私は、20日の真夜中、まったく新しい章を準備しています。後注1、それは、副題1から始まるのですが、副題7に至って、そこだけを独立させて、一章としたいと、思う様になりました。で、それを独立させて下に置かせてくださいませ。副題1から、番号を新しく付け直します。そして、今、22日の午前10時ですが、推敲やら加筆を始めます。その最先端は、@@@@罫線で示します。なお、これは、最初の日には、国画会剽窃問題・・・・・私がそれをチクった事にするために、W氏に納得をさせ、詰め腹を切らせたかな?』にしておりました。が、22日の、11時40分に上のものと取り換えました。
副題1、『国画会剽窃事件、和田義彦氏が、イタリアの画家の作品を真似していた事件だが、あれが、どうして、あれほどの大事件となったのかが不思議であり、私は、むしろ、私に陰口をたたく為ではないかと、想像をしたほどだった』
私は最近では、国画会への批判を間歇泉のごとく、繰り返して描いているわけですが、2006年に、和田義彦氏の、剽窃問題が、大きくメディアに取り上げられたときは、いささか以上にぞっとしました。
と言うのも島田章三さんが、鮎子さんの、本歌取りみたいな作品を作り続けている問題も、厳密にいえば、剽窃なのですよ。だけど、それは問題にならず、しかも、ずっと以前から同じ、剽窃をやっていただろう和田義彦氏の剽窃問題が、突然に、2006年に、大きく、事件化したわけですね。
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副題2、『国画会会員、西野晧子さんの絵と、そっくりな絵が、私と、友人との間で、問題になったことが有る』
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ここで、二日目に挿入として入れます。日本の美術界・・・・・画壇と言う公募団体展の世界では、特になのですが、・・・・・剽窃(他人の作品を真似する事)は、非常に頻繁に行われているのです。特に日展系は、ひどいです。それはですね。主に具象系の作品を展示しているところです。20年前の事ですが、会場に、10点以上の、牛の頭の骸骨を使った生物がありました。
これは、どういう事だろうと、頭をひねりました。画面は横向きであって、F100号と言うサイズでしょう。で、牛の頭の骸骨が、グレーまたは、白で、浮き上がっている周辺に、果物とか、花瓶とか、花とか、皿とかが、置いてあるという構図です。ある一人の御大としての先生が居て、それ以外の、絵はすべて、お弟子さん級の人の絵か? それとも、オリジナリティの問題に、日展系に作家は、ルーズなのか?
で、私はその時以来、日展には、一回も見に行っていないのです。子供時代に、父が、よく上野に連れて行ってくれた展覧会の中に、一、二度日展があったと思うけれど、やがて父も見に行かなくなったと思います。だから、子供のころから、新制作とか、を見に行っていたのです。
さて、私が国画(=国展)に出品を始めるようになった委細は、誰かの紹介などと言う事は全くなくて、ただ、ただ、作品の傾向が好ましいなあと、思ったからです。全部の展覧会を見て、国展には、制作上の自由がありそうだと、思ったから、出品を始めたのです。1980年代は、新制作は白っぽい雰囲気の絵が、大勢であり、独立派は、焦げ茶色っぽい絵が、大勢となっている時期でした。それは、会場に入ると統一感があって、落ち着きを感じます。反対に、国展は、いろいろな色彩の、かつ、いろいろな形(抽象も具象も)が、混在しているので、一見すると、会場はきれいではないです。落ち着かないです。しかし、統一が採れている展覧会なんて、おかしいですね。だから、国画会が、いいと、判断をしました。
で、入選をし始めると、会期(二週間弱)の間、何回も上野の都美館へ、通います。で、当然のごとく、他の展覧会も、ついでに見ます。
反対に他の展覧会に、出品をしている人が、国画会の国展の展示作品を見ることもあるでしょう。そして、そこから影響を受けるという形もあると、思います。
