銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

ケストナーは、大人になってから、父に謝罪をしている。1941年生まれの窪島誠一郎は養父母に対して感謝していますか? いわさきちひろは、亡き前夫に対して謝罪していますか?

2024-11-05 04:10:06 | 政治

副題1、『皆様は、ケストナーの【飛ぶ教室】は、ご存じだと思います。私は、今、考えて、見て、日本での翻訳本の出版時期とは別の順序ですが、ケストナーの著作####罫線以下に置いている)の中で5冊ほど読んでいます。傑作は飛ぶ教室で、日本で今、【飛ぶ教室】という雑誌が出版されているほどです。でもね。忘れがたいのは、【私が子供だった頃】です。で、私とし手は、これが、子供向けの本の中に含まれているのは、徹底的に解せないです。このwikipedia を、書いている人は、それを読んでおらず、タイトルだけを見て、子供向けに分類したのではないかしら?

 それと、父親の職業が、カバン職人だと書いてありますが、本を読むと違います。靴修理工だったのです。

 それと、

母の結婚相手は、ケストナーの本当の父親ではなくて、

(同じく、ウィキペディアには、)

本当の父親はユダヤ人の主治医エミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士で、不倫の子供であった、と言われているがケストナー本人はそれについて言及しておらず、また、その根拠の大多数が伝聞であることから、いまだ結論は出ていない。

と、ありますが、【私が子供だった頃】には、そんな話は、出てこなかったと思います。

 ともかく、私はそれを買って読んだという記憶はあるのですが、今、自宅にはないみたいです。一度エッセーで書いているからでしょう。だから盗まれました。

 私は、この本で、もっと、感動したところは、『自分は幼いころ、母がいないと困るし、母が自分をとてもかわいがってくれていたので、母の味方をして、父親を拒否していたが、それは、本当に申し訳ないことだった。今は、謝罪したいと思っている』と、書いているところです。

 Wikipediaにも、別かれてドレスデンに暮らしている母の晩年を東ドイツが、厚遇したと書いてありますが、父親の消息は、書いてありません。

 しかし、幼い僕が、母の方へ、寄り添って、一緒になって父を無視していたのは、本当に申し訳なかったと、書いているところが、ケストナーに傑作飛ぶ教室が生まれた、神の恩寵だと思っています。その心根が素晴らしいです。

 そういう意味では、井の頭線【明大前駅】そばに100坪はありそうな広い土地を残してくれて、画廊または美術館経営の礎石を与えてくれた養父母には、全く感謝の言葉を残していない、窪島誠一郎氏には、大いに疑問を持ちます。生活苦の挙句自分を捨てた水上勉氏には、その後、じつのちちだと判明し、その日以来、べたべたと、引っ付いて慕って行っているのに、その人のおかげで、大人になることができた養父母に対する真心を表明していないのは、嫌悪感をもちます。この間、全く偶然に、子供時代の読書感想文ノートを発見したのです。リア王とか、何か、名作の子供向けストーリー本を小学生時代読んでいるのですが(1948~1949ごろです)著者は、水上勉とあったので、このころ、窪島誠一郎を捨てた時期に当たるのだと思います。

 ただね、養父が、靴修理工だったのは、【明大前】駅そばという地の利も悪いのです。簡単に渋谷や、新宿に出られますね。そういう地域に住んでいる中流階級の人が、一軒だけ存在している駅そば靴屋で、新しい靴を買いますか。むろん買いません。だから、修理工をするしかないのです。

 ところで、日本では、皮を扱う職業は、もしかしたら部落差別を思い出させるので、それもあって、特に養父母と決別したかったのだろうか? ただ、養父母を大切に思った方が、彼の周辺が明るくなると思います。

 ケストナーも、母が不倫の子供だったら、顔や、頭脳で靴修理工の父親の子供ではないと、15歳ぐらいの時に気が付いたかもしれないのですが、大人になってから、・・・・・母と一緒になって幼いころに父を無視したのは、本当に申し訳なかった・・・・・といっています。これが、ケストナーを救っています。

 この話とは別に、お茶大付属高校時代に、高校生になっても父をひどく毛嫌いしている級友が居ました。父親は母親と仲が悪くて、お金を家に入れないのだそうです。だけど、彼女から、修学旅行中にも、また、2005年にも二度目として、したたかにいじめられた私は、彼女のお母さんにも問題があったのだと、判断をしています。

 これは、一種の伏線です。三回か、四回のちに回収します。お茶大付属高校の2024-10-25のクラス会にも一種の罠が仕掛けられていてねというところで、回収します。

 もっとも残酷で、ひどいのは、いわさきちひろです。いわさきひちろは、あまり、お顔ができれいではないです。しかも、男性の数が少なくなっている時期の適齢期を迎えています。1918年生まれなので、1938年から、1942年ごろが結婚適齢期です。その当時は、よい家の娘は、結婚適齢期に結婚するものだと、決められていたからです。1938年から、1942年が、彼女の結婚適齢期ですが、お見合いが成立しなかったので、結局入り婿としての、養子を迎えます。しかも、20歳の時に。両親は、彼女のお顔が、きれいではないので焦ったと思われます。

