銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

隈研吾Srは、私の父と同じく秋田鉱専卒の筈。階級的にも100年程度同じだろう。しかし、CIA側かわい子ちゃんである隈研吾と、真っ反対の社会的処遇を受けているのが今の私である

2024-11-01 22:47:19 | 政治

 今は、2日の夜から、24時間経た3日の夜11時です。この文の総タイトルを【隈研吾って、越境入学で田園調布小に行ったんですって。しかも父親は三菱マテリアルですって。それで判明した事があって】でした。しかし、それを上の物へと、今、改変をしたのです。と言うのも、以前のタイトルだと、で、・・・・・隈研吾って、素晴らしいと、私が、思っていて、この文章もファンレターまたは、押しの一文と誤解をされそうだからです。まったく違いますよ。正反対です。非常に嫌な人だと思っています

 今、2日の夜の10時半です。ここで、文章を書く人間としては、非常に残念ながら、この文章を、如何してわたくしが今、書いたのかと言う秘密というか、みそを、語ってしまいましょう。それは、読者に対するサービスです。

 この文章の、最も大きな・・へそ・・は、・・秋田鉱山専門学校・・です。通称・秋田鉱専・・と、言います。########罫線以下にその学校の説明を置いています。

 隈研吾氏の父君の勤務していた会社は、三菱マテリアルであると、知ったのが、10月30日でした。

 そのとたんに、隈研吾氏が、抱えている、あの、フィロソフィーのなさと、注文主の資産や、富裕度(反対に貧乏度)に対する思いやりのなさの原因が、これでもか、これでもか、というほどにはっきりしたのでした。

 今、大問題となっているのは、地方の美術館が雨漏りをしたり、建物が壊れたりする問題です。隈氏の勝手な思い付きによる、使った素材の悪さで、雨漏りがしたり、屋根が壊れたりする問題です。

 ところが、同じことが起きそうだった開花亭(福井、料亭新館 Sou an)はファーサードを作り直しています。根津美術館にも本館(建物)には、問題のおきそうな素材を使っていません。相手が富裕で、発信力がある人には、気を使っているのです。ずるい人です。

 でもね。わたくしがもっとも初期から批判を開始しているので、鎌倉エージェントが手配して、官房機密費を使って、地方美術館は、立て直すはずです。で、隈研吾氏の懐は、一銭も傷まないでしょう。ずるい人です。

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 日本の敗戦(1945年)で、非常に嫌な思いをした人間は多数いるはずです。その中に、「私の父親は、東亜同文書院卒でした」とか、「私の祖父は、東亜同文書院卒だと、聞いています」という現在75歳以上の人がいるはずです。彼、彼女らは、沈黙しながらも、悔しいなあと、思っていることでしょう。これが、隈氏の異様な不誠実さを生む、心理的機序の一つです。ただし、隈研吾家が、東亜同文書院と、関係があるといっているわけではありません。わたくしの家も関係がないのですが、親しい友人に、父君が、この大学を卒業した人がいて、

 彼女の悔しさが、ビンビン、わかります。今。yahoo 質問箱などを見ると、直接関係がない人が書いているので、冷たい表現ですが、そこに学んだ人は、偏差値的には、東大に入学できるほど、優秀な人たちだったので、大学が消えてしまって本当に悔しいと、思っていると思います。

 わたくしが、この大学に深い同情を持っているのは、父が、満鉄調査部中央試験所というところで、石油開発のエンジニアをしていて、部下に、東亜同文書院を出た中国人などを使っていたと思います。で、我が家内で、こういう大学についての話題は、出ていました。

 そのうえ、現在のICU=国際基督教大学=の立ち位置が、東亜同文書院と似ているのです。で、つぶされるのではないかと、ひそかに心配しています。

 ここでは、支配・被支配の間柄が、当時の東亜同文書院とは、正反対になっています。日本人が当時の中国人にあたって(つまり、支配される側)創設当時、多数やってきた外人教授たちが、戦時中の東亜同文書院の日本人講師、または、日本人留学生にあたると思います。だからこそ、私は、その大学=東亜同文書院に対して、興味や、愛情を持っています。