ある日(1990年代の事だと、思う)ハマ展のご招待状をもらったので、関内の、市民ギャラリーに向かいました。すると、第一室(玄関から、すっと見える最上の位置)に、招待状をくれた、友人の絵が飾ってありました。彼女は、まだ、有名にはなっていない存在なので、そこに飾ってもらっていると言う事が、ものすごく嬉としい事であり、得意な事であり、だからこそ、招待状をくれたのだ、言う事はわかりました。絵も迫力はあります。だから、第一室に飾ってあるわけです。だけど、私にしてみると、『おや、これはまずいですね』と、言う様な作品でした。それは、国画会で、1990年ごろからずっと、発表をされていた、西野晧子さんの絵と、ある意味でそっくりだったのです。160cm角の正方形の中に、花が一輪描いてあるもの。
私は主人が捨てろ捨てろと言うものですから、国画会のカタログを、今、1993年から、1998年まで、の、6冊しか保存をしていないのですが、その間ずっと、西野さんは、そう言うテーマで発表をし続けているのです。花とは、普通は、6~10cmぐらいの大きさです。それが、12倍ぐらいに拡大をされて、一輪だけ、大画面に浮かんでいると、言う、絵であって、具象絵画なのですが、コンセプト的にも非常にユニークなものなので、さすがに、是と、そっくりな絵を上野で、見たことは過去にありません。
で、その西野さんの作品とそっくりな絵を制作した女性が、会場に居ました。私は1980年代は、神奈川県内で、よく発表をしていたので、相手は、友人の一人です。その人がたまたま会場に居ました。お互いにまだ、40代だったので、健康な人なら、一週間程度、毎日会場に通っても、たいしたことはないという形でしょう。
ところで、オリジナリティの問題ですが、この章だけ、お読みになる方のために、念のために言えば、私は化学科卒で、しかも、勤務先は東大でした。これって、オリジナリティの件に関しては、ものすごく厳密な世界です。だから、彼女を、誰もいないところへ連れて行って、「この絵と、そっくりな絵が、長い間、国展に展示をされているわよ」と、言いました。いじわるではなくて、それは、注意しないといけない第一のポイントだからです。すると、彼女は、びっくりして、でも、相当に勝ち気な人みたいで、ありがとうとは言わずに「これはこの春、春陽会に出品したのよ。でも落選をしたの」と、言いました。
私は内心だけでですが、『春陽会の会員(審査の資格を持っている)は、国画会の方も見ているのだ。だから、これを落選させたのだ』と、判りました。でも、ハマ展では、屈指の作品として、最もいい位置に飾られているので、ハマ展に、審査があるのかないのかを知りませんが、もし審査があるのなら、ハマ展の審査員は、まったく不勉強だと、言う事になります。
彼女は次の年に、洋傘を、アレンジした油絵を春陽会に出していました。『こちらの方は、剽窃の問題が、クリアーされているので、入選したのだろう』と、理解できました。
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副題3、『ここで、審査の問題に入るし、そこから、CIAの、毒々しいやり方へも入って行く・・・・・杉並区を舞台にした、例の空き家特集の件だけど・・・・・』
さて、日本の、特に公募団体展の世界では、師弟関係と言うのが重要らしいのですが、私はまったく違うタイプです。「あなたって、子供の時から、先生を凌駕していたわね。だから、先生にいじめられていたでしょう?」と、友達が言うのですね。でね、国画会に出品するのにあたっても、先生など、居ないのです。
ここが、渡辺幸子さんとは、まったく違うポイントです。私は、逗子で、一人暮らしをしていた際には、夜、一人なので、長電話をすることができました。鎌倉の自宅に居ると、主人が長電話を嫌うので、まったく電話を使いませんでした。知人や友人がまだ現役で、仕事をしている年代だったので、夜電話が自由に使えることは、あの時期の宝物の一つだったのです。それで、大変な勉強をいたしました。長電話に拠る、勉強です。いろいろな人を相手にして、大変に重要なことを学びました。そこから、新左翼の問題とか、今は、まだ書いていない川名昭宣君の、伊藤玄二郎とのかかわり他の、問題点とか、そう言う、重要な問題の、糸口をつかんでいます。
