銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

其を書いた為に死ぬ思いをしたが、書き始めたからには完成させよう。今関一馬 vs 島田章三

2023-11-28 12:43:06 | 政治

 私はね。体力がない時は、ただ、ただ、思いのままに書き進めます。したがって、章立てもしないです。体力があるときは、章(このブログでは、副題と言っている)立てて、全体が或るテーマのもとにまとまる様に作り上げていきます。

 前報を書き始めた時には、私は、ピアノ演奏会を聴いて帰った時で、最近だと、そういうイベントに参加した時は、疲労困憊するので、最初から、『今日はさして、上等なものは書けないだろう』と、考えて、章立てをしませんでした。後註1の文章

 ところが、これが、・・・・・エンタメ(クラシック音楽もエンタメの一分野です。硬く考える必要はない)を享受して帰ってきたときの特徴だなあ・・・・・と、考えるのですが、意外とエネルギーに、満ち溢れるのです。それが、エネルギーを注入されると、言う事でしょう。で、書き始めてから、意外とトントンと、進み始めて、しかも、発想のままに進んだので、十文字美信夫妻が、どういう風に動き、その後ろにいた伊藤玄二郎が、二人に何を命令したかという本来の主題から、離れてしまいました。最近のシリーズとしては、十文字美信夫妻にこだわっていたのにです。

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副題1、『私が、前報で取り上げた二人の画家・・今関一馬と、島田章三は、素直な、眼で見たら、格としては、絹谷幸二、横尾忠則級の画家なのです。+佐野ぬい級かな?

 ただし、絵には、夫々、鑑賞者の好みというのがあるので、誰が、上で、誰が下だとは言えませんが、30年前は、横尾忠則は、異端であり、画家とは、みなされていませんでした。で、絹谷幸二、島田章三、今関一馬は、横一線に並ぶほどの、画家だったのです。

 絹谷幸二さんが、トップを担っている、二紀会は、こう言っては、何ですが、ここに取り上げる二人の画家が、そのトップクラス(+森本草介)を担っていた、国画よりも、画壇での地位は下だと、みなされていました。1980~2000年までの事。

 こういうことは公募団体展の世界から離れて22年たっているので、素直に、表現できる事であって、別に国画会を身びいきにしているわけではありません。私は、その世界を離れて、23年になるので、現在のことは知りませんが、30年前は、新制作、国画、独立、二紀という順番(というか、順位)だったと感じています。これは、日展を離れての話となります。歴史がいろいろあって、日展を批判する在野の団体として、出発した、団体うちの内部評価を語っています」

 ただ、横尾忠則は、若い時に付き合っている人物が、六本木とか、新宿で、ブイブイ、言わせていたマスコミ関係者(または、広告関係者)が、多いので、大きく得をしている存在です。だから、ものすごいレベルで、大モノ化していますが、30年前は、さして、取り上げられていなかった存在です。画壇ではね。

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副題2、『この間、絹谷さんの下の名前の漢字について、発音は、こうだが、紅か、幸いかの記憶が、不安定だったので、wikipedia を引いてみた。すると、トップ項目として、絹谷幸二・自宅とあったので、本来の目的からは、離れるが、開けてみた。驚いたことに、最近ニュースで、頻繁にそれが現れる四代目猿之助の、自宅の100倍ぐらいある敷地内に、豪華な建物が林立している(東京圏内でも屈指の)大邸宅だった。

 それに対して、私はねたんでいるわけではない。しかし、裏側はあると、感じている。ここで、少し、それを語っておきたい。独断と偏見だと言われるだろうし、大勢の敵を新たに作ってしまうのも承知の助だが、・・あれ・・が、関係があるだろう・・・・・と思っている事柄が有る。あれとは、私がNHKの傾向を作ってしまっていて、私がメルマガや、ブログで、書いて居る方向と反対方向にNHKが動くことを指している。それは、政治面だけにはとどまらず、文化面も同じなのだ。