 同じ種類の悪として、山口淑子=李香蘭=のことは戦後も、幾度も語られるのに、東亜同文書院が語られないのは、気の毒です。

 ところで、今の中国、非常におかしいでしょう。これはね。紅衛兵を使った毛沢東の影響もあるでしょうが、東亜同文書院を卒業した、中国社会の中の、最高級のインテリが、すべて亡くなったからでしょう。で、習近平に歯止めを利かせられる人間が居なくなったのです。

 彼ら=中国社会における、真のインテリは、そこで学んだとは、絶対に口外しません。日本のおかげを被ったなどとは、絶対に口外しません。

 だけど、戦前戦中の日本人って、植民地支配にしても、相当に深い考慮をして、現地人を大切にしていたのです。軍人は知りませんよ。でも、民間人は、当時の満州にいたインテリほどりヴェラルな、人間はいなかったという説もあります。うちの父だって、人を大切にします。だから、隈氏が、対わたくしに行ったことなど(今から逐一書いていきますが、)、それが、東大卒の、有名人のすることですか?と、ただ、ただ、口をあんぐりとしている次第です。非常に残酷無残なことをやっています。

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 さて、私は、隈研吾氏の父君は、絶対に秋田鉱専卒だと、思っていました。それが、10月31日の私の、論考開始時点での、骨格です。

 ところが、11月1日に、私のパソコンに突然、隈氏のウィキペディアの、誕生年度部分、四行ぐらいが浮かんだのです。誰か、他人が、急にその情報を入れ込んだのです。これをだれがやったかが、わからないのですが、なかなか、頭がいい人間です。

 それを、見たら、私はぎょっとしてしまいました。つまり、秋田鉱専は、1951年に閉校になり、秋田大学鉱山学部へ、移行をしたと書いてありました。で、隈氏誕生の年、1964年は、廃校後13年後です。だから、隈氏の父は秋田鉱専卒ではありません。たぶんね。だって、大学卒業後、10年後に結婚しますか? そんなに、研吾Srは、女性に、持てなったですか? 隈氏の顔は、母親系ではなくて、父親系ですか?

 だから、・・・・・・隈氏の父君が、技術屋なら、そこを卒業した筈ですね・・・・・と言う大学が、秋田大学鉱山学部卒となります。というのも地中に埋まっている資源を研究する大学って、日本で、唯一秋田鉱専・・・のちの、秋田大学鉱山学部だけだったからです。三菱マテリアルって、そういう資源を加工するのが、主な仕事だったでしょう。冶金とかいってね。

 もちろん、資源を、掘り出して、精錬することもやりたいでしょう。しかし、金は、信長時代に、とりつくし、銀は、江戸幕府時代に、ほぼ、ほりつくし、銅は、足尾銅山の公害を生んだ時代に、ほぼ、掘りつくしました。

 しかし、秋田鉱専は、輸入した資源を加工することをも教えているのです。父は、燃料事業科(石油を扱う)の第一回卒業生(多分昭和7年ごろ=1932年ごろ)ですが、最初は、資源開発ではなくて、石油精製プラントに、勤務しました。鶴見に在り、はやま石油と言ったそうです。のちに丸善石油になっていきます。しかし、そこをやめてから、撫順炭鉱で、石油を探す仕事につきました。雲崗の石仏と言うものがあるところなのですが、私が関口智弘の番組を見て、ブログで、真っ黒になっていると書いたら、すべてを洗いました。朝ドラスカーレットの主役をした女優が訪ねた、二度目の映像では、石炭粉じんは、すべて、洗い流されていました。私は、習近平政権をも動かす大モノなのですよ。

 わたくしが、この章に意気揚々と、取り組んだ秘密を明らかにします。それは、うちの父も秋田鉱専卒だからです。もし、隈さんの父君が、事務系で、経理担当とか、渉外担当だったら、秋田鉱専卒ではありません。一ツ橋か慶応か、横浜国大卒でしょう。でも、隈氏が、「父は、三菱系の一部上場企業に勤務していました」と書くのではなくて、「三菱マテリアルに勤務していました」と書いているのは、父君がエンジニア系であった・・・・し、父君自身が、それを誇りにしていた・・・・と、私は、考えます。特に隈氏は、東大理一に、入学しているのでしょう? 理二かな? ともかく、理系の頭があるわけで、それは、お父さんから、受け継いでいるものではないかなあ?

