵で絵描きでは無い。
私はねそんな事は狙ってないんです。しかしね。まぁこの時(=1986年)から12年後に日笠雅水さんという有名な女性に手相を見てもらって、私が実は瀬戸内寂聴さん風タイプの・・・・水も滴るいい女だったっていうことがわかってね。それで、誤解をされたのかなあと、思います。
唯ね。本日も歌舞伎座に行ったら、エレベーター内に鏡があるのです。それを見ると、今の私は、背中が曲がっていてね。母に「あんたは(女としては)大丈夫。別に卑下することもないし、負ける筈もない。だって色が白いから」と、言われていた若いころとは、雲泥の差です。顔には、シミが出来ていてね。・・・・・上の様な文章を書いて居る自分が、鏡を見ているうちに、おかしくなって、笑っちゃいます。が、1980年代は、熊沢淑さんに、員隠滅滅たるいじめを受ける。それは、小関先生の取り合いで、というのは、本当に、そうだったのですよ。
小関先生とは、ただ、ただ、絵または、美術に関する会話をして居るだけであって、先生が出した課題を次の回まで8号とか6号の油絵小品で、実践してくる。それだけのお勉強の関係だと思っているのですが、他の人とは、会話の目的が違うので、早めに行って、先生との会話を楽しんでいました。それがね。熊沢淑さんにはね。いやな感じだと、受け取られたらしいのです。
ご自分が先生を離婚させた方なのです。それでもね。先生と同居をされているわけではない。先生がご高齢だから、先生のお暮らしはお寺の保護のもとに、行われているんですね。ああ、ここが中勘助に似ているところです。中勘助も、全国のいろいろなお寺で、文章を書きながら、暮らしてきた人です。
小関先生を引き取ったお寺さんは、横浜国立大学で、先生の学生だった方が、奥様だから、先生を引き取ったのでした。先生の、ためにプレハブだけど、一戸を建ててあげて、「そこに寝てください。ご飯は母屋で皆さんと一緒に食べましょう。お風呂も母屋をお使いください。トイレも母屋をお使いください。そしてアトリエとしてはお寺が経営している幼稚園の教室を、お子さん方が帰った後、またはお休みの日に朝からお使い下さいませ。広いです」と言うふうに
先生に、おっしゃっていたと、感じます。だけど、先生が離婚なさる頃ね。何かがあった可能性は高いんです。プラトニックラブなのだと思いますね。だけど、プラトニックラブだからこそ、熊沢さんの先生を自分以外の、他人に取られたくないって言うね。すさまじい執念を感じました。ボディーランゲージです。ボディーランゲージで感じました。私ね。これが1986年か7年頃の話として、その後1999年と2000年にニューヨークに行って日本人女性にいじめられます。その時戦ってね、簡単に勝っちゃった。言葉だけで勝てるんですよ。どうして勝てるかと言うとね。みんな自分のこと知らないんですね。だから、「あなたはこうこうで、私はこうこうです」と状況を、私の目から見てですが、説明すると、突然けんか相手が覚醒するのです。それで、勝つのです。こっちが値。ただ、恐るべき人もいて、復讐されたりもするんですけれども、ともかく私の目の前から消えるんですよ。だからまぁ一応、勝ったって言うことなんでしょう。
でも私のほうは期限があって、日本へ帰るわけですから、相手は、私が日本へ帰ったら、『こっちの物さ』いんだよと思ってるわけでしょうから、実際には勝ったか負けたかわからないんです。けれども、ともかく私が冷静に状況説明するともうびっくりしちゃうみたいですね。それだけみんな、ものを考えてないんですね。私は考えることが大好き。だから何が起こっても、深く考えます。そしてね、相手の態度が理不尽で、悔しいと、もし思うのだったら、必ず将来文章で書こうと固く決意してます。
それはね不合理なこととか、不条理なことを許したくないのね。だけど、相手と喧嘩したり、相手と戦ってもね、何の実もないですよ。非常に無駄なのですよ。だからたいていの場合は、負けると言う形を取っておいたほうが楽なんです。
そして将来その悔しさは文章に書く。読ませる相手は神様ですよ。この世にはね。超えられないものもある。でも超えられないものの、その壁のさらに上にいらっしゃるのが神様だと、信じています。その方に聞いていただくために文章を書く。
本当はね熊沢淑さんなんて言う実名を書かなくてもいいんですよ。