 まず、荻野アンナさんである。あれは、1991年にアンナさんが、芥川賞を取る前の話だったと思うが、確かではない。そのころは、パソコンを私の方が使っていなかったので、重要な思い出だが、期日についての記録はない。

 ともかく、アンナさんの母が、江見絹子というペンネーム(または実家の名字でしたか?)の女流画家で、当時神奈川女流展の、トップだったので、そちらの用事で、江見さんに電話を掛けるつもりだったらアンナさんが出たのだった。

 すっごくかわいい人だと思った。母親の江見さんのことは、よく知っているつもりだった。私は、三分、一緒にいただけで、相手の事がすべてわかるタイプだから、個人的な、デートが無くても、江見さんについては、よおく、よおく、わかっているつもりだった。芥川賞を取る前のアンナさんの、動画、及び写真は、公開されていないので、その電話内では、実際の彼女よりもずっと、小柄で、お顔も派手ではない、普通の日本人女性を思い浮かべた。

 この時の電話でアンナさんは、一気に立て板に水のごとく、(のちに数冊の小説・単行本・に表していく)、両親の介護の大変さを語ったのだが、もっとも、印象深いエピソードとは、「お手伝いさんさえ、いれられないのです。画家の家だから」という部分だった。

 私は、「はい、はい、その通りですね。画家の家は、そうですね」と、答えた。ものが膨大にあるので、片付けるのは、大変だ。だが、相槌は、その程度で、徹頭徹尾アンナさんが、話したのだった。両親の介護がどれほど大変かを、堰を切った様に彼女は話した。

 都立大山病院を紹介されて、そこに入院をさせているのだが、横浜山手から、そこへ通うのがどれほど、大変かと、語るのだった。都立大山病院は、東上線に在り、東上線ときわ台の老人ホームに入っていた、母が、そこで、、白内障の手術を受けたので、私も、のちに知ることになる大病院だった。

 私がアンナさんに対して、特別にかわいいと思ったのは、江見さんが、結構、きつい人だと、わかっていたし、かつ、女流画家なので、頭の中は、何時も絵のことで、占められていて、したがってアンナさんは、精神的には、ネグレクトに近い状態で、育っているのだった。だから、こそ、両親に、奉仕するのだった。丁寧に愛情深く育てられていると、両親が介護が必要になっても、「あ、そうお」ってな調子で、あれほど、真剣には、奉仕をしないものなのだ。反対になるのだった。そういう風に思いがけない事になる。

 ここで、自分自身について、重要な事を語りたい。アンナさんは、私のことは、一切知らない段階で、あれほどの、長話をしたのだった。どうして? それは、私が非常に魅力的な、かつ、包容力の高い人間であることを、感受性の鋭いアンナさんは、即座に見抜いて、信頼したのだった。これが、前報で、語りかけて、とちゅうになっている、今関一馬先生の一高時代の親友で、日経新聞を退職したと、言う紳士から、アトリエに何度の電話をもらう事に繋がっていく。

 また、十文字美信氏の奥様と、小町通りの立ち話で、10分程度話し合っただけで、昔からの友達風に、打ち解けて、行くことになる。だから、こそ、美信夫妻を、私から引き離すことが、私へのダメージを与える効果がでると、考えられて、あの夫妻が、あいさつなしで、追い抜いていく(ほとんど、人通りのない道で)という、謀略が計画されたのだった。

 これは、私の尊厳を傷つけ、精神をへこませ、早く、ノイローゼにさせてしまい、精神病院に収容してしまおう。そしたら、あのブログを閉鎖できると、考えた、伊藤玄二郎達、一派が、それ以降、、使いに使いまくり、1000回以上遭遇する、ひどい措置の最古にあたるものだっただろう。

 それは線路沿いの道で、30年前は、ほとんど人通りのない道だった。だが、当時の、私は、背中に、ものを背負うスタイルで、東京へ出かけていて、かつ、本を作るのにお金がかかるという状況だったので、裏駅(普通の駅だと、西口というところ。鎌倉では、特別な呼び方が或る)にある、信金で4000円だけおろして、東京へ向かうと、言うスタイルをとっていたので、雪ノ下二丁目の自宅から、川喜多邸(まだ、記念館とは、なっていなかった時期だが)の前を通り、脇道に入り、その後、線路沿いにでて、踏切まで、歩くのが常だったのだ。