その頃、渡辺さんが、師である田沢茂さんの、過剰な指導に、ひどく悩まされてるのを愚痴として、聞かされました。でも、それによって、『新制作協会の内部が、事前に推察した通りで、制作の上で自由が無いのだ』と、判りましたね。なるほど、なるほど。今は、田沢さんが亡くなっているので、彼女はほっとしている事でしょう。
さて、この審査の問題ですが、国画会の主流派閥が、芸大だと、言う事をここで、繰り返させてくださいませ。そして、国画会のメンバーは、『今の上野で、展示をしている数多い展覧会のうちで、実質的に、私達がナンバーワンだと、考えていた』と、思われます。これは、六本木の新国立ができる前の話です。で、どうも、他の展覧会を見に行っていないみたいです。これが、例の杉並区を舞台にした、とんでもないNHK特集へ、結び付いて行ってしまいます。
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副題4、『草間彌生と、他の作家、4人が選ばれて、都美館で、5人展をやった、そう言う話題の展覧会にも、国画会メンバーは、見に行っていないのだ。どれほど、驕慢、または、傲慢になっているかが、判る』
皆さんは、草間彌生と言う作家をご存じでしょう。彼女は、精神病院に住みながら、別の場所に在るアトリエに、通って、制作としていると言う事で、有名な作家です。そして村上隆より、前に、他人を使って、作品を作っていることで、有名な作家でもあります。
ところで、私は彼女本人と電話で、話したことが有るのですが、あの精神病院の、話し(それは、TBSでテレビ映像まで、制作をされたが)は、相当に眉唾ものだと、判りました。それからビートたけしの【誰でもピカソ】に出てきた際の、舌ったらずな物言いも、営業用のものだと、思います。極めて冷静で、計算高い人物です。徹底した営業ウーマンです。
ただし、発想はユニークであって、やはり、一流の人でもありますよね。その草間を中心に据えて、発想のユニークな作家、五人を集めて、Mと言う有名な美術評論家が、五人展を開きました。場所は、都美館です。で、スペースが広いので、充実した、展覧会となりました。
ところで、その5人の中で、NKさんと、言う女流展を、基板に、活躍をしている画家が居ました。そのNKさんは、どうも私の作品に注目をしてくれたみたいなのです。で、私が、1990年に女流展に初入選をして、すぐさま翌年国展に、初入選をしたので、『ああ、こういう生き方もあるんだなあ』と、感慨深く、思ったらしいのです。どういうことかと言うと、私は自主独立の人なのです。大変にモダンな感覚を持っていて、人的コネなど、使わない人なのです。作品だけで、勝負する人です。それは、非常に明快で、すっきりしている生き方です。画家の生き方としては、一種の理想形でもあります。『そんなことは、今までは、無理だと、思っていたが、それが通るんだ。国画会は』と、NKさんは、思ったらしいのです。でね、1992年に国画会に初出品をして、初入選をしていました。ところで、NKさんは、美大を出て居ません。別の大学の薬学部を出て居ます。だから、それ以前に、いろいろ、不利な部分を感じていたと思いますが、ここで、道が開いたと、喜んだと、思います。
ところが、彼女は次の年に、したたかな感じで、国画会に、裏切られます。そして、どうも、それも、大きな引き金になって、精神病院へ入院することとなります。そして、こっちは、草間の営業用精神病院暮らしとは違って、相当に、重篤らしいのです。
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副題5、『国画会会員、渡辺眞利(男性)さんから、NKさんが、<親の遺体を、そのまま、放っておいた>という話を聞く。<だから、国画会では、問題にならない人物なのだ。追放して当然だ>と、彼は言う』