 この秋田鉱専って、卒業生が、ものすごく、自校を大切にしている学校です。すごく強い誇りを持っているがっこうです。で、うちの父も、明治生まれなのに「僕はエンジニアだからね」と、良く英語を使っていました。

 17年ぐらい前かな? ICUのクラス会で、たまたま、隣に座った人が石油会社勤務だったので、「内の父って秋田鉱専卒なの」と言ったら、彼がびっくりして、「え、礒部さんのお父さんって、そうなの? 石油会社の、重役って、軒並み、秋田鉱専卒ですよ」と、教えてくれました。

 わたくしの兄弟の進学先、先祖の問題、それから、保有資産のことを、比較しても、ほぼ、隈家と、我が家は、同格の家庭出身です。それなのに、ひどいことをやっています。2024年四月に、表出したのですが、(ただし、今は、詳細を書きません)リロケーションジャパンに、あくどい仕掛けを掛けましたね。ずるいと、言うか、あくどすぎます。まあ、一つ一つ、丁寧に書いていきましょう。

 ここから先が、2日まで、書いている部分です。隈氏の母親に大問題があったとみています。勝気オンリーで、特に東大崇拝者です。それが、隈氏のゆがんだ性格を作ったとみています。それを、丁寧に続けて書いていきます。ここでか、別の章でですが。

 わたくしはおっちょこちょいではないのです。だから、ひどいことをやられたら、即座に文章に書いたりはしません。でも、何が行われたかは、はっきりと理解をしています。で、時がいたれば書きます。

 今、隈氏って、自分にお金や名誉を与えてくれた顧客を裏切っているのですよね。それが、次から次へと明らかになっている段階です。待っていて、良かった。隈研吾って、どういう人間なのか、いつか丁寧に書きます。この章の後ろ半分では、そういう隈氏を作ったのは、母であろうと、言うことを書いていきます。

で、ここから、11月1日に取り組み始めた初稿部分に戻ります。

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 わたくしはね。開発チエさんが「うちの料亭開花亭、新館は、隈研吾の設計なのですよ」と威張ってきたときに、全く動じませんでしたよ。そのころすでに、隈研吾批判を開始していたと思います。しかし、口外はしていませんでした。心の中だけですが、新国立競技場のコンペとか、そのあたりからはブログでも、公開で、批判をする様になりました。

 しかし、本日(2024年10月31日)は、批判する限り、隈研吾氏のwikipedia ぐらい読んでおかないとねと考えて、学歴のところは読みました。

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 すると、大倉山で育ったが、田園調布小学校に行ったとあります。私ね、今小説書いているといったでしょう。そこに学芸大学付属(世田谷)小学校が登場するのです。

 で、すぐピンときました。隈研吾氏の両親は、「絶対にそこを受験させましたね」と。これは、大倉山から東横線に乗れば(特に朝早くだったら)座っていて、30分で到着します。

 まあ、国立大学の付属小学校って、抽選もあるのです。で、おさない隈研吾氏がそこを不合格だったと仮定しても、抽選で、落ちたのなら、別に頭が悪いということではないのですよ。でもね。両親、特に母親が勝気だと、これは、許せないのです。何を許せないかというと、

 別に息子でもないし、学芸大学付属小学校でもないけれど、負けたという感覚が許せないのです。

 でね。勝つために田園調布小学校へお子様を越境入学させたのです。まあ、普通に通うとなると、大綱小学校か、師岡小学校か、大曾根小学校となるのでしょう。

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 わたくしは小学校三年まで、船橋市立塚田小学校というところに通っていたのです。あのね。地域の特徴というのがあって、そこの小学校では、当時、大卒のお父さんがいる家庭って、三軒もなかったのではないでしょうか? もしかするとうちだけだったかな? サラリーマン家庭が、三軒ぐらい。だけど、ほかの二軒のお父さんが今でいう大卒だったという雰囲気はないのです。営為業か何かをやっていて、家族のためにサンマを焼いていましたのでね。