大日本帝国陸軍建築技師である岩崎正勝と、女学校の教師である文江との間に生まれたとありますので、お婿さんは、陸軍で、父の部下だった青年でしょう。だから、お婿さんの方もこの結婚は断れなかったのです。昔は、職業上の上下関係は絶対だし、・・・‥だけど、お母さんは、ちひろが20歳で結婚するころ、第六高等女学校教師をしています。多分奈良女子大か、お茶大出身です。

 皆さんは、【寅に翼】をご覧になりましたか? 法律の世界で、女性差別に出会う、主人公は、せっかく弁護士になったのに、仕事の依頼がないことに愕然とします。理由を探るうちに、25歳を過ぎても未婚の女性は、社会的に信用がないからだと、気が付きます。そこで、慌ててお見合いに入るわけですが、相手が見つかりません。すると、それを見ていた階段下の狭いスペースを居住空間として与えられていた、書生が、お婿さんになると、彼の方から名乗りを上げてくれます。この役をした仲野太賀が5日徹子の部屋に出るそうです。

 ドラマと、実際は違うかもしれません。三淵嘉子さんの両親の方から彼に頼んだのかもしれません。しかし、夫婦仲は、大変良かった模様です。そして、短い間にお子様を、一人残してお婿さんは戦死します。

 一方、いわさきちひろは、お婿さんと一緒に満州にわたりますが、一年ぐらいで、お婿さんは、自殺をします。多分逃げ場がなかったのです。きっとサラリーマンとして、軍人稼業に、入っていたのでしょうが、夕飯に帰ってみるとお膳には、自分一人用のご飯が置かれていて、一番最初の日に、「私は、用事がありますので、一人で、食べておいてください」とでも、置手紙をしておけば、「夫は理解をするはずだ」とちひろは考えて、満州時代ずっと、一人で、ご飯を食べさせていたのだと思います。会話もむろんなかったのです。

 わがまま一杯に育てられていたお嬢様であったちひろは、生涯、このことについては反省の言葉を出していません。そして、松本善明と結婚して、お子さんが生まれると、(ということはセックスができる人なのですが、初婚の相手とはしなかったわけです。相手を峻別する人なのです)、非常に深い愛情を示します。その偏波は、私には、ちょっと理解できません。

 いわさき家の両親の態度は、理解ができます。戦後、両親は開拓農民として、長野県に移住をします。これは、お父さんは建築家といえども、陸軍の人なので、当然パージ(排除の対象となること)を受けて、いい仕事につけません。でも、お母さんの方は、第六高女(現在の三田高校)の先生に、すでに、就業しているので、一家の家計をささえるためには、やめない方がいいのです。が、やはり、やめて、長野県へ引っ込みます。これは、お婿さんの自殺が大きいと思います。だから、自分で、自分を罰するという意味で、引退蟄居したと思います。

 ただ、その時開拓した農地が、いわさきちひろ美術館になっているそうですから、月日の経過とは、恐ろしいものです。または、ちひろの両親にとっては、「人間万事塞翁が馬だねえ」と、死後の世界で、かたりあっていることでしょう。「

 ところで、私は昔から、いわさきちひろの絵がダメでした。この初婚の相手の自殺というエピソードを知る前からです。夫と家族のために大量の絵を描かなければならず、一種の時短の意味で発明した目の描き方だそうですが、永遠の虚無というか何か、空恐ろしいものを感じて、受容できなかったのです。そうだったのか?と、今なら、わかります。入り婿さんは、ちひろの指先を通じて描かれる、あの黒い目となり、深い深い絶望を見る人に伝えているのです。すごい、すごい、圧迫された魂は、天空を飛ぶのです。

  なお、いわさきちひろは、色彩感覚としては、素晴らしいものを持っている人です。今調べたら、窓際のトットちゃんは、全世界で、2500万部が売れて、これは、まだ、破られていない記録だそうです。そのヒットにいわさき千尋が大きく役立っていると、書いてあります。ある個人の自叙伝としての記録ですが。しかし、私は買っていない。また、図書館で読んだこともない。

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今、6時間かけて書いたものを、いったん、引っ込めますl

2024-11-05 03:19:03 | 政治

 夜の九時から、午前三時までかけて文章を書いたのですが、いったん、ひっこめます。新聞連載小説の類にしたいといっても、結論が二か所で書いていないのです。これは、私の、プライドが許さないです。おまちいだきたいです。

 それは、隈研吾の母君分析に入る前段階のものでしたが・・・・・どうか、前報を読みながら、お待ちいただきたいと、存じます。

 と言っていますが、そういった三時間のちに、長すぎた一文を、分割して、提供しています。一緒に住んだことのある人間に対してきつい態度をとる人たちの話です。

 どうして、それが、隈研吾分析に役立つかというと、普通のやさしさを持っている人間だったら、特に田舎の美術館にこそ、良い材料を使って、

 今の騒動のように、田舎にある、馬頭(=広重)美術館に、壊れる様な素材(杉の細い材)を使って、青山にある、根津美術館本館には、上等な素材を使って、がっしりと、作り上げるなどという差別をしないと思うからです。