1993年の国展の事ですが、会場を丁寧に見渡しても、カタログを見ても、NKさんの作品がありません。私はNKさんに心はよせておりました。が、大・五人展を見ているので、彼女のプライドの高さを思って、一度も電話をしたことが無いのです。これは、一度ぐらい接触をしておいた方がよかった人物です。そうして置いたら、彼女の精神病院への、入院を防げたかもしれません。いろいろ、聞いてあげて共感をしてあげることができたかもしれないのです。
ただ、どうしてか、女流展でも作品が見えなくなって、相当に心配をしました。で、或る時、別の用事で、掛けていた上條陽子さんへの電話の中で、「NKさんの作品が見えないみたいですけれど、どうしたんでしょうね」と質問をしたのです。すると、上條陽子さんは、「ハイジンになったのよ」と、言うのです。で、私は昔、俳句をやっていたし、今は、本を作っているわけだから、才能のある人が俳人へと、転身をしたのかと思って、「ああ、俳句を作っているのですか?」と、言ったのです。すると、「違うわよ。ちがう方のハイジンです。精神病院へ入ったのよ」と、上條さんは答えました。
で、私はすぐさま、国画会の審査が、引き金を引いたと、思い当たり、自分としては、正直なことを言ってくれる人だと、思っている渡辺眞利さんに電話を掛けました。音だけでは、同姓同名の、国際基督教大学卒のアナウンサーが居ますが、国画会会員の方は、男性です。元、教師をしていたと、聞いている人です。この人は、私が初めて、出席した、国画会の、オープニングパーティの二次会で、私に向かって、「川崎さん、どうして、ビールを注がないの?」と、言った人なので、大変印象が強かったのです。
どうしてかと言うと、私は、父も主人も晩酌をしない人です。そして、勤務先としては、東大へ務めただけです。また、実家では、よくホームパーティをしますが、男の親戚が、「ちっちゃん、ビール注ぐ?」と、聞いてくれて、注いでくれます。で、自分の方から男性に、お酌をした過去が無い人なのです。だから、悪気はないけれど、気が付かないというか、そう言うルールを知らない人なのです。その上に、私は考える人なのです。考えることが大好きで、呼吸をする次にそれをやっているという風な人間であって、初めて接した国画会の内部に、びっくりしていて考え込んでいるわけです。何をびっくりしたかと言うと、古臭い事にです。システムが古臭いです。『ああ、がっかりした。日本で最高の、公募団体展だと、思っていたのに、中身は、なんだか、古臭いなあ』と、思ってがっかりしていたので、他の人とまるで、違ったムードで、沈滞していたのでしょう。それを気が付いてくれた渡辺眞利さんに感謝すべきですが、私としては、すでに、気が付いていた古臭さに、倍増をされた印象がありました。『男尊女卑なんだ。この会って。うわー、信じがたい』と、思って。表面上は、急いで、お酌を始めましたが、心の中は、暗いものでした。
渡辺眞利さんとは、他に、驚くべきやり取りはあるのですが、ここでは、それは、飛ばしてNKさんが、精神病院へ入ったという話を聞いた後に戻ります。
NKさんの事を知っている人物は、国画会内部では、山寺重子さんだけでしょう。NKさんが、1993年に、国画会へ出品した作品は、それが、落選をした後では、そのまま女流展に回ったので、内容を、知っています。まず、サイズが小さいです。それから、材料費が安いです。週刊誌の頁を切って、パネル(ベニヤでできた基盤)の上に、隙間なく張り付けただけのものです。国画会の国展には、技術力の高さを誇る作品が並んでいます。だから、材料費は安いし、技術力もないです。しかしですね。NKさんは、一種の天才の一人だと、思います。Mと言う美術評論家が、草間彌生と同格に置いたのですよ。そういう過去があるのだから、落選をさせてはいけません。
その上、私は逗子で、一人暮らしをしていた居たころ、藤田吉香先生に、電話をかけて、長話をしているので、審査会場の風景については、全部知っているのです。そのうえで、山寺さんが、この時、どう動いたのかを知りたかったのです。一人の天才的女流画家を、廃人に追い込んだのですよ。後に、指原いく子さんの会員昇級の裏側などを見ていて、審査のやり方が公正(作品優勢)ではないというのは、骨身にしみて判っているのです。そこには、とんでもない、いい加減なところがあるのを知っているのです。藤田先生も小ボス、中ボス、大ボスの存在と、彼等の票のやり取りなどを、解説してくださっていますしね。