 ところで、船橋から横浜へ引っ越しをすることになったときに、担任の石倉 操先生(戦争未亡人でいらっしゃった)が、私の母を学校に呼んで、

 「お宅のお嬢様って、何でもよくできるので、慢心しているところがあります。そして、横着になっています。または、手抜きをするところがあります。それではね。横浜に引っ越したら、たちまち下の方へ落ちますよ。特に日吉台小学校ですね。これは、慶応のあるところです。そう言う小学校へ転校して、今の様な態度をとり続けていたら、たちまち、嫌われます。しかも、実力は下の方とみなされます。お成績も下の方になるでしょう。だから、毎日、毎日、怠りなく、きちんとお勉強する様に、よく言い聞かせてあげてください」と告げられたのです。母は、びっくりして、(母自身も内心では傲慢だったと思いますよ。・・・・千葉の人は嫌いよ。こすっからいのだもの・・・・・これは、江戸時代の代官制度が過酷だったせいよ。税金が高すぎたのよ。だから、性格が悪くなった・・・・・・毛利藩はお殿様が偉かったから、民衆が豊かだから、こすっからくない」と、よくいっていました。・・・・・ただし、これは、1940年代の話です。今は、そこ=船橋市塚田)もすっかり、都会化して、住民がミックス化しています。江戸時代の、農家が残っているわけでもないでしょう。

 そして船橋市って、どこかの、小学校か、中学校で、交響楽団を持っているのですよ。大変モダンな都会となったのです。東京へ近いからね。鎌倉よりもずっと、近いからです。で、ブランドよりも実質を尊ぶ賢い人間が侵入して、新しい家を建てたので、小学校で、交響楽団を、構成できるほど、民度の高い地域もできたそうです。

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 この、絶対にある(しかし、建前としてはないこととなっている)地域格差というのを、隈研吾氏の両親、特に母親(医者の家系だそうです)が、感じ取っていて、「大倉山学区の小学校へ入れたら研吾は将来東大へ入れません」と、考えたのだと思います。

 確かに今時間をかけて調べました。すると、その三つの小学校のある一帯には、大規模住宅開発地が無いのです。田園調布、日吉、妙蓮寺、白楽辺たりは、東急が開発した、住宅街があります。60坪から300坪の単位広さです。田園調布以北は、個人的な、または、小さな不動産会社が、各個開発した住宅街ですが、それでも、せんぜんのことですから、60坪以上の大きさの住宅地ができていて、90坪近いおうちは、現在は分割されて、売られている状況です。または、マンション化されている。

 しかし、隈研吾氏いわく、「古い家に住んでいた」と。または、「母親側の家だった」とも言っています。そうすると、大正時代に、隈研吾氏の母方が、どこかの地方から、上京して、大倉山(環境は良いですよ。慶応理工学部を作った大倉財閥が、丘の上に、国会議事堂に似た別荘を作った一帯だから。梅林もあって)が、気に入って、医院とか、家族用住宅とか、看護婦などの寮など、数軒の建物を作ったうち、どれかをもらったものだと思います。

 隈研吾氏の傲慢の拠って来たるゆえんの一つに、「僕は田舎者ではないのですよ。それに実家は、貧乏ではなかったのです」というものがあると思います。父親はサラリーマンですが、自分で家を建てる必要がなかった、わけですね。で、この研吾氏ていどの年齢のこども(=64歳)が、いる場合、親から、こういう交通至便のところに、家を一軒もらっていない場合は、当然家を一軒建てています。それで、普通の人は、当時は、住宅金融公庫というところで、今でいう住宅ローンを組んで、お金を借りて、家を建てて、それを、毎月返済していくわけです。そのお金が、隈家では、いりませんでした。

 東横線の駅に徒歩圏内に、一戸建ての家を建てるとなると、そりゃあ、高額のお金がいります。それが、いらなかったのですから、趣味の世界(画集を買うとか、美術館に行くとか)に注ぎ込めますね。で、それは、隈研吾を作った、良き文化資産というポイントではあります。また、妻は医者の娘ですから、しょっちゅう、実家に行って、母親と一緒に日本橋の三越とか高島屋で、着物をあつらえたりしていたでしょう。で、豊かな家だったと、言う自覚はあると思います。