 十文字美信さんの自宅(カフェbee +画廊)は、google 検索で出ているし、鎌倉在住の人だったら、ご存じの通り、小町通りと、表参道の間にあるので、あの夫婦が、この線路わきの道を通ることは、ありえないことだった。だから、たくらみだとは、すぐ分かった。その上、美信夫人は、とても、おろおろ、していた。

 夫が命令するからには、この女性(私の事)には、何かあるのだけれど、この人が、悪い人間ではないことを自分は、感知していたので、こんな失礼なことをするのは、この人に、悪いことだわ。私は、本当は、こういうことをやりたくない・・・・・と、考えて居るのがありありと、わかった。

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 ここで、しばらく、二紀会がなぜ、大きな存在になって行ったかを語る事から離れて、十文字美信、夫人との出会いを語りたい。

副題3、『私は、その後も美信氏から、ひどい仕打ちを受けるので、美信夫妻の、真実を知りたいと強く願った。で、横浜駅東口のビジネスホテルの地下にあった、ポパイというネットカフェ(今はない。これも私のブログをつぶす行為の一つであろう)で、アイドル写真集を見て、カメラマンが、十文字美信とあったので、一時期、おくさんは、元、女優だったりしたのかしら?と思ったりした。だが、今般、鎌倉駅の地下道で、美信氏が、300行近いぎょうせきを、履歴として、披露をしているのを見て(それも、対私威圧だと思う。彼は、2011年から、このコンクールの審査委員長を務めているのだが、今まで、こんな、コンクールの展示は、見たことがなかったし、十文字美信の、業績禄も、見たことが無かったので)、

 あ、是なら、wikipediaが、立っているだろうと思って、(以前は、アイドル写真集を撮るぐらいのカメラマンだと、バカに仕切っていたので、wikipedia も、覗いてみたこともなかったのだ。)ウィキペディアを探ると、出てくる、出てくる、情報は、いっぱい出て来て、あの豪邸は、奥さんの実家の敷地を使っていると、出ていた。それで、やっと合点がいった。たぶん、奥様って、資生堂本社に勤務していたOLあたりではなかっただろうか?

 これも間違っているかもしれないが、以前、考えて居た、タレントか、女優か、モデルだったのではないかと、言う推察よりも、奥さんの実像に近くなる。美信氏が、資生堂のCMの仕事をしている時に資生堂側の人間として、出会って美信氏からの猛烈なアタックで、結婚に至ったと、考えると、奥様の美というものが、納得しやすくなる。

 私は、美形好きの川崎さんと、からかわれるほど、美しいもの、美しい人物が好きである。鎌倉で出会った、もう一人の美女が、ドゥローイングギャラリーのオーナー夫人だ。それについては、一文を書いているが、その後、駅前広場で、彼女から無視されたので、如何に伊藤玄二郎一派が目を光らせており、私から、あらゆる、人間を引っ剥がしていくのだと、言う事が判る。

 あの最初の出会いから、すでに、20年近くたっているが、あの日の美信夫人は、今時の日本人とは、思えず、与謝蕪村の絵の中にでも、登場しそうなほど、さわやかで、自然体の人だった。蕪村の絵の登場人物は庶民のおばちゃんだが、美信夫人は、庶民のおばちゃん風ではない。ただ、その浴衣姿が、背景に消え入りそうに、静かなのだ。『ああ、こんな静謐な感じの美女は、最近では、見たことがない』と、思って、素敵な浴衣姿ですねと、言った。本の、ちょっとした、会話を交わしたら、当時、その近辺で、古書店を開いていた、お店の奥様が出て来て、美信夫人の家を教えてくれたり、今、美信夫人が、猫を探していると、言う話も教えてくれて三人は、そこに入って行った。