藤田吉香先生は、当時、朝日新聞で、ポール・クローデルの、エッセイの挿絵をなさっていたと、覚えております。自信のある方だから、何でも隠さず教えてくださいました。どうして、そこまで私を信頼してくださったかと言うと、国展神奈川支部展(=神奈川鵠展)の時の二次会での、私の様子を隣の円卓で、ご覧になっていたからです。この件は後で、語ります。
ところで、渡辺眞利さんが、一度、こういうことを言ったのです。「僕に電話を掛けないでください。僕は君の恋人でも何でもないのだから」と。あっけにとられました。これですが、ICU出身者だと、まったくこういうタイプではないです。男女の交際を、友人関係のママで、恋愛にもっていかないで、長期間続けられるのは、当たり前です。だから渡辺眞利さんの、こういう物言いが、信じがたいほど、ステレオタイプ(=男尊女卑と言う意味で)に、感じられて、又もや『古臭いなあ』と、思います。そして、私は別に渡辺眞利さんにだけ電話をかけているわけではありません。しかも、渡辺眞利さんとの電話は短い方です。
私はちゃんと相手を見て、質問をしているのです。でね、この恋人云々の電話には、びっくりして、長期間渡辺眞利さんには電話を掛けなかったのですが、国展の審査会場で、NKさんを知っているのが、山寺重子さんだけだと、なると、山寺さんが、「この人は、過去に大きな実績があります。だから、今回は、国画会向けの作品ではありませんが、落選をさせてはいけないでしょう」と、言う様な、とりなしをしなかったのが、判っています。すでに、落選をして、精神病院に入ってしまっているのですからね。でもね、とりなしをしたのに、票が、足りなかったのかもしれません。そのどちらだったかを質問をしたかったのです。渡辺眞利さんは、男性だから、山寺さんとは、交流が無くて、山寺さんの束縛からは、自由だろうと、想像をしたからでした。
しかし、返って来た答えはびっくりする様なものでした。しかも、私が、「NKさんが、・・・・・」と、言っただけで、焦った風な大声で、「親の遺体を、そのまま、放っておいたんだ。新聞記事にさえなった。だから、国画会になんか、関係させてはいけないんだ。追放して当然だ」と言うセリフだったからです。ものの言い方とか声の調子には、本当にびっくりしました。と言うのも、精神病院に入っていると言う事は弱さの現れです。ひとりの人間として、弱いものに対しては、憐みの情を持ち、丁寧に、慎重に扱わないといけないでしょう。ましてや、渡辺眞利さんは、学校の先生だったのですよ。『どうして、こうなるの?』と、不思議でならず、
結局のところ、島田章三さんに戻ってくるのでした。眞利さんの、異様なマナーとは、国画会の実質的なトップである、島田さんの性格と指針の反映なのです。それは、後で、別章で、丁寧に語りますが、非常に閉鎖的であって、しかも計算高い。その反映があるために、これほどに、他の会員まで、人間性が、低劣になってしまうのです。
ここから先ですが、このNKさんを、苛め抜く、恐ろしいテレビ番組、NHKの【空き家特集】・・・・・夜放送をされたもので、杉並が、舞台であって、鎌田キャスターが、探訪者となって居る番組・・・・・へと入って行き、盗聴の問題へ入り、鎌倉エージェントがどう動いたかを語りたくなっていました。特にそれについては、秋山裕徳太子さんの役割について、集中して語りたいと、思っておりました。以前は書いていないことを、深めて語るつもりでした。午前中は、まさしく、そこまで、書くつもりでした。しかし、すでに、午後二時です。そちらに触れると、今日中に、この文章が、完成しない見込みが出てきました。それで、国画会に、とどまって書いていきたいと、思います。つまり、和田教授の剽窃問題へ、帰って行きます。