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 で、寄留という道を使います。田園調布に住んでいる知人の住所に住民票だけ、移すのです。そして、田園調布小学校へ入学する資格を得ます。

 しかし、6歳の時に、両親から有無を言わせず与えられた、この進路こそ、隈研吾氏の現在の心理状態を作ってきたのです。つまり他人軟化どっちでもいいのだ。僕自身に光が当たればいいのだと言う考えを発揮し続ける、頭の事です。いわゆる、偏差値的には、頭はいいでしょう。しかし、フィロソフィーがない。心がない。じっと立ち止まって考えるということをしない。

 だって、六歳にして、友人を裏切ってよいのだ。自分が出世するためなら・・・・・と、教えられるのですよ。それじゃあね。子供なりの。または、子供らしいまっすぐな正義感なんて、なくなるの、当たり前ではないですか? そして、絶対に反省しない人が、出来上がったのです。

 まあ、開花亭新館だけは、設計しなおして、建築しなおしたみたいです。再建築費は、開花亭側が持って、再設計料は、請求しなかったと思います。このたてものだけが、どうして、そういう結末を見たかというと、開発チエさんが私を激しく激しくいじめたからです。

 で、当然のごとく、私は、開花亭、および、開発一族、または、開発さんの、美術手帳上の投稿、などをチェックしていくこととなります。多分、同じ慶応美学部卒の、酒井忠康が、いじめるというアイデアの源泉ですが、何日の何時にどういうことが起きたか、開発チエさんの、文章や頭脳に、如何に、フィロソフィーが足りなかったかを丁寧に書いて行くこととなるでしょう。暇ができたらですが、あそこまで、ひどい文言の羅列されたメールを、七通も送ってこられたら、そりゃあ、一生、忘れませんよ。

 そして、隈研吾氏に戻ります。母君がね、小学校一年の時に、田園調布小学校へ寄留をさせたので、あの性格が、形成されたのです。反省しない性格のことです。また、顧客のために、思いやりを示さない性格です。

 壊れやすい。劣化しやすい。維持費がかかりすぎる、そういう建物を作っても、そして、批判をされても、絶対に反省しない、そういう体質を作り上げたのです。「このデザインは、変わっている。従来には、無かったものだ。だから、controvertial なので、それで、良いんだ」ということでしょう。いやあ、そういう主張を貫く」性質というべきか?

 どうしてかというと、有無を言わせず、ご近所住民を軽蔑する様に、両親(特に母親だったとわたくしは推察している)が仕向けたからです。「うちの子は、将来(東大に入る子ですから、ご近所のお子さんと一緒に、田んぼの中の小学校へ、行ったらだめなのです」と、夫とは、会話を交わしていたでしょう。研吾ちゃん本人に、それを言ったかどうかは知りません。

 この田園調布小学校への入学こそ、隈研吾氏の、現在を作ったと、私は考えています。で、日本中のエリート家庭の、エリートとされる親が、隈研吾氏の両親みたいだから、隈研吾氏の様なフィロソフィーのない、エリート(=有名人)がたくさん、出来上がるのです。

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 さて、隈研吾氏のお母さんがなぜ、隈研吾氏を絶対に東大へ入れようと決意したかを、推察していきます。わたくしは、こういうところが大得意な分野で、したがって、東大勤務時代に、上司から、

・・・・・寿退職(❓・・・・実際は、体を壊しただけだったのだが、早期に退職をした)をしなければ、将来絶対に東大教授になれるよ。どういうことかというと、あんたには、演繹する力があるからね。統合する力もあるから。

 現在(というのは、1960年代のことですが)の東大は、あまりにも入学試験が難しくなったのでね。分析することは上手だが、演繹する力が減っている。

 ところでね。東大っていうのは、全国唯一の場所として、学会を管理しないといけない。で、幾分かの政治力も必要である。あんたには、それもあるからね」と言っていただいています。でね。今から、隈研吾氏の性格形成を分析するにあたって、その演繹の力を120%発揮したいのですが、その前に、

 「政治力もあるからね」と、言われた部分を弁解的に説明をしておきたいと思います。わたくしがそのお教室を引っ掻き回したということではなくて、一番、意を注いだのは、気を遣うという点です。そのころ、教授職、または、助教授職を、狙うというか、(教授が、居場所をお世話をしてあげないと、いけない)ポスドクの男性が、6人もいたのです。でね。「お通信簿の成績順に決めます」なんて言う単純な、選択ではない。すごく複雑な過程を経ます。教授が誰を好きなのか?嫌いなのか?