 修理用にクラウドファンディングを立ち上げて、1000万円集まりましたですって。なんて嫌な話でしょう。

 どうせ、内閣官房機密費が、また、出されて、利用できるのでしょう。で、隈研吾の懐は、一切、いたまないという形です。

 それって、金額の大きさを考えると、ほとんどわいろだと思います。おっそろしい。

 うちの父難って、一銭のお金をもらっていないのに、立場が、安本(戦後あった特別な館長、配給をつかさどる)の係長をしていたために、書類送検で、職を失っています。

 また、この雪ノ下二丁目の山の中で、旧中谷共二邸というのが、1970万円で売り出され、山の人は、前田達之君が買ったと、信じ込んでいます。

 というのも第四代町内会長、白井達雄・ひろこ夫妻が、大宣伝を、町内会として行ってあげて、そこがシェアハウスになったと、聞かされたので、一戸につき、75000円毎月、前田達之君の手に入って、いいわねえと、みんな祝福したらしいですよ。

 ところがどうもおかしいと、言う直感が働くのです。リフォームしたそうですが、あまりにも雑です。床は安い安いプラスチック素材でね。壁もそうです。で、収納部分もない。台所の流しなど、普通だと、最低でも、12万円ぐらいしますが、4万円程度の業務用です。収納部分の代わりに、パイプ製の、布団干しが、一台ずつ、置いてあるだけです。で、彼がシェアハウス経営に入って数年のちの、今年、法務局に行ってきました。イコール2024年度の五月です。すると、登記がなされていないのです。え、三年もたっているのにどうして登記がなされていないのですか?

 ここを推理すると、その家の、駅の方に歩いていく方角にある、前田祝一(故人)と、前田清子さんの家が、違法建築であるために、その土地にリフォームも新築もできない土地なのです。

 ほかにも四件以上、特に数億円の、金銭が渡っているケースもあります。今日は書きませんが、

 一銭もお金をもらっていないのに上司=課長が、家を建ててもらった上に1940年代の当時は高価なものとされていたピアノまで買ってもらっていたから、贈収賄事件が成立し、係長だった父は書類送検の憂き目に出会い、職や名誉を失いました。

 もし、みずほ銀行のMs柴田が支店長に伺いも立てずにたった一人の決断で、「あなたを、みずほ銀行から追い出します」といった陰に、・・・・・あの人は、犯罪者の子供です・・・・などという讒言が、八尾夫妻(妻はわたくしのお茶大付属高校、昭和36年卒・同期、夫は数歳年上で、多分東大卒、富士銀行に二人とも務めていた。どこの支店だかは、私は、知らないが・・・・妻の方はお子様が生まれるとほぼ同時に専業主婦化)から入っていたので、そうなっていたとしたら隈研吾分析を終わったら、みずほ銀行について、また、お茶大付属高校の同期会について、長い長い文章を書かないといけません。

 たまたま、隈研吾分析にもその、クラス会(2024-10-25)での罠の解明が必要となりました。

 非公開のつもりだったのです。しかし、「熱帯魚を見せてくださいね」と、言って、二階訪問をしているのでロビー再配者の今野さんから、声がかかって、「9月14日は失礼しました。川崎さん、仲直りをしましょう。金庫のかぎの再発行の手続きをいたしましょうね」と言って、金庫のかぎの再発行と、それ以外の、すべてを回復してもらわないと、困ります。

 どうも・・・・あの8月2日の全財産を盗まれた大騒動で、体を壊した・・・・らしいのです。11日に詳細がわかります。今は、用心しておかないといけないわねという段階です。だから、五時までとか、6時まで起きているのはやめないといけません。よく私は、私をいじめると、死んだり、病気になったり、経済的損失をこうむりますと、言っています。その発言者自体が、病気になったら、目も当てられませんね。

 しかし、コロナ禍があったでしょう。その時期、二回ほど、感染する可能性があったのです。その時、死の予行演習はしました。今回は、じくじくと進む病気らしい。肺がんか? 違うか? だから、六か月は持つでしょう。その間に、書けるかなあ。すべてを。大変だ。だけど、書かないで、死んだら、菅原道真よりも、恐ろしい災害をもたらす神になるでしょう。だって、1965年から始まっている、これ程、ひどいいじめを、書かないで、死んだら、恨みの塊になります。

 本当に一年以内に死んだら、私は、菅原道真・現代板・になります。わたくしの予言は、社会の現象として必ず当たっているのです。いや、不吉なことは、書きませんよ。ブログには、書きません。特にある個人という他人にとって不吉なことはね。でも、頭の中では、ちゃんと、見通しをつけていて、すべてはその通りになっています。

ここで、寝ます。

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