 当時は、画廊と、喫茶店を、建築中で、その音などに驚いて、行方不明になってしまったとのことだった。それは、非常に、お互いがはずむ話だった。私は夫婦で、トルコ旅行をした時に一緒に行きたくないと言ったのだが、どうしても主人が一緒にというので、猫を実家に預けたのだった。絶対に行方不明にしない様に、4mぐらいの長い木綿ロープを首につけていた。自由に歩くことはできるのだけれど、ロープの重みで、猫の俊敏さが抑えられるので、逃げ出しても、捕まえられるからだった。二週間の長さの旅行だったのだけれど、一週間目ぐらいに、「かわいそうだからロープをとろうね」と、母と孫が話し合って、外したのだけれど、その途端に逃げ出してしまった。でも、本当に幸いなことに、鎌倉の家に戻るのではなくて、急に同居した、日吉の実家の方に戻ってきてくれたので、母も、私の娘も大いにほっとしたのだった。鎌倉まで、戻ろうなんて、あの猫が考えたら、途中で死んでしまった可能性がある。

 その年の美信氏のぼんぼりを見ると、奥様のさわやかさと、通底する、草の絵だったので、ああ、美信氏は、奥様に惚れているのだなあと、考えた。そういう風に幸せな出会いだったのに、俺をメルマガで、書いたからだろうか。美信氏と、奥様が線路わきの、誰も通っていない道に現れて、わざと、剣呑に無視して、追い抜いて行ったのだった。

 それ以来ずっと悪い事ばっかりだったが、その悪いことの集大成として、鎌倉駅の地下道で、美信氏の業績禄が300行ぐらい、開示されることとなっているのが、今週だ。お前は、これほど、業績ないだろう?と、伊藤玄二郎達が言っている。『どうだ、どうだ。お前より勝っている人間は、いっぱいるんだ。威張るなよ」と言いたいのだろう。私は、別に威張ってはいない。だが、私の指先が世界を動かしているとは、わかっている。それを、話しているだけだ。

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副題4、『ここで、二紀会のトップの絹谷さんの自宅が、安倍晋三邸よりも豪華だと、思われる、写真を見て、なぜ、二紀会が、これほど、大きくなったかについて、私が、今、思う事を語っておこう』

 私は荻野アンナさんについて、いろいろ語っている。アンナさんは、高学歴母、または、母親が有名人であった、そういう家庭で、育った女性特有の特徴を持って居る。江見さんがどういう経歴だったかは、知らないが、神奈川県では、有名人であったことは確かで、したがって、子供に対して,それほど、手間をかけていないので、アンナさんは、繊細で、内心では、おどおどしているところもある人だと思う。だから、かえって、落語とか大道芸で、自分を鍛えようとしているのだった。だから、アンナさんについて、私が書くことは、女性の子育て論の一つとなる。文芸批評ではない。でも何度も書いているので、母親の江見絹子さんが、出品している二紀会の名前が、世の中に流布することも増えたと思う。

 で、絹谷さんを主役にするドキュメンタリー番組も作られた。京都の育ちであると、言う事。母親と早く別れたという様なことが、放映をされた。

 というわけで、トップがカリスマ化すると、または、スター化すると、当然、その会が、マスコミ露出することも増える。その上、絹谷さんは、油絵具を大量に使う絵を描く人だ。しかも美しい原色を。これは、独立所属の馬越陽子さんも同じなのだけれど、その手の作品は、保存性が高いとみなされて、高いお値段で、売れている模様だ。だから、絹谷さんの、家が、豪邸化した。また、絹谷夫人の行動様式も、絹谷氏が、大富豪になって行った、秘密かもしれない。島田章三夫人鮎子さんは、画家であり繊細で、上品な人で、世間のことには、関心がなさそうだ。