 また、選択をされる側が、教授を好きか、嫌いか、お互いを、好きか、嫌いか、お互いに、ライバル心があるのかないのか。そう言う心理状態が綾を成す、複雑さ。私はね。自分の身も守らないといけないけれど、その複雑な競争に、巻き込まれて、いわゆる損な立場(負けた立場)に陥っている人に失礼にならない様に、気を使いました。とても、気の毒だからです。子女の教育だって、東京に住んでいる場合と、地方、特に九州や、北海道に住んでいる場合では、学費が全然違いますから。

で、東京にはほとんど出てこられない様な地方大学にとばされる方は、大変お気の毒です。

 …しかし、あまりに露骨に同情を示すと、それは、教授に対する反乱の一種になるわけで、やってはいけないことです。しかし、そういう私の言うに言われない努力を教授はわかっていらっしゃったのですね。それが、「あんたには、政治力があるからね」という言葉に結実をしたと思います。

 で、その時に褒めていただいた、「あんたには、演繹力があるからね」というお言葉を信じて、今日もそれを駆使します。ここから先、語ることは、週刊誌情報でも、ネット情報でもないし、東大卒の学友から、聞いた噂話でもないです。ただ、ただ、ひとえに、私の演繹力の高さで、導いた答えです。

  隈研吾氏が、生まれたころの男女の出会いは、お見合いしかなかったです。でね、小泉純一郎氏と、宮本佳代子さんの年齢差は、7歳もあります。二人の結婚式のころは、私は、のちに小泉家のいろいろを教えてくれる斎藤敏江さんが、現役のアメリ会大使館館員だったので、何も聞いていません。ただ、純一郎氏が、総理大臣になったころ、佳代子さんに対して、一億円が贈呈されたそうです。

 小泉家って、それほど、お金持ちではないと思いますよ。利益誘導型の政治家ではないからです。それでも、一億円を贈呈したのは、小泉家側に離婚の責任があると、小泉家側が考えているのかなあと、うっすらと思っていましたが、違いますね。

 25年前は、インターネットもwikipedia もなかったので、佳代子さんについての情報が、まったくなかったので、全国民がうっすらとそれを信じている様に、小姑の信子さんや、道子さんがいじめたのかと、考えていました。しかし、今般、佳代子さんの、詳しい経歴を見て、そこに、三井不動産とあったので、あっというほどに真相がわかりました。25年前は、彼女は相鉄不動産に勤務していたはずなのです。どうして転職があったのかを、考えると、ここには、傾きマンションの話が関係していて、軽井沢スキーバス事故も関係してきます。そして、石井啓一、元、国土交通大臣にして、現在公明党のトップである紳士が、選挙に落選した話も・・・・関係してきます。でも、隈研吾分析から離れすぎるので、ここは、これ以上は、進まないで、端折ります。

 ただ、宮本佳代子さんが、若いころ、美女だったという話を語りたいのです。純一郎氏も、美形です。従って、一瞬で、決まった結婚の約束だったと、推察しています。

 一方、現在の隈研吾氏を見ていると、・・・・・この人が、大倉山育ちのお坊ちゃまなのですか? 変だなあ? と思うほど、頭が大きいですよね。わたくしは隈研吾氏の頭の大きさを考えている時に、ご近所の、渡辺まき夫人というのが、CIA連中に動かされて、私に対して、挨拶をしないキャンペーンの実行者として、あまりに多数回、山の中の道を歩いてきて、かつ、無視するという無礼を働くので、怒って、はっきりと実名入りで、「彼女の頭は、NHKが放映した人形劇【ぶー、ふー、うー】に出てきた豚人形みたいに逆平方四辺形である」と、言っています。これからは、彼女が同じことをしたら、必ず、隈研吾氏が、顧客に悲しい負担を強いている、悪辣さも、添付して、渡辺夫妻を分析していきましょう。どうしてかと言うと、二人の頭って、外観がとても似ているからです。

