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銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

白皙の人、湊宏(そのお葬式)

2009-05-31 16:04:38 | Weblog
 私が『特に不思議だと思っている』または、『これは、真実だと内々に感じている』ことは、人と人は、別に上位の人間のみが、影響を与えるわけではないという事です。下位の人間もまた、上位の人間に影響を与えるのだという事です。今、どうしてか、湊先生の本が見当たらず、正式な年表をあげることが出来ませんが、

 先生は1968年に、35才のときに、母校をお去りになり、都立大学へ転職をなさいました。その件で、「あなたが原因でしょう」と誰かから、いわれたことはありません。むしろ、あんな事があったのに、仲良しでした。卒業時には先生から、「人生にはロングスパンで計画を立てる事が必要です。五年、十年と言う風に決めて、計画を立てなさい」と言う言葉を、デスクの傍で、他の誰も一緒ではない形で、いただきました。だけど、今思うと先生はまだ、そのときに32才でいらっしゃいました。

 信じられないくらいの若さです。そして、私の方は、卒業後、都立大学へ(?)、二回ほど電話を掛けていますが、居留守を使われたことは無く、先生は結婚式に大変上等なスピーチさえくださったのです。そのときに先生が35才でした。

 でも、私は心の中で、『もしかしたら、先生の転職は私に関係がある。申し訳ないなあ』と考えていました。すべて時効だから申し上げますが、推薦してくださった先生と、湊先生との間には、隠された緊張関係があったのです。

 そちらは物理化学の専門家で、湊先生は有機化学の専門家です。あらゆる分野にシゴトの難易度と言うのがあって、物理化学の方が、有機化学より頭を使うとみなされています。理論の方が現場の作業より難しいとみなされています。ですから物理化学の先生は、ご自分が、頭をより多く使う、難しいことをやっているのだという信念と誇りがあったと感じます。

 しかし、社会の上での成功と言う意味では、繰り返しますが、湊先生は大成功者でした。企業や、文部省からの助成金も多く出ていたと思いますし、著訳書も多かったのです。エネルギッシュで、寮の指導者もなさっていたし、あらゆる意味で存在感の大きな方でした。

 だから、物理化学の先生の方が圧迫感を受けておられたと思います。そういうものを消化する作業としての、両者合意の上での、私の助手就任の予定でした。しかし、予定が狂ってしまいました。そして、二人の先生の間には、それ以前より、もっと大きな緊張関係が生まれたのではないかと、私は考えています。

 大学教授なんて、元々、とても誇りが高い、しかも個性の強い人が就業する職種です。で、お互いの緊張関係がありがちな職業ですが、同じ科に大勢の教授がいれば、その緊張関係は薄まります。でも、国際基督教大学は、規模が小さいです。だから、肌合いがあわない人が近所で仕事を一緒にやることの緊張感が、より強まります。

 湊先生は仕事に関しては、エネルギッシュで怖い方ですが、『人間関係にあれこれ、エネルギーを割くなどもったいない』とお考えだったであろう、さっぱりした性格の方でした。これは理工系のシゴト師として、成功するためにも重要なファクターです。しかもスターだから、引く手あまたです。

 だから、さっと転職をなさってしまいました。この事ですが、私は、先生が既に、国際基督教大学のごく近所に家を建てていらっしゃったので、人生の予定外のことだと感じて、非常に、申し訳ないと思いました。その上、スター教授を母校から去らせてしまったことにも、責任を感じました。また先生の転職当時、助手をしていた人たちにも申し訳ないと感じました。

 ただ、それはそれとして、私自身は湊先生の生き方に大きな影響を受け、人間関係がごたごたすると、どんなに損でも、『その場からさっと身を引く』という形を取るようになったのです。場所にしがみつくことは無いのです。仕事(内容)には結構しがみついてもね。それが公募団体展を去った理由でもあります。

 これは日本では実は損な形です。
 ともかく、私は秘かに今でも、先生の転職は自分にも原因があったと考えていて、申し訳ないと、身を縮めているのです。ただ、主人はこれを読めば笑うと思います。「お前はそれほど、大物ではない。すべての事を自分に引き寄せるな」と。

 湊先生は思いがけない早い時期、すなわち、47歳のときに事故(お嬢様のバドミントンの羽を取ろうとして、脚立が倒れた)で亡くなりました。あまりにも突然で(いや、病院で寝たきりの日数もあったことはあったのですが)自殺ではないかと考えた人もあったのです。それは、湊先生ががんばりぬくかただから、急に枝が折れたような状態になったかもしれないと考えたからです。私もその一人ですが、・・・・・正真正銘の事故です。

 でもね。いろいろな意味で心にかかるので、お葬式に行きました。立派なもので参列者も二千人近くと多かったのに、どうしてか、スピーチがどれもよくないのです。私はICUチャペルの左側一般席の三列目に座っていましたが、「マイクをください。私にも一言しゃべらせてください」と言うのを抑えるのに、必死でした。関係者は私が助手・就任を断った事を知っているので、まさか、私がそれほど、心の中で敬愛しているなどと夢にも思っていないでしょうから、それを申し出でても無理だと納得をしていましたし。