 今関夫人には、お会いしたことは何度もある。お子様はご立派に育てた方だが、ちょっと、ご主人の画業に、出しゃばりすぎだと、思う。ごめんなさい。はっきり言って。ご主人が、若手画家を招待する40人ぐらいの着席パーティに、奥様が監視役みたいに、出席なさっていたが、ああいうのは、良くないと思う。お手伝いに徹していると、言うよりも監視役みたいなので、何とも、不自由だ。で、会合が、楽しくないし、盛り上がらない。お客の方も、そう感じるのだが、私の目には、今関先生も、不自由そうだなあと、感じられた。妻の役割って、本当に難しい。

 上までは、島田章三と、今関一馬より、世代が若い絹谷幸二をトップとする二紀会が、急に伸びたという話でした。しかし、それは、前振りであって、私は、昨日に引き続いて、島田章三と、今関一馬の、対立と、二人から、受けた、いろいろな思いを語りたいのです。長生きしてよかった。二人が亡くなっているからこそ、語ることができるのです。ただし、それを語ることは、死ぬに等しい大きなストレスを浴びる事でしたよ。次の日、何にもできませんでしたから。この章は、同じ事を語りながら、さらに、いろいろをつけ足していきたいと思っています。

 私は人間について研究することが好きなのです。だから、今から書くことは美術評論ではありません。人間の行動記録です。今関先生の方が書きやすいので、先に取り組みます。一部は、前報後註2,で、すでに書いている事です。

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副題5、『私は銀座一丁目で、今関先生の危急を救ったという思いがあった。後註2--。だけど、最後は、非常に後味の悪い思いでを抱いて、その後、黙って、国展に、作品を出さない様になった。最初から、今関先生の引きで、入選したわけではないから、先生に断る必要はなかったのだけれど、、

 それでも、今関先生は、国画会改善のために、仲間(というか目下)を欲しいと思っていらっしゃったし、その一人だったとも思うので、一応何らかの挨拶をするべきだったかなと思ったり、その後も年賀状を出したりするべきだったかなと思うが、

 先生が、仲介をして、先生の友人(一高時代の友人で、日経新聞の元記者)という人に・・・・・・私を、一夜のアヴァンチュールの相手として、差し出そうとなさったのだから、・・・・・肯定できない話なのだった。この件だったが、まず、私が、市原市での、先生の大個展に、一万円のご祝儀を包んで、それとは別に、それが、私の誠心誠意のサービスだと思って、マイクで、お客様全員に聞こえる様な声で、

「一高の寮歌は、知りませんので、琵琶湖周航歌を歌います」と断って、歌い出した。琵琶湖周航歌は、三高の寮歌として、非常に有名な曲だ。実は、私の音域には合わない。低すぎるのだ。だけど、一高卒の、今関先生への、サービスのつもりで、それを選んだ。そして、これも、今関先生へのサービスのつもりで、歌詞を三番まで覚えて行った。私はメロディ本位で、声の美しさで、ひとを魅了する方なので、歌詞も覚えなければ、長い数の小節は、覚えて行かない方なのに、その日に限っては、周到に準備をした。で、やんやの喝さいを受けた。で、名刺交換があって、その何度もアトリエに電話をくれたエリート紳士とは、お話も交わした。非常に気に入ってもらえた。お歌のことだが。私は、マイクを使うと、大変なアッピール力があるのだ。それは、過去に何度も経験があったので、そこまで、ほめそやされても、当然のことだと思っていて、その人が、私に逢いたい≒一夜のアヴァンチュールを求めて来るなんて、夢にも思わなかったのだった。

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副題6、『私は、今関先生と安藤玲子さんとの間に横たわっている美しいエピソードを知っていたので、そのケースが起きるまでは、今関先生を深く信頼していたので、上のケースは、ショックだった』

:::::::::ここで、挿入だが、安藤禮子さんという国画会・会員が居る。芸大卒で、今関先生とは強いきずなで、結ばれている方だ。安藤さんは、芸大卒なのだけれど、会員になかなか成れなかった。本当なら、芸大卒だったら、島田章三先生が面倒を見て、会員にするべきだけれど、山寺重子さんという女性会員が、激しい妨害工作をして、安藤禮子さんは、なかなか、なれなかったのだ。それを、今関先生が、強く推して会員にしてあげたという事だった。これは、全く別の作家の方で、男性で、非常に聡明な方が教えてくれたエピソードだ。今関先生と、安藤禮子さんから、直接に、聞いた話ではない。