 ここで、11月1日の夜には、睡魔が襲ってきたので、先を書けませんでした。お待ちいただきたく。と、中断したのですが、次の日に、以下の部分を補筆しました。

単純に睡魔が襲ってきただけではなくて、これから、書こうとしていることを阻止すべく、wikipedia という形(ただし、4行程度だけ)で、隈研吾氏の、年齢を知らせてきたのです。隈 研吾(くま けんご、1954年昭和29年〉8月8日 - )は、日本建築家一級建築士)、デザイナー[1]。株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰。東京大学特別教授。現在70歳ですって。

わたくしより12歳若いのでした。え、本当?という感じでした。経歴を見た時に、大体同年代だろうと思って、生年月日を確認しなかったからです。もっと、年取っていると思っていました。だって、でかっつらも、でかっつらの人ですからね。

 そのうえ、角野栄子さんと、ヨーロッパを一緒に旅して,それがカラフル魔女。ヨーロッパ偏として、NHKで、放映をされるそうです。私をいじめるためでしょうが、私は逆ザヤを張ります。

 ええーっ? まだ70なのですか? 信じられない? じゃあねえ。根津美術館の設計、何歳で、引き受けたのですか?

 でね。その年齢(=若さ)によって、書きにくいことが出てきました。

 隈研吾氏の母君は、お見合い結婚のはずで、隈研吾氏の、父君の学歴(=きっと、卒業した大学は、=秋田鉱専のはずです)を、軽蔑していて、夫が、東大卒だったら、良かったなあと、と、考えていたので、小学生時代の、研吾ちゃんを、ほめまくって、ほめまくって、東大へ入学できる様に仕向けたと、考えています。いました。ところが、もし、恋愛結婚だと、ちょっと、変わってくるからです。

ここから先は、4日に補筆します。

そういう育て方も、隈氏を異様に、わがままいっぱいにして、反省しない人へ、育て上げたのでしょう。

 ただ、両親の結婚年齢を考えると、社内恋愛結婚だったかもしれず、そうなると、その思考が成立しない可能性が出てきたのです。それで、ここで、二度目の、長時間、中断をすることをお許しくださいませ。

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秋田鉱山専門学校
(秋田鉱専)
創立 1910年
所在地 秋田県秋田市
初代校長 小花冬吉
廃止 1951年
後身校 秋田大学 鉱山学部[1]
同窓会 北光会
秋田鉱山専門学校本館の外観を復元して建設された秋田大学百周年記念館

秋田鉱山専門学校(あきたこうざんせんもんがっこう)は、秋田県秋田市1910年明治43年)3月に設立された官立の旧制専門学校

略称は「秋田鉱専」。英語名称は「Akita Mining College」。

沿革

秋田大学国際資源学部および理工学部の一部(旧鉱山学部、工学資源学部)の前身校である。日本唯一の官立鉱山専門学校であるとともに、秋田県初の高等教育機関であった。

1908年(明治41年)3月、文部大臣牧野伸顕秋田県知事下岡忠治藤田伝三郎岩崎久弥古河虎之助からの校地・創設費35万円の寄附出願を許可し、設立の基礎を定めた。当時秋田県内に鉱山を有していた藤田岩崎古河の三家からの寄附については、秋田県出身で当時合名会社藤田組小坂鉱業所長であった田中隆三(元農商務省鉱山局長、農商務次官)の尽力が大きい。

設立にあたりドイツのフライベルク鉱山学校(: Bergakademie Freiberg[2][3] を範とし、鉱山大学を目指したものの、当時は単科大学制度がなかったため、専門学校令に基づく専門学校として設立された。しかし初代校長小花冬吉等の学校関係者は将来的な鉱山大学への昇格を期待しており、このため昭和初期に至るまで「秋田鉱山専門学校」の門札を掲げなかった。

設立時の学科は採鉱学科及び冶金学科であったが、のちに鉱山機械学科・燃料学科・電気科・金属工業科などを増設した。

卒業生の総数は、26期計5,741人である。

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