だけど私は熊沢さんからではなくて、他の方面から命を狙われていますからね。
その被害を取り戻す時に、弁護士さんが相手側にすでに、篭絡をされていて、頼めなくなったのです。
1977年に助けていただいた栗原弁護士は亡くなっているし、そのご長男も弁護士だったんですけど亡くなっているし、おcyだいふぞく高校の同期生だった青山敦子弁護士には断られているし、「彼女は敵がCIAでは、大きすぎるので、引き受けるのは嫌だなっ」ておっしゃいました。中学の同期生である方の奥様、これも東大卒である弁護士にも断られています。そしてね、世の中には冤罪・逮捕にしっかりと戦う弁護士もいらっしゃいます。なりすまし疑惑の片山雄すけ事件の時に有名な弘中惇一郎弁護士が乗り出してくださったのですが、途中であきらめてしまってらっしゃるのね。
何かが、裏であったのでしょう。有名なあの方も諦めて、片山雄介くん、は、有罪になりました。弁護士も個人事業主なのだと、考えると、もう、弁護士にはだれも期待できません。
だから自分1人で戦うつもりです。となるとね。あらゆる現象を見つめて、記録しておかないとならないのです。だから熊沢淑さんの「小関先生は、自分のものだから、あなたは、出しゃばらないで」、と言う激しい激しいボディーラングにねも、ばかじゃないから気が付きます。そして、次の様に考えました。私って、すごく良いものに出会っているんだけれども、継続しないなあと。でもいいんです。凄く良いものに次から次へと 出会っている。でもね、それを書くとその人が裏切ってくるから、もう、どんな人のことも書きません。最近のは特にね。だから、今渡辺幸子さんは、熊沢淑さんのことを書いて居るのです。(苦笑)
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副題7、『熊沢淑さんと、小関先生の本当の関係を、私は当時から、読み取っていた。小関先生と、離婚した奥様との本当の関係・・・実は小関先生は、それを回復することを願っておられたが、奥様は、すでに亡くなっていた。それを、考えたからこそ、林真理子の【奇跡】を、全く美しくない、ものがたりとして、読んだ。特に、田原氏は、博子さんとの再婚を後悔していた筈だと、言う風に読み解いた。したがって、奇跡でも何でもない。ただ、ただ、勝気な博子さんの成功譚を聞かせられているだけだ。だが、彼女は成功したつもりの結婚も、実は相手が、ひそかに公開をしていたと考える私は、二人の関係は、美しくは、ない単純な不倫であり、読後感は、非常に悪かったと、言っておこう。ただ、林真理子は、公的巳は、自分を死んだことにしているが、実際には、生きていて、日本の帝王を自負しているであろう井上ひさしのお気に入りだから、マスメディアからの批判はない。林真理子を持ち上げるために日大は、アメフト問題を起こされて、大損な被害を被っている。大麻問題も林真理子を持ち上げるために使われた話である』
熊沢淑さんが、私に対して、異様な嫉妬心を示したのは、実は、小関先生との関係が、確たるものではなかったからでしょう。二人とも、離婚になったのです。熊沢さんの方は、収入の有る女性特有の、自立と自由が欲しいという理由であり、夫たるひとも熊沢さんに、魅力を感じていなかったので、簡単に離婚に踏み切ったのだと、推察しています。熊沢さんは、新制作展に、150号程度の大きな作品を毎年出品していました。会員だと、一点だけ制作すればいいのです。非常に上品なものです。洋服でいうグレージュから、肌色へかけての、中間色と、しろを用いて、凹凸がある画面に作り上げていました。(私が上野の公募団体展を、ほぼ、一年間、めぼしいものをすべて見ていたころに話ですよ。
湘南地方では、裕福なことで、有名な一族のお嬢様として生まれた方です。造り酒屋で、書店(チェーン形式)も経営している一族ではないかな。だが、戦時中、男が戦争に駆り出されて、日本の中から、居なくなっていて、女性も職場に進出するという形が出来たころ、北久里浜の大大、実質的詐欺事件の主役の一人である益山智恵子さんの方は、高女卒業後、都立大学で、土木建築学科を学んだのです。が、淑さんの方は、代用教員となりました。その後、教育者として、どんどん、出世していった方です。その過程で、代用教員とは、戦時中には、旧制・高女出身者でもなることが出来る時期があったので、熊沢さんは、もし、高女または、その後の専科(今でいう短大)卒だったとしたら、教育者として、ご自分が、不安です。特に後輩に、四年制大学を卒業した、先生が、入ってくるとなると、余計不安です。で、所謂・国内研修で、横浜国立大学に、入学したのではないかなあ? 30代か、40代でね。それが、その後、熊沢さんが、藤沢市内の、教育界で、出世していく、糸口になったのでしょう。ただ、単純にそれだけではないです。彼女は、やはり勝ち気であり、どんなソサイエティでも、その中では、上でないと、気が済まない人なのです。
で、国内留学時に、小関先生と出会い、先生に、惚れに惚れてしまったと、言うわけでしょう。それは、渡辺幸子さんが、夜10時でも絵筆を動かしていて、よくご主人が機嫌が悪くならないなあと、私は、不思議でしたが、ほぼ、ご主人なんか、ほったらかしで、田沢先生に入れ込んでいたのと、似ています。
で、横浜国立大学の講義以外でも、先生に、お手紙を出したり、電話をかけたり、新制作に応募する前に、自宅に来てもらって、作品を見てもらったりしたのではないかなあ? でね、敏感な奥様が疑惑を持ってしまった。もし、小関先生が、熊沢淑さんと、ベッドインして居たら、奥様との離婚とか、奥様の嫉妬心をあれほど、講義の最中にお話になることはなかったでしょう。だって自分の方に負い目があったら、妻に、怒られても仕方がないわけで、それを、80歳を超えた、ご自分が、弟子たちの前で、二時間から、三時間の講義ちゅうに、ほぼ、二分の一か三分の一の時間を使って、お話になることはなかったと思います。
ただね。小関先生の奥様物語は、単なる愚痴として、おっしゃっているわけではないのですよ。人間の正しい在り方とは、どうなのだと、教える一つの例として、嫉妬に狂うのは良くないよと、教えるつもりで、例として、奥様との関係をおっしゃるのです。
ではね、熊沢淑さんが、なぜ、小関先生との関係を再婚へもっていかなかったかですが、二人が、他者から、見られている関係であるからでしょう。教育界でも、二人は、湘南地方では有名人だったし、新制作でも、会員同士で、しかも神奈川県の会員でございますと、なると、ほかの会員から、常にみられている関係となるわけです。そうすると小関先生の方は柔軟ですが、熊沢さんの方は固いです。職業上、それが、必要だったからでしょうが(校長先生たちより上の教育委員会続愛で下)メガネをかけて、にこりともしない風情です。
熊沢さんがかわいらしいなあと、思った、唯一の思い出としては、コンビニのおにぎりの海苔が、パリパリで、食べられる、その包装の技術について、他のメンバーと、「すごい工夫よね」と話していたのを、思い出します。今から35年は、前ですからね。それが、初めて発明をされたころだったでしょう。でも、それ以外は、固いです。
小関先生の方は、人間の理想の在り方を解く方だったし、ご自分も実践をされていたから、すべての人に対して優しいのです。このグループのメンバーすべてにやさしいのです。しかし、私は目だち過ぎてしまいました。
私は北久里浜における、実質的大詐欺事件で、CIAの大物瀬島龍三を破って、引っ越してきた人間です。また、瀬島と、親友であるという、益山重夫・元海軍参謀をも、破ってきた人間です。しかも一流の弁護士さんから、「あなたは、被害者像の典型だと思っていたが、実際は違うだね。非常に頭もいいし、文章も書けるんだ」と言われてきています。
被害者像の典型という語彙は弁護士さん用語であって、平たく言うと、負け犬の典型となります。でね、それが外見だけで、内面は違うと言うのが、私の本当の姿です。
しかし、権威が大好きで、自分も権威の衣装をまとっている熊沢淑さんにとっては、肩書が専業主婦でしかない私が、小関先生と対等に質疑応答をするのは許せなかったのでしょう。高橋裕子さんの方はすでに、助教授にはなっていたのかもしれません。だから許せる。しかし、私の方は許せない。
私は、場所を選びます。雪の下二丁目のご近所様には、気を許していません。だけど、礫のお仲間には、気を許していました。同じ目的で集まっている人たちである。一応大卒である。あの年齢で大卒であると言う事は育ちもいい≒経済的に富裕な家で育ったと言う事で、そこも何を話しても安心できるという気分もありました。だから、私は自分を全開していたのです。それが下克上に見えたのでしょう。実際問題として、私は、色彩感覚が優れていました。新制作の会員で、色彩感覚が抜群なのは佐野ぬいさんです。
私が上野で、見ていたころの熊沢さんは、一色と白しか使っていませんでした。これは、破綻を見せない組み合わせです。だけど、もし、彼女が佐野ぬいさんに、(ひそかにですが)『勝てないなあ』と考えて居たと仮定すると、同じ側面で、私に対して、イライラすると、言う事はあったでしょう。
私は一回目から、熊沢淑さんが、私に対して意識している事には気が付いていました。でもね、一年間頑張ったのは、小関先生の、お気持ちが、熊沢さんを特別視していないと言う事に気が付いたからです。熊沢さんは、どこでも、トップとして、牛耳るのが好きだから、この会でも、事務局長の役割を果たしていて、小関先生と、電話で、連絡をすることも多いでしょう。しかし、小関先生の方では、他の弟子たちと、全く同じ扱いなのです。同じレベルのアガペーを注いでおられます。
もし、熊沢さんが、「こうである」と信じているほど、二人の間に、特別な愛情関係が有ったら、小関先生が、奥様の話を講義の最中になさる筈はないのです。だって、小関先生の奥様物語というのは、奥様の誤解が残念だと、言う点に到達するのでした。単純に聴くと、・・・・・玄関に置いてあった、大きな壺=花活けを壊した・・・・・というエピソードなど、奥様が、聞いたら激怒しそうな話です。で、奥様に復讐なさっているとも考えられます。しかし、本当のところは違うのです。先生は、すでに、亡くなってしまった奥様を懐かしがっておられるのです。あなたは、なぜ、あんなにぎすぎすしたのですか? 僕には、何の原因もありません。あなたが、過剰に、神経をとがらせて、勝手に、暗闇に落ち込んだのです。それは、いけない。もっと、鷹揚で、大きくならないといけない・・・・・と、おっしゃっているのです。
それを、熟知していた私は、林真理子の奇跡を読んだときに、この本は、大きな間違いを犯していると、考えたのです。田原桂一氏は、ビジネスパートナーとしては、博子さんを、重要視した時期もあったでしょう。外国では、二人連れで、行動をするのが普通らしいので、美人の妻と、一緒に行動するのは、得です。しかし、2016年ごろから、死ぬまでの、一年間ぐらい、後悔して居たと負います。特に夜二人っきりで過ごす時間が地獄の苦しみだったと思います。
あの書物を読んだとたんに、それが判って、林真理子の観察眼を疑いました。紘子さんというのは成果主義であり、勝気であり、せわしない人なのです。傍に、一緒にいて、安心感が与えられるタイプではない。それに、何よりも驚いたことは、博子さんとは、愛情がなんであるかを知らない女性だったと言う事でしょう。
結局のところ、田原博子さんには、お金を儲ける手段が残っただけです。林真理子に奇跡を書かせて、田原氏の人気が長く続くように努力したと言う事でしょうが、奇跡を読んだ人は、田原氏と、その糟糠の妻の二人が、一種の遠隔操作によって、博子さんに殺されたと考えるので、博子さんが窓口になっている限り、田原氏の人気が燃え上がることはないでしょう。フランスでも、前夫人の力が大きかったと思いますよ。博子さんの力だけで、欧米での販路を開拓できるかなあ?
そして、博子さんは、この一作で、林真理子の、威勢をも止めたと思います。王さまは裸です。王様の耳はロバの耳です。の、童話(または、寓話)の王さまの部分に林真理子を当てはめると、ぴったりですね。林真理子は、名門出身のエンジニア、というご主人をお見合いで得たことと、子供を青山学院の幼稚園に入れた事で、ちょっと、感覚が狂ったと思います。文章とは、(特に紙の本とは)、大衆を相手にするものでしょう。【奇跡】は、大衆の感覚とは、大きくずれています。
この奇跡は、林真理子の、作家としての息の根を止める書物となるかもしれない。驕る平家は久しからずを、生きている林真理子に、見ることになるかもしれませんよ。注目しましょう。まあ、日大理事長という逃げ場を作ってもらったので、彼女本人としては、自分は、超一流の女性なのだと、言う自負心を失わないで、済むとは思いますが。