 この山寺さんという人が、非常に意地悪な人で、銀座の画廊街で、「あの人」と言ったら誰のことを指すか、誰もが瞬時にわかると言うほどに、意地悪なことで、有名な人だった。だけど、計算高い。だから島田章三先生に取り入って、勢力を拡大していて、安藤さんの会員就任を阻止していたそうだ。中ボスの山寺さんは、自分自身が、自由に動かせる票を、10票前後持って居て、同じくらいの中ボスの島田某子(鮎子さんではない)さんと、協力して、自由自在に会員推挙の力をふるっていたそうだ。山寺さんが、阻止すると言う事は、そういう中ボス連中数人に事前に電話をかけて、「安藤さんに票を入れるな」と言っているという事だと思う。

 このケースは、重子さんが、禮子さんを単純に、嫌いだと言うよりも、もっと根が深いそうだ。二人は同じ年齢で、高校の名前は同じか違うかは知らないけれど、美大受験用の塾で、一緒の時期に勉強した間柄だそうだ。しかも横浜在住。そして、禮子さんは、芸大に入学、重子さんは、女子美に入学した。

 さて、その後なのだ。山寺さんの自信の源泉は、自分の美貌にある。スタイルは、1930年代生まれの女性の普通のスタイルだけど、もしかしたら、背のすらっと高い女優の矢田亜希子さんは、山寺重子さんの娘ではないかと思うほど、(二人は顔は似ていないが、自分の美貌を信じている事では同じであろう)容貌に自信を持って居る女性だ。安藤玲子さんは、それほどではない。そこの差を武器にして、山寺さんは、安藤禮子さんに圧迫を加えていたのだろう。

 私は、このうわさを聞いて以来、安藤齢子さんを深く信頼して、あれこれ、国画会内部で、経験した悩みを電話で、相談したりした。すると、安藤さんは、「まあ、あなたみたいな人は、国画会には、合わないわね」とおっしゃった。その言葉も、私が国画会をやめようと、考えた重要な言葉だった。安藤さんは、横浜の人なので、当時の、横浜国立大学付属中学が、如何に優秀な生徒を出したところかは、知っていらした。そして、知る人ぞ知ると、言うほどに、まだ、日本に存在を知られていなかった、国際キリスト教大学のこともよくわかっていらっしゃった。で、安藤禮子さんが、そうおっしゃるのなら、そうだろうなあと思い。これも、私が、国画会へ、出品しないと決めた理由の一つだった。

 私は昔から、・・・・日本人離れしている・・・・・と、言われている。安藤禮子さん以外からも、そういわれている。そして、これは、根っからの物だから、治す方策があるとも思えない性格だった。 

 真実を貫くとか、・・・・・人間は、かくあるべきだ‥・・・という様な理想を持って居て、目の前で、それに反する行為が行われると、露骨に嫌だと思い、つい、それが、表情に出てしまう方だ。

 この国画会をひそかにやめようとしたことが渡辺幸子さんとの間に激しい確執を生んだ。国画会用に準備した作品を、大学同窓会展に回したので、私が、幸子さんの上に立とうとしているという風な、誤解を受けて、裏切ったと思われたのだ。そのことで、大きな損失を受けたが、国画会に限らず、公募団体展を抜けることは、その人にある程度(いや、もっと大きいかもしれない)の損失をもたらすから、覚悟は、必要だ。

 ところで、ここで、挿入の挿入だが、十文字美信さんが、300行に及ぶ、業績の履歴をプリントアウトして、鎌倉駅の地下道に飾っていたと書いている。先週見つけて、本日写真にとっておこうとして、行ってみたが、月曜日の夜、展示品が交換をされていたそうだ。皆様にお見せできなくて残念だ。だけど、ある意味で、十文字さんが、カメラマンだから、それほどの、業績を積むことができた。カメラマンには、公募団体展みたいなものは、無いと思われる。だから、他人のことを気にしないで、自由に動くことができる。