 だけど、どうして、こんなに、形ばかり立派で、内容の伴わないスピーチが捧げられたのだろうと不思議で、それは、考え込みました。そこで、分かったことは、湊先生は先取りする形で、極端にアメリカナイズをされており、それが、一般人に受け入れられなかったということだったのでしょう。

 成果主義でした。とことんに、働く方でした。でも、それは周りの人には一種の迷惑でもありました。あおる形になるからです。そのひとの怠け者振りを、責め立てられる形になるからです。

 だから、極言すれば・・・・・嫌われてもいらっしゃった。それで、そんなに、心の伴わないスピーチが連続したのです。

 でもね。湊先生も時代の申し子でした。少年期には、軍国少年で、それは最後の日まで姿勢のよさに現れていました。戦後、方向転換をされて、化学の道に進まれて、日本が右肩上がりの経済成長を遂げる、その礎を築かれました。そういう形で戦死した先輩たちと同じく、滅私・奉公をされたのです。
 
 そして、私に人生のメンターの一人として、行動パターンにおいて大きな影響をもたらされました。私が体の弱さを乗り越えて、あらゆる意味でがんばりぬき、「躁病ではないの?」と大勢の人から言われてしまうような生き方をしているのは、湊先生の影響です。

 私も「どこか、日本人離れをしている」をしていると、よく言われていたのですが、先生と早めに別れたからこそ、そして、その別れが切なかったからこそ

(そうです。実験の結果がまともだったら、先生の助手をやっていたでしょうから)

 先生の印象が、自分の中に深く残っていて、先生の生き様そっくりに、生きているのです。

 分野は違う世界であるものの、生きる手法はそっくりなのです。そして、私も、一種の嫌われ者である・・・・・点・・・・・もそっくりです。陰口をまわされているのも知っています。が、それに、対抗措置をとらない、だから、仕事上の効率は悪くなる面もある。それも、そっくりです。

 ここ、数日、中央大学・教授・殺害犯・逮捕の報道に接して、突然湊先生との関係が思い出さされ、数編のエッセイが書けてしまいました。今日のが、最後です。ただ、これを書くに当たって、グーグルも検索をしましたが、湊先生は著書の形でしか、事跡が残っておらず、しかも、その著書類はすべて入手困難でした。

 これは、化学者としては仕方がない事です。常に新しい業績が前を覆うからです。そして物理学関係と違って、理論でもないので、『ここまでは、湊先生の業績である』と言うような、庶民がわかりやすいような、単純にして明快な一線も、引けないからです。ニュートンや、アインシュタインとは、違うからです。

 でも、私自身は、この数本の拙文によって、湊先生と天国でお会いできる準備が出来ました。もし、天国の中の小道で出会えば、正面から「こんにちは、先生は、お元気でしたか」と大きな声でいえると思います。    

2009年5月29日    雨宮 舜
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4 コメント

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Unknown (chemist)
2011-06-07 22:15:26
学生のころ、湊先生の書かれた演習書で有機化学を勉強しました。どんな方だったのだろうと思っていたので、興味深く読ませて頂きました。
返信する
御礼 (雨宮舜)
2011-06-08 00:41:38
コメントをいただきまして、ありがとうございました。

なお、私のメルアドは、
AtelierCK@aol.com です。
何かの折に、覚えておいて下さると助かります。
返信する
読ませていただきました (湊 信明)
2012-09-10 19:59:03
雨宮舜様

はじめてメールさせていただきます。
湊宏の次男で、湊信明と申します。
最近、父のことが気になって、ネットで検索してみました。
そうしましたところ、雨宮様のHPにめぐりあいました。
ICUでの葬儀のことなど、とても懐かしく思い出されました。
父の妻(つまり私の母)は、その後は10年くらいは大変でしたが、一昨年までは、東京女子大の学長を2期つとめました。
ICUの葬儀で一番はじで、当時小学校4年生だった妹恵子は今はパイプオルガニストをしています。ICUからほど近いところに池の上教会というところがあるのですが、そこの専属オルガニストでもあります。
長男の義和は税理士、私(信明)は弁護士をしています。
http://www.kigyou-houmu.com/
こちらをご覧頂くと、結構私と父は似ていると言われていますので、本当に私が父の息子であることを信じていただけると思います。
もしよろしければ、メールをいただけましたら幸いです。
私のアドレスはnobu@minatolaw.com
です。
父の昔話などお聞かせいただけたら感謝です。
よろしくお願い申し上げます。
返信する
Unknown (雨宮舜)
2012-09-11 08:52:01
 お手紙(コメント)を下さってありがとうございます。お嬢様も、そんなにご立派に成られ、意義ある生き方をなさっておられるのですね。また、お坊ちゃま方も、立派な職業についておられるのですね。よかったお知らせをいただいて。
 お坊ちゃま方が、50代初期でいらっしゃるかなあ?
 今思うと、本当に感慨が深いです。
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