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副題6、『上の方で、剽窃が当たり前に、横行している現在の、日本の美術界に於いて、あれほど、国画会剽窃問題が、大ニュース化するのがおかしい。どうも、裏側がある模様だと、当時から、気が付いていた私なのだが・・・・・』
NHKや、新聞が、突然国画会の剽窃問題を、大問題化した時に、私は、これは、裏があるのではないかと、思いました。だが、当時は、鎌倉エージェントの、役割について、メルマガでは、ほとんど書いていませんでした。
裏があるとは、「これは、もしかすると、これは、私を貶めるための策謀ではないか」と、思ったことを指します。新聞や、テレビでは、告発者の名前が出ませんでした。ただ、この事件が本当にあったと言う事を、庶民に納得をさせるために、イタリア側の作家スギ氏が、名乗りを上げて、動く映像=スギ氏が、彼の発想いや、事情を語る映像=も出ました。
しかし、日本側でも、告発者が居るはずなのです。「それがいったい誰なのか?」がわからないのです。それは、報道をされていません。無論の事、『ニュースソースを秘匿するという暗黙のルールがあるから、その名前が明らかになっていない』とも、言えます。
が、イタリアの作家が、急にその年に名乗りを上げるというのも、変だし、和田義彦と言う当該する画家は、どう考えても、島田章三さんとは、強い関係があるのですね。
それで、ここから先ですが、報道をされているのとは、まったく異なった、二つの、疑惑、または、考察を、ここで挙げたいと、思います。それを、Aと、Bと、分けて考えたいです。A案には、神の存在を感じていて、B案には、悪魔の存在を感じています。
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A案と言う考察、・・・・・告発者は、島田章三を批判する国画会内部の画家で、この前年などに、イタリア旅行、もしくは、インターネットなどの情報で、この剽窃を把握して、島田章三さんを、批判する為に、情報を外へ漏らした・・・・・と、考える方向です。こちらでは、神様の存在を感じます。
私は、鎌倉エージェント(この呼称は、CIA側に立つ、日本と、日本人に対する裏切り者の、温和な表現形式であり、横須賀にもいるのだ。そして、特権者のサークルを形成している)に、協力した人材には、必ず、不幸とか不運が訪れることを、実感をします。だからこそ、耐えられているというほどの、損害が、自分側には、あるのですが、復讐と言う事は致しません。『大丈夫よ。待っていれば、必ず、神様が、悪人たちを、御成敗をしてくださるわ』と言うのが、本心です。
で、この和田義彦と言う存在は、国画会内部が、どれほど、汚い状況に陥っているかを示すものなので、したがって、国画会の、評判とレベルが落ちるでしょう。と言う事は、同時に、実質的トップの責任であるので、島田章三さんの、不徳の致すところだと、なるし、・・・・・と言う事は、北久里浜の水道山をめぐる種々様々な悪事を隠す為に、横須賀市から莫大な金銭(150億円に達するはずだ)を付与されているCIA側弾丸の一人である、彼に、やっと、天の鉄槌が落とされた・・・・・と言う事になる。ああ、よかった。やはり、神様は、いらっしゃるのだ・・・・・となります。
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B案と言う思考形式
しかし、まったく異なった考え方である、B案と言う思考形態もあるのです。こちらは悪魔が活躍している方です。たいへん複雑ですが、旭化成のデータ流用疑惑とか、シャルリーエブド事件とか、後藤健二殺害事件とか・・・・・あの手の、CIAとか、闇の勢力が裏側に居る事件が起きた後では、こちらも、あり得る、思考形式だと、思われてきているのです。
つまり、2006年と言うタイミングが重要なのです。その3月まで、私は月刊ギャラリーの連載をやっていました。とても評判がよかったのです。
ところが、編集長から、何の御断りも説明もなく、四月号から、送っている原稿が表に出ないと言う事となりました。急に連載が終わってしまったのです。著者に何も知らせず、何の御断りもなくです。
しかし、『こういう異常事態