 私は安藤禮子さんのことは深く信頼しているので、この今関先生の、市原での個展とその後の、エピソードに安藤さんが、関係していたかもしれないと、言う事はすっかり忘れていた。だけど、書き始めて以来、今関先生が、私に直接お電話をくださった覚えがないのだ。誰かが、「川崎さん、どうしてアトリエの電話に出ないの、何度もかけた人が、出ないと言って、困っているらしいわ」と、教えてくれたはずなんだけれど、それが誰だったか、さっぱり覚えていないのだ。でも、突然に安藤禮子さんではないかと思い当たった。

 で、禮子さんに対しては、良い感情を持って居るために、このエピソードを今まで、表に出さなかったのだと思う。すごく嫌な思い出だったけれど、今関先生が、問い合わせに使った人物が安藤さんだったために、記憶の奥深くにしまい込まれていたのだった。安藤玲子さんとは、電話を交わしているので、私が、鎌倉在住のことは知っていらした。そして、パリへ行ったり、ニューヨークへ行ったりして、非常に活発に動いていることも知っていらっしゃった。性格や、考え方も知っていらっしゃった。ただ、私が、今関先生の大個展で、マイクを使って、歌を歌ったことは、ご存じなかった。だから、その伝言の裏にあるものを、言葉に出されていないものは、ご存じなかったと思う。ただ、単純に、今関先生の「お友達が、何度も電話をしたが出ないので、どうしてなんだろうね。君、事情を知っているかね」というぐらいの話だったので、安藤禮子さんは、伝言を引き継いだのだと思う。でも、安藤さんが、彼女は、既に鎌倉へ帰っているみたいですよ」と今関先生に告げてくれたのか? または、その元日経社員だった紳士が、何度電話をかけても、何時も、私がアトリエにいない時間帯だったのか? どちらかはわからないものの、このケースはやがて雲散霧消をした。

 でも、なぜ、今、このエピソードを書くのか?

 それはね。十文字美信夫人との始まりが、素直な計算のないものだったことを語りたいからです。私は引っ越してくる前から、今の住居地が、「人間関係が大変なところで、仕方がなくて引っ越していきます」と、(その家が、四回も住民が変わっている家のご主人)から、聴いて引っ越してきたので、誰とも付き合わないことにしています。そう言う覚悟をして転入してきています。だから、ご近所様は、私のいいところをほとんど知らないと思いますよ。だけど、私って、実は自由自在で、楽しい人なのです。それを言いたかったので、今関先生との、市原市での個展のエピソードをさらしました。

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副題7,『私は島田省三さんの妹さんとPTA広報委員として、長い時間を一緒に過ごしたので、国展に初入選する前から、島田章三の名前は知っていた。だけど、それだから、国画会に自分の絵を出品し始めたわけではない。』

 さて、島田章三さんに移ります。こっちの方が書くのに大変です。しっぽをつかませないと言うか、なんというか。だけど、決して善人ではない。島田章三さんは、ご本人とは、三分程度の会話を交わしただけですが、その妹さんと、120時間ぐらいをPTA役員として、一緒に過ごしているので、彼女を通じて、いろいろ、わかったこともあり、それで、1970年代から、知っているという関係です。国展に初入選をしたのが、1991年ですが、その12年前から、島田章三の行動様式は、知っていて、魅力がないなあと、思っていました。

 島田さんの実妹の大沼嘉津江さんによると、「兄は、安井かずみさんなどと、付き合っていたのですよ」と自慢気に言う。

 ところで、国展に応募したのは、誰か知遇があったからではありません。私は、非常に小さい時から、上野に連れて行ってもらって、公募団体展を見ている人間です。上野の都美館が、グレーのコンクリート外壁だったころから、見ている人間です。

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