銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

生協や税務に関するものも盗まれている。私の頭と心を混乱させる事が目的だが、時には入れ込む事もあり、今週TVに出る可能性のある水沢勉氏からの2000年の手紙が最近玄関に置いてあった

2025-02-13 01:17:25 | 政治

 この一文は、最初の総タイトルを、【帝国ホテルで買った赤い牛革のお財布が、1月28日から31日までは、確かに安野家に在ったのだろうが、今どこにありますか? まだ、返ってこない】としておりました。しかし、文章を分けようと思います。

*1) あのね。前報が、完成していません。あれはね。ちゃんと書かないといけないし、完成させないと、何が何やらお判りいただけないとは、おもっております。

 しかし、最初の部分が同じなので、途中で、加筆してあることにお気づきにならないお方もあるでしょう。特にスマホで、お読みになるケースでは、まったく、同じだと、判断をされても仕方がないと、考えてはおります。

 それとね、残念なことですが、やはり、ブログというものが低くみなされている現状があると思います。ツィッター(Xと改題か?)とか、フェイスブック(メタと改題か?)に引き続いて、YU TUBEに、人々の嗜好が移っているのですね。また、ゲームですね。

 まあ、仕方がないです。それでね。急に全く違う事を書きます。

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*2)、 私が同じテーマで、書き続けていのには、理由が二つあります。

一つは、絵画を盗まれる話でしたが、合いかぎを持っていて、自由に我が家に侵入している家が、たった15軒しか実動人口がないこの山で、二軒もあるという事。そして、その連中に、最近では、お給料まで出ていて、ちょっとでも、油断をすると、いろいろなものが盗まれるという事があり、その絶対の証拠として、西隣の家との間の側溝に入っていた絵は、大原光孝さんにしか、意味が分からない絵なので、ともかく、大原光孝さんは、合いかぎを持っているという事がわかったわけです

 そんなことが法治国家であり、かつ、民主主義国家であるはずの現代日本にあるという事。それを、はっきりと、記録しておかないといけません。

 それから、彼の家は、奥様のご実家がお金持ちで、奥様のお金で、家も建て替えたし、(だから名義は、今は家出をしていて、家にいない、奥様の名義だし)奥様が家出をしてしまったので、一家全体の、収入が激減したはずなのに、今、大原光孝さんの、着ているお洋服が、特に上等なものへと変化したので、お給料、(または、生活保護費)が、彼に与えられていると思うのです。仕事は、私をいじめて、精神面からダメージを与えて、殺していくこと。

二つ目は、安野家も合いかぎを持っているという事です。

 これは、PALシステムという同じブランドの生協を、とっていたのですが、生協に関係するものが、数種、盗まれているのです。それ以外にも安野家が、合いかぎで、侵入している形跡は明瞭にあったので、あ、安野家がいやがらせのために、盗んだなと考えました。ほかにも盗まれているものは膨大にあるのですが、それは、四種類の泥棒がいるので、全部を安野家が盗んだとは言えません。もしそれを言ったら、それこそ、逮捕されかねないですからね。でね。非常に気を付けているので、

 水まき事件ぐらいしかまだ語っていないのです。

A野家(この案件で、引っ越していきました。まあ、賢い方の家)のお嬢さんをスパイとして使って、通りがかった私に20リットルの水を引っ掛けようとした(これは、本当に面白い話です。それこそ、リンク先を、示したいことですが、最近は、ここから引っ越していったA野家の賢さをめでて、あまりリンク先を示していません。ただ、この事件には、各種の、明瞭な証拠があるので・・・・・例えば、早稲田ゆきさん(立憲民主党の国会議員)が、我が家にこの件で、訪ねてきたり、本当に面白い案件なのですが、そのお嬢さんを守るために、最近では、リンク先を示さないで、居る案件です。そういうことについては書くのですよ。しかし、泥棒行為については、ほとんど書きません。

 で、この生協の申込書が盗まれたことは、金額としては、大したことではないでしょう。その週、注文しなかったことにすればよいのですから。ところがね。主人が、非常に他人を気にする人なのです。しかも、豪胆ではないです。慎重というか、丁寧というか、何事も、ルール通りが好きなのです。

 で、彼にしてみれば、生協の注文票が無くなったのは、大変なこととなるわけで、当然に、私がどこかの部屋に置き忘れているのだろうと、なって、ふうふげんかになります。

 だけど、生協の申込書が、盗まれたときは私の方は『なるほどね』と思いほとんど動揺をしませんでした。これはね。夫婦喧嘩を狙った謀略行為としての泥棒だと、瞬間的にわかっていたからです。この生協での買い物ですが、最初は、私だけが、消費カタログを見ていて、申込書(パソコンで処理するらしいもの)に、注文品を書くのでした。しかし、主人も、PALシステムで、配達される商品が、特に食料品は、まあ、良品だと感じて来て、しかも、私が忙しすぎて、商品カタログを読めない週が多かったので、彼が乗り出してくる様になりました。そういうときに、注文書が盗まれたのです。

 今は、配達する人が代って二人目です。その人は、上から、命令をされていると見えて、「僕が代わって注文書に記入してあげます。メモさえ渡してもらえれば」とは言わないのです。前の人は、白いコピー用紙に、ひらがなで書いた、注文品の原初のメモを受け取って帰って、「僕が正式な注文書に、記入しておいてあげますよ」といってくれたりしたのですが、我が家の玄関でさえ、盗聴機能が利いているらしくて、ありとあらゆることが四角四面で融通が利かなくなりました。

 で、主人がそのころは繊細で、几帳面だったので、大幅な夫婦げんかに至りました。室内が、盗聴されているので、それもあって、自らの奥様が、十年以上家出を続けているのにもかかわらず、自分のことは棚に上げて、「川崎さん、この山の人は、みんな川崎さんが、離婚をするよと、うわさをしているよ」へーら、へーらと、大原光孝さんが、すれ違い様に語った様に、この山の人間は、離婚という事を、極端に下っ端のすることで、劣っている事と、考えている模様です。で、それに向かわせようと、私たち夫婦に喧嘩を、起こさせて、それを時には録音をして、ご近所で聞きあって、私を馬鹿にするために、‥安野家が生協の特にPALシステム、生協の・・・・注文票を盗んだのです。

 これは、起きた、その時点では、ブログには書きませんでした。ところがね。この様に、我が家に起きる異様な案件を、いろいろ、積み重ねていくと、より、深い真実が書ける様になるのです。そう、いつも言っていますよね。で、この件も、実名を挙げて、安野家が盗んだと、書ける様になりました。実際に起きてから、ずいぶん後でですが。ただ、どこで、書いたかは、今は、もうわかりません。NHKがニュースで、報道する様な、大きな殺人事件とは、関係がないので、見つけにくいのです。が、書いたと思います。

 するとですね。安野家と我が家と平木家の三軒が、利用していた生協、特に、PALシステムを、安野家がやめたのです。PALシステムは、月曜日の午前中に届けに来ます。ところが、ほかの曜日の夕方五時ごろ、別のブランドの生協が、安野家へ、配達に来たのでした。

 (この五時というのが大問題なのです。これは、あまりにも盗難が多くて、税務申告の帳簿さえ盗まれるので、盗まれる可能性のあるものは、できる限り銀行の貸し金庫へしまうので・・・・そういえば、最近まで、銀行の金庫は四つ持っていました。みずほでごたごたが起きて、一つ失われたのですが・・・・、週に三回は、銀行へ行くために四時半ごろをめどに、お出かけをするのです。そういう習慣は、敵さん連中はわかっていて、利用をされます。特に午後五時前後が、悪い仕事に利用をされます。

 特に西隣の白井夫人がそれを利用するのです。マルハニチロの、群馬県工場で、農薬入りの冷凍食品を販売した☛☛☛

 ・・・・・これも嘘ですけれどね。JT の研究所に、妹の主人柏木孝司氏が副所長として勤務していたので、JTが、冷凍食品に、毒を入れたというニュースが出回りました。

 これは、妹の方が、妹自身も、その連れ合いも我が家よりも出世しているという事を、私に自覚させるための事件でした。「ほうら、うらやましいだろう。うらやましがれよ」と、当時は、100%生きていた井上ひさしが言いたかったのでしょう。その事件が嘘だと、書いていた最中に、嘘ではないぞ、と、鎌倉エージェント(=CIAエージェント)が言いたくて、起こされた謀略が、マルハニチロの農薬入り冷凍食品事件です。

 JTの冷凍食品は、中国東北部(旧満州)で、起こされました。

 だけどそれも嘘ではないぞ、お前の言葉の方が間違っているはずだ。現に日本のマルハニチロでも、同じことが起きているではないか、という謀略行為で、これまた、平成の八墓村事件と同じく、警官400人が犯人捜しをしたそうです。ね、いつも同じなのです。こういう謀略行為=嘘=を作る、連中の頭がどれほど、幼稚だかわかります。そして、私にはばれてしまっているのに、ほかの一億の日本人は騙せると考えて、手下としての警察を利用して、炎上気味に盛り上げるのでした。

 なお、寝屋川の中一生徒、ふたりが、殺されたときに使われた、駐車場は、当時私が株を持っていたセンコーの駐車場で、このマルハニチロの農薬入り冷凍食品問題も、マルハニチロの株を持っていたから起案されました・・・・・、きっと、こういう謀略事件の発案者である、井上ひさしは、株なんか、子供のころは、見たこともなかったでしょうから(昔は、預かり証という、ほぼ、おさつみたいな複雑な印刷物をもらっていた)ので、証券会社のスパコンに入って、私がどの銘柄の下部を持っているかを検討して、それらの銘柄の会社に、次から次へと、事件を起こす様に仕掛けていたのでした。井上ひさしは、子供のころ、お父さんが消えてしまったので、貧乏になった母親が、捨て子をしたのでした。どこへ捨てたかというと、カソリック系の孤児院にです。我が家では週に三日は、証券会社の人が訪問をしてきて、預かり証の交換をして、ついでに、上等な生菓子を、提供するお茶タイムが始まるのでした。時には、子供・特に私も入ったのですが、母と証券会社の人以外に、経理の仕事を頼んでいたご近所主婦、とか、お手伝いさんも一緒だったので、小さなサロンと化していたのです。(ここから蛇足1へ向かう)お酒は出ないが、おしゃべりタイムではありました。

 で、彼がうらやましいので、手下の警察に頼んで、証券会社のスパコンに入り、私が、どういう銘柄の株を持っているかを探り、謀略事件に利用できる会社を選んでは、次から次へと、事件を起こしていったのでした。

☛☛☛頃、白井夫人が山の下で、大原光孝さんと組んで、待機していて、例のごとく、五時前後に山を下りる私を無視してやろうと、待ち構えていたのですが、そんなやり口は、30メートル手前から、わかっているから、こちらもあいさつ無しで、通り過ぎました。

 ところでね。大原夫人って、白井夫婦が引っ越して来たとたんに、覚醒してしまったのですよ。自分の夫が、彼が自分で言うほどのエリートではないと、気が付いてしまったのです。東大卒の建築家、白井達雄氏は美術系の才能もあるのだけれど、理数系の頭も持っている人です。収入もすごく高いし、

・・・・比較して大原光孝さんの方は…‥といいたいのですが、大原さんの方の実情は、省きます。それを書いてしまうと、自分で、後味が悪いですから。ただ、ありとあらゆる側面で、大原光孝さんの方が三段階ぐらい低いです。それ以前には、彼の弁舌がさわやか(声は、非常に悪いが、説明は、饒舌なのでしょう。きっと)で、しかも、自分たち夫婦は、この山で、一番のエリートだと、いう彼の言説を信じていたのでしょうが、白井さん夫妻の、転入で、化けの皮がはがれたのです。

 2025年2月14日20時30分です。これ以降の、推敲加筆を、これから行います。

 ところが、その白井夫人と光孝さんは、結託して、わたくし攻撃の種々様々を行うのです。特に【植木鉢の怪】というのは、捨ててはいけない筈の間違った日に大量の植木鉢が捨てられていたという問題で、大原光孝さんと白井夫人が結託をした、いじめ行為です。白井夫人って、わざわざそれを山の上にもって上がって「誰が捨てたのか?」町内会総会を開いて、検討したそうです。何で、40年も前から町内会費を支払っている私を抜かして、町内会総会など開くのですか? ここの町内会総会は、必ず、回覧板が回ってから、開くものですよ。白井夫人って、まだ、十六年間しか、ここに住んでいない新参者ですよ。特にこの山は、毛利様の持ち物だった時期があり、我が家は、鎌倉時代から、大江広元の家来だったし、毛利様が、戦後、華族制度の廃止で、困窮なさった折には、

 東宝の重役だった藤本真澄氏が、ここを買ってあげたのだけれど、その藤本真澄氏と、わが父は、旧制山口中学時代には、大親友だったのですよ

 私は、中学生でもわかるであろう法律の知識がない、白井夫人のお馬鹿さん加減にあきれ果てて、(特に東大卒だからこそあきれ果てるのです)黙って何も言わずに帰りました。で、ことが解決したと思っていますか? 白井夫人は? 

 いいえ、まったく解決していませんよ。わたくしは内心で、ものすごく怒っているから、十分に時間を空けて、と言うのは、一年以上の後に、一軒一軒訪ねて歩きました。「白井夫人が、植木鉢をだれが捨てたかについて、町内会総会を開いたそうですが、あなたは、ご出席になりました?」と聞いて歩いたのです。前田清子さん、安野忠彦氏(夫人は隠れている)、大原光孝さん、渡辺夫妻(ドアさえ開けなかった)、富沢夫人、Mr柳沢、の6人を訪問をして、質問をしたところ、全員出席をしていないと答えました。この時、訪問をしなかった人たちは、嘘をつかせるのが、気の毒だと思ったからです。ところで、「出席をしていません」といった、5人は、嘘をついている可能性が高いです。

 渡辺家が、玄関をあけなかった事でもわかります。その夫婦は完璧に前田清子さん側です。しかし、前田清子さんを訪問をした時点で、すぐ、電話等で、私が何を目的として、訪問をしているかについて、連絡があったので、どうして、そういう質問をするか=白井さんとそれ以外のご近所様のどちらが嘘を言っているかを把握するのが、本当の目的です=====を悟ってですね。嘘をつくのが嫌だから、玄関をあけなかったのですね。まあ、外語大卒ぐらいだと思うから、子供じみた嘘をつくのは嫌だという、程度の矜持は、あったのでしょう。この山に住んでいると、人間観察が、120パーセント以上の確率でできるのです。人間て、面白いですね。60を過ぎても、70を過ぎても、成熟という事からは、遠いのです。恥ずかしい。ところで、この件ですが、白井夫人が嘘をついているのか、それとも、植木鉢を種にした、町内会総会に出席したのに、出席していないと、いう六軒の方が嘘をついているのか?

 どちらか?と、しいて推察すれば、六軒の方が、嘘をついていたのでしょう。白井夫人のことは、その日に心理的には、捨てました。まあ、お隣だから、会話が必要なときはあって、会話をしますけれど、常に敵だと、自覚をしながら接しています。(ところで、これは、38年前の大事件に結び付いていく問題で、もし大原光孝さんが、一人で考え出したと仮定すると、彼は、信じがたい悪人となりますが、たぶん、伊藤玄二郎とか、中谷家の二人の遺児も絡んでいます。これはアジサイ畑欺罔事件と言う原初の悪に繋がっていきますので・・・・・蛇足2のところで、さらに詳述をいたします)

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 さて、生協の注文票が盗まれた時点に戻ります。数年後、十分に、下積みを経たうえで、今なら、書いてもいいなあと、思って、安野家が盗んだのでしょうと、書いたら、安野家が、誇示的にPALシステムをやめて、違うブランド(違う日の、違う時間帯に配達されるブランド)へ、変更しました。それが、わざと、私にわかる様に、誇示しました。例のごとく重要な時間である五時30分前を使って、見せつけてきたのです。そして、平木さんです。PALシステムを利用していたはずなのに、いつの間にかやめています。この平木家が、どれほど、安野家にこびているか? その結果ご長男が東大へ、推薦入学が決まったのですが、それをひた隠しに隠している事実などは、別の章で丁寧に書いていますね。

 で、このころは主人が、私を疑っていて、ご近所人間が泥棒するなど、ありえないと考えていました。ところが、この1月31日(金曜日)に動かぬ証拠が手に入り、主人も、私を疑わなくなりました。

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*3)、我が家に泥棒が入っているという動かぬ証拠とは、水沢勉氏からの、日付として、2000年の手紙が、この2025年1月31日に、玄関の上がり框に置いてあったことだ。

 動かぬ証拠とは、水沢勉氏からの手紙です。1月31日に、私は、それを手に入れて、次の日の夜、主人に見せました。ついでに、自分のお手紙です。泥棒がどういう風に入っていて、何を目的としているかを丁寧に書きました。主人への手紙は、すべて、手書きなので、このブログでは、利用ができません。ところで、水沢先生からのお手紙ですが、今、それを読む気にもならず、どこに置いているかも、わからないのですが、ちらっと見た日付だけは、2000年でした。なぜ、水沢先生と別れてしまったかは、先生の上司が酒井忠康氏で、そちらから、「川崎千恵子を切りなさい」と、言われていらっしゃるから仕方がないのです。

 ただね。2011年フクシマ第一の事故が起きる前までは、私の方は、悲しみを、引きずっていました。あれが、起きると、水を得た魚の様になって、ブログをしっかりと書くようになり、読者も増えたので、結局は美術よりも政治の世界、特に文章を政治をテーマで書くことへ、仕事(ただし、お金は、一銭ももらえませんけれど)が、移っていくわけです。わたくしは大変筆力が高いと言われていて、高名な文筆家ほど、「すごい」といってくださっているのですが、

 2008年にブログを始めた途端に、メルマガが、「送れません」となったのです。今、思うと、あれ嘘です。だから、気にせずに以前と同じ様に、送っていたらよかったのです。私のパソコンには、ものすごく多数回、嘘の警告が出るのです。NHKニュースも嘘をつくし、ご近所様も嘘をつくし、パソコンも嘘をつくのでした。ともかく、水沢先生にも送っていたし、山口みつ子さんにも送っていたし、非常に高度な読者の多い、たいへん良質な世界だったのです。

 だが、酒井忠康氏の、支配によって、水沢先生との縁が切れたのが、2004年か、2005年の筈で、その後、水沢先生は、どんどん敵方の、意向を代弁する様になって、すごいいじめを日吉で、やってくる様になるのです。

 日吉には、私の実家があり、そこから、直線距離にすると、60mの範囲内に、重要な人たちが住んでいます。水沢家もその一つで、そこに勉先生の姉、悦ちゃんが住んでいます。日吉で、起きたことは、やがて、カリタス小襲撃事件につながっていきます。その事件が起きる前までは、水沢勉先生と、私の間には、圧倒的な上下関係がありました。

 しかし、カリタス小襲撃事件が起きて、日本側では、カリタス小六年生の女児、ミャンマー語に堪能な外交官、それから、襲撃者のやくめを負った、51歳 の引きこもりといわれる男性の三人が死にました。

 そして、ミャンマーでは、政変が起きて、ロヒンギャと呼ばれる人たちを中心とする虐殺が、繰り返されています。

 ここらあたりの説明は、超・字数が必要で、今日はもう午前五時になっているので止めます。しかし、2017年から、2020年ごろまで、小田春夫先生(歯科医)を通じて、水沢勉先生が、日吉で何をなさったかは、私には、100%わかっているのです。しかし、まあ、まだ、書くまいと思っておりました。先に白井さん夫妻とか、前田清子さんとか、安野夫妻とか、平木さん一家について、書こうと思っておりました。

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*4)、まだ、触れるつもりがなかった、水沢勉氏と、私との間の本当のところは、日曜美術館。、9日午前と、16日夜八時からの中で、水沢先生が登場する予定があったので、伊藤玄二郎とか、井上ひさしが、こういいたかったから、お手紙が玄関に置いてあったのでしょう。これは、推察ですが、全く同じことが奈良県西大寺での、安倍晋三元首相殺しで、行われていますので、こちらは、その踏襲です。・・・・・お前毎週、日曜美術館を見るだろう。で、思い出せ、思い出せよ・・・・・水沢氏に、捨てられた悲しみを・・・・・と、いう意味で、安倍晋三元首相が、西大寺で殺された事件と同じ流れです。

 お前さあ、井の頭線、渋谷駅、改札口まで、時枝ひろ子さんを追いかけていったのに、とうとう、捨てられ切ったよな。その時、悶々としていたではないか? そうだよ。大切なメンターに捨てられた悲しみを。・・・・・今度も同じだぜ、お前さあ、水沢さんと付き合っていて、葉山の美術館に自分の作品を収蔵してもらいたかったのだろう。で、そういう意味では、時枝ひろ子より、重要な人物だったよなあ、その人に今は、すっかり、捨てられているのだ。ざまあ、見やがれ、ブログなんかかいているからだよ・・・・・・と、(CIAエージェント)が、いいたいがために、水沢勉先生のお手紙が、玄関の上がり框に置いてあったのです。➽

 しかも、2025年1月31日に。・・・・・これは、彼らが、今、自分たちが勝っていると考えさらに、重層的にいじめてやれと、思ったから、起きた・・・・・と考えています。どうして、その日に?と、考えると、理由はすぐわかります。フジテレビの、言論リンチ事件があり、そこでは、彼らは、自分たちの方が、私に勝ったと思っているのです

 ➽という事は、時枝ひろ子さん(旧姓西大寺さん)に捨てられたのと、同じことがMr水沢勉を相手にしても起きた」という事だ。で、安倍晋三元首相が、殺されたのも、ほんとは、私が、主役だったのです。安倍派いじめは後付けの、カモフラージュです。

 というわけで、私は生きた人間からは捨てられているのですが、神さまが、代わりに戦ってくださって、悪人をやっつけてくださっているのです。大野埼玉県知事など、その典型です。

 ただねえ。毎週、生協が来て大量の食料品を置いていく以外は、チェーンをかけているはずの玄関内上がり框に、どうして25年前のお手紙が置いてあるのか、? この謎は、解いていかないといけません。後刻致します。

 だって、一年に50週は生協が来るのですよ。その前、何も置いていない状態にしたのに、どうして、25年後に、水沢勉先生のお手紙が、しかも、変形で、三つおれになっていて(と言う事は、私なら、絶対にしない、粗末にしたと、同義語の形をとって、置いてあったのです。

 ここでね。別れてしまったからこそ、仲が良かったころ何があったかを語ります。実は、その2000年の日付が付いているお手紙は、2025年の今は、まだ読んでいないのですが、たぶん展覧会の招待状です。今は栗田陸と言うドイツ在住のアーチストの境界を特に意識するインスタレーションと言うのをやっています。ご招待状を頂くと、オープニングパーティにたいてい出かけます。と言うのも、そこで、美術界のセレブが集まっているので、その陣営内に、いる人々にとっては、カッコウの社交の場なのです。渡辺豊重さんは、その日は一ノ瀬智恵子さんを、お供にしていたわけですが、

 日陰茶屋、(マレ・ド・茶屋)のお味の良いカナッペを頂きワインも飲んで、帰宅するときに豪華なカタログを頂けます。

 で、お手紙は、レターヘッドが、ブルーで、近美のロゴが印刷されているもので、極く公式のお手紙です。仲良かったと言っても、12歳も水沢勉氏の方が年下です。

 しかし、一つだけ、これは、うれしかったという思い出があります。それは、2004年1月6日、早朝五時ごろの話です。パソコンが65台も壊されているので、コピペして皆様にお見せすることができないのですが、私のメルマガに対して、コメントを頂いたのです。

  その前日、1月5日の、夜6時50分、ユマニテに急いで、行こうとしていて、鍛治橋交差点そばで、転んで、顔にメガネが突き刺さり、ぽたぽた、ぽたぽたと目の前を血が流れ落ちていくのに、両手と背中に、出版したばかりの自著を持って居て、その重さで、立ち上がれないのです。不況の時代で、京橋全体が暗いのに、たまたま、通りかかったグループの人が助けてくれて、救急車で、慈恵医大に運ばれたのでした。そして、整形外科の先生に言わせると「僕が過去に出会った顔の怪我の中で、上から三番目ぐらいです」だそうです。ただ、縫合は、脳外科の先生がしてくださって4㎝ぐらいの怪我を、40針もかけて、丁寧に、縫ってくださったのです。そういうことを生き生きと書くのが私です。しかも、こんな経験は初めてですから、張り切って書きます。そして、転んだのは、自分が悪いのですから、他人は責めていない。だから、読後感がいい文章だったでしょう。

 私のメルマガは、文章が長いので、送り先の数を、限定しないといけないと、管理者から言われているので、何回にも分けて送るので、送信に、大変時間がかかるのでした。それで、その作業に30分以上をかけている最中に、パッと、コメントが入りました。

 水沢先生からでした。「転んでもただでは起きないと言うのは、まさに是ですね。さすがです」と。

 こんな、もう、過去中の過去となってしまったエピソードを晒すのは、ひそかな自負と、予想があるからです。しかし、それを言うと、また、妨害を受けて、それが、実現をしませんので、言いませんが、この一文が、遠い将来は、水沢一族に、取って・・・・迷惑の反対、つまり、宝物になる事を知っているからです。

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(蛇足1)

 私が、1984年、この鎌倉雪の下に引っ越してきて、驚愕をしたのは、40を過ぎていて、高校三年の息子さえいる安野夫人が、毎日午後、門前の道路で、網を張っていて(蜘蛛みたいですが、まさにその通りで)引っかかった主婦を、誘い込んで、井戸端会議を始めることでした。私、幼少期から数えると12回住まいが変わっています。そのうち、生まれて三年住んだ満鉄の社宅とか、寄留させてもらった親戚の家とか、下宿とか寮とか、新婚時の、6畳と三畳のアパートとか、いわゆる仮住まいを除くと、長期に暮らしたのは、三か所です。その三か所で、どこでも、40歳以上の、中年主婦が、井戸端会議を開いている図など、見たことがないです。皆さん、お付き合いは、したい模様で主婦でもカフェに集まるのが、常のようです。

 お金を倹約したいのだったら、新幹線の待合室(品川駅等)で、500円のこーふぃーを頼んで3時間近くしゃべっている人を見つけたことがあるけれど、ともかく、一回、千円程度をかけて、集う、しかも週に一回ぐらいと、言うのが、主婦の定番様式です。

 しかし、駅近辺まで、遠いとか、近所にカフェがないという場合は、お家へ招いて、お茶をします。ちゃんとした茶菓を準備しておくのが、賢い主婦の定番ですよ。たとえば虎屋の羊かん(プチサイズのもの)とかです。鎌倉だと、数日間もつおかしが、特にいっぱいあります。豊島屋の和菓子は、上生以外は、大体三日は持ちます。最近紅谷の、、クルミっこというのが大人気ですが、あれは、一週間は持ちます。また、ニュージャーマン、レザンジュ、京急ユニオンや、紀ノ国屋のケーキ類、などを冷凍しておいてもいいでしょう。

 あまりに驚いて、二週間ぐらいで、安野夫人は、ここに引っ越してくる前には、主婦(特に専業主婦)体験がないのだとか、。母親ぶりを誇っているみたいだが、実際は、母親ではないと、いう事など、みんな、彼女自身の行動を読み取れば、理解できることなのです。白井夫人は、私のことを誹謗中傷の人だというけれど、白井夫人自身が、人生体験があまりにも少ないので、せっかく東大卒などという立派な肩書を持っているのに、判断力が低いですよね。どうして、私が、二週間で見抜いたことが見抜けないのだろうと、常に不思議に思っていますよ。

 私は略奪婚の人だろうと、書いていて(それは、自分の被害があまりにも大きいからですが)、特に前の奥様は、1984年時点(=私が、引っ越してきた時点)で、すでに亡くなっているだろうと、書いています。それが白井夫人のいう誹謗中傷に当たるのだろうと思いますが、ご長男を呼んで、インタビューをしてごらんなさい。きっと私が正しいと、理解できるはずだし、前夫人の、兄弟とか、姪とか甥が居たら、そちらにインタビューなさってもいいし、安野忠彦氏が、前の奥様と、新婚家庭を営んでいてご長男とご長女が幼稚園に通っていたころの、地域のママ友も、訪ねてごらんなさい。絶対に私が正しいと、把握できるはずです。白井夫人は、東大卒らしいけれど、受験用問題集の答えを出すのは、得意でも、実生活上の知恵という意味では、頭が悪いとしか言いようがない・・・・・・そういう場面が多いです。安野夫人は自ら

が、自らに関する、それらの真実を外へばらまいている人なのです。それを読み解けない前田夫人とか、白井夫人は、地頭が悪いとしか言いようがないですよ。そのほかの女性は、あの石川和子さんだって、安野夫人の本質を分かっていて、しかも、上手に、自らの本心を隠して、付き合っていたと推察しています。

  ところで、この山は、敗戦時まで、毛利様の持ち物だったでしょう。その後、戦後の、華族制度廃止で、毛利様が、お困りになった時期に、当時東宝の重役をしていた、藤本真澄氏が、買ってあげたのだと、思います。うちの父は、兄が、旧制萩中学の校長だった(10歳は年齢が上だった)ので、

 兄自身がお金を出してくれて、(というのは、兄弟で、同じ学校の、校長と生徒だという関係を、叔父の方が、面映ゆく思ったのだと、思います。)山口市へ、寄留をさせてもらって、旧制山口中学に学んだので、藤本真澄さんとは大親友になっていたのです。父が慶応卒のシティボーイである藤本真澄さんに

なぞらえて、伊勢佐木町の写真スタジオで写したのが、昭和8年(22歳だったかな)の、上の写真です。靴もスーツも借りたもの?

 父は官学、旧制秋田鉱専の、石油科第一回、卒業生ですが、もし祖父がまだ、生きていたら、ナンバースクールに行くことができたでしょう。そして、旧制帝大にでも、行くことは可能だったと思います。が、その祖父は、理財に明るく、明治維新以降、東萩に山一つ買って、堀之内から移住して、だいだい栽培も副業として行っていたから、父の長兄は、それほど、貧乏人でもなかったのです。父の姉は、女子・師範学校に行っていますし。長兄のお嫁さんも師範学校卒業生です。こちらは津和野藩ご家老様萱野家の出身です。

 「そうで、ござりまする・が・のうー」と、言っていたこの叔母の丁寧な、言葉遣いは、四歳以来、記憶しきったものです。

 父と母は、山口県内の。校長先生同士の、連絡網を通じたお見合い結婚だったと、思います。母の父は、養家先としての母の実家を飛び出して、別の家の養子にすでに入っていたのですが、母やその兄のことは、気にかけていて、女学校にまで、訪ねて来ていたそうです。

 これは、結婚後に、母が正金銀行に勤務することができたことにも反映をされています。普通、新卒ではない女性、しかも遠い山口県の、高女専科(今でいう短大)卒だったら、入行できないと思います。父は、自分がモボになりたいし、結婚相手の母にもモガになってほしかったのでしょう。で、洗練を身に着けるためには、横浜正金銀行にお勤めさせることなどが、プラスになると、考えていたのです。

 今、みなとみらい線を馬車道で降りると、すぐそばに、県立博物館という立派なビルがあります。横浜には、ジャック、クイーン、キングという三つの塔で、有名な古いビルがありますが、横浜正金銀行は、レンガを使っていないので、その三つの中に含まれていないのですが、立派なビルです。

 母が、私に言うのには「あーたね。銀行って、三時過ぎが大変なのよ。一円でも合わないと帰れないの。それは、入るまでは、知らなかったのよ。でも、あまりにも遅くなる時があって、主婦業との両立が無理だから、日産自動車に代わったの」と。

 日産自動車時代の、母が同僚と写した写真があって、みんな束髪で銘仙の、着物(羽織つき)を着ています。ワンフロアーのOLが、6,7人で、それがもしかすると、日産自動車全体の、すべてのOLだったかもしれないのです。古き良き時代です。なんと、今、ウィキペディアで調べたら、日産自動車って、昭和9年創業です。で、母が、20歳で、結婚をして(それは、大体の想像ですが)、21歳ごろから、正金銀行に勤務し、すぐやめて日産自動車に、勤務したと、それは、昭和11年にあたり、昭和14年ごろまで、勤務し、満鉄社員となった父に伴って、専業主婦となり、27歳で、私を産むのですが、

日産自動車の、wikipedia によると、

女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(2012年度)から連続して選定されている(2017年度まで)[20][21]

とありますが、そういう・・・・女性が活躍できる・・・・日産自動車の、草創期のOLの一人だったのです。あの写真が盗まれてしまっているのは、本当に残念です。

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(蛇足2)

 私は、1984年にここに引っ越してきたのですが、驚くべきことに、東北の山を無断で崩されてしまったのでした。業者は、斎起業と言うとび職二人組で、南側の崖の上(敷地は我が家の物です)に生えている直径50cm以上のミズナラと、山桜を切ってもらったのです。

 1984年には、自宅の木を切るのに、制限とかルールはありませんでした。で、その作業が、すごいことだったわけです。我が家は、日産自動車の、研究所の、同僚が、11人も手伝ってくれて、大変派手な引っ越しでした。

 ただ、私は、ここに引っ越してきた目的は、創作に専念しようと言う事だったので、ご近所付き合いをいたしません。で、自分たちは、北久里浜の家を売らないで、ここに引っ越してきたので、中古の日当たりの悪い家(しかも、公簿上は、88坪あるものの、崖や、私道部分に、とられるので、40坪しかりようできない)で、建築素材も悪い家に、どうして、引っ越してきたのだろう?と、日産自動車の研究所の同僚は、みんな不思議に思ったのでしょう。

 実は、是こそ、罠だったのですよ。横須賀市内では、相当の、大モノだった、元海軍参謀、益山重夫が、が、ここらあたりの、地形を熟知していて、山の一部を自分の私有地にしようと、考えたのです。そういう風に考えたのは、無論理由がありました。正妻(先妻と言うべきか)が、米軍横須賀基地内の、PX(スーパー)か、将校倶楽部に、勤務している時期に、アメリカ軍将校と、恋に陥り、米国へ逃げてしまったのです。それはね。夫が米軍によって、パージを受け(それは、排除という意味でいいところに就職できないと言う意味です)、収入が無くなったので、仕方がないことだったのですが、お嬢さんが生まれていたので、ショックはショックだったでしょう。お嬢さんは、五歳ぐらいだったのではないかなあ?

 今は15日の午後三時ですが、ここを少し加筆します。小説みたいなところがあるので、書くのが楽しいですしね。

 さて私は子供を幼稚園に入れます。そこで、ママ友の一人として、杉本正子さんと知り合います。この人の夫が、当時横須賀市土木課長でした。しかし、新しい事実として、この人の実父滋氏が、なかなか重要だと、最近では考え始めています。横須賀で、大正生まれの老人としては、上品な面立ちの人でした。で、この人が、益山重夫氏の、戦時中は部下であり、戦後ひたすらに益山氏を助けたと、考えると、いろいろ、符丁があってきます。

 益山氏は、京急横須賀中央の近所で、まず、不動産屋を始めました。これは、益山氏にとっては、つまらない、恥ずかしい業務です。しかし、どういうコネであったのか、部下に智恵子さんを雇い入れました。智恵子さんは、ある面で純真で、しかも、原節子似の、モダンな感じの美女で、しかもご本人から私が直接聞いたのですが、戦時中男子払底の時代(戦死、徴兵等で)都立大学の土木工学科を出て居るのです。で、土地開発の設計ができる女性でした。そして、日産グロリアハードトップ(2ドア)白を察そうと、乗廻し、後部座席は、窓を開けてシェパードが、風に吹かれており、お買い物は、必ず元街ユニオンの紙袋を入れて帰ってきている人でした。

 元街ユニオンは、京浜急行に、吸収されたので、各地に支店が、できています。ところが昔は、明治屋、紀ノ伊国屋と並ぶ、輸入品も扱う高級店だったのです。

 この女性が今の言葉でいうスペックが高いうえに、30歳以上年下で、しかも、自分に尽くしてくれます。母親に捨てられたお嬢さんもフェリスを卒業させ(多分大学も卒業させ)結婚をさせ、独立をさせて、その後、自分に尽くしてくれています。で、ご近所の、老人=10歳ぐらい年若い男性(横須賀市の地の人で、悪気はないのでしょうが、今、芸人が素人を、TV画面内で、お母さんとか、お父さんと呼ぶ、あれと同じ感覚で)が、「おじいさん、お爺さん」と、呼びかけたら、「どうか、その呼び方はやめてください。家内が、若いので、その呼び方で、他人から、呼ばれるのは、困ります」と、抗議していたのを、私は実際に聞いていました。

 その会話を聞く前から、彼ら夫妻の日常生活を見ていて、絶対に、ご近所人間とは付き合わない事、や、或る台風の日、珍しく、平作川が氾濫して、京急(当時は、この今の本線は久里浜線と呼ばれていて浦賀へ向かう方が本線だったのです)周辺が、細長い湖になっていた時に、この益山氏と、私は、並んで、高いところから下を眺めていました。顔は、和風で、寝間着は浴衣ですから、上流階級かどうかは、分からなかったのです。が、実は、1945年8月15日までは、横須賀一偉い人だった模様です。

 杉本滋氏が、1946年から、部下として、勤務し、智恵子夫人を入れて三人で、不動産屋をやっていた時期があると、仮定すると、息子の俊一氏が、当時、住んでいた敷地50坪、建坪、28坪ぐらいの住宅は、益山夫妻の、ただでプレゼントだったと、考えます。登記をされていない幽霊屋敷ですから。外には絶対に出してはいなかったけれど、杉本滋氏を、通じて、もともとは、国家の土地だった(途中で、横須賀市の水道山となり、その後、そらヒルズ=ルネ北久里浜と言う美麗マンションが建設される)を、京急に大開発させて、インフラ整備をさせて自分がお金儲けをする、土地をもっとも駅に近いところに生み出したわけですが・・・・・・

 この池田分譲地は、立派なwikipedia が、立って居て、京急の土地開発の中でも、突出して価値が高く、駅前ロータリーも整備されているので、東急における二子玉川程度の重みを持って居ると思います。

 駅名も、【生田】と言うどうってこともない名前だったのを、北久里浜駅と改名し、池田分譲地には、新たに参入する、新住民がいて、駐車場には、外車が並んでいると、言う状況です。

 上皇后、美智子様のご成婚がかなったころ、美智子様の、おじにあたる、水島三一郎博士の為に、八幡製鉄は、日吉の、わが実家から、徒歩20分程度西北にあたる、麦畑を買収して、研究所を作りました。しかし、水島博士が、亡くなると、そこは、廃棄され、別のところに、新たな、研究所が開発され、その跡地はセキスイハイムが開発する、結構有名な住宅団地となりました。

::::::ウィキペディアから、池田分譲地も、アイザック日吉も消えてしまいましたが、これは、私が、ブログに登場させているからです。しかし、そのブログを完成させると、大・実質的・・・犯罪へ結びついてしまうので、アイザック日吉も、京急池田分譲地に関する立派で、長文だったwikipedia が、消えてしまいました。今、かろうじて、アイザック日吉の方だけ、見つけました。ここにコピペします。

さくらが丘は、新日本製鉄(新日鐵)の先端技術研究所の巨大な跡地(約7万平方メートル=アピタなど一連の跡地5万6000平方メートルよりさらに広い)を活用した345戸の分譲地で、2003年から分譲を始め、2009年に全面完成しています。::::::::::

 京急池田分譲地も、まあ、似た様な規模です。でもね。実質的に言うと、京急池田分譲地の方が、暮らしやすいです。駅から徒歩圏内に、すべての家があり、平坦な丘の上で、車は来ないし、日当たり良好で、京急は、交通費は、かかるけれど、時間と言う意味では、アイザック日吉から、東京丸の内へ向かうのと、京急池田分譲地から、丸の内へ向かうのは、同じくらいでしょう。

 しかしブランド力と言う差があります。別に京急は、東急をライバル視ししていないでしょうが、しかし、地価が、数倍程度アイザック日吉の方が高いでしょう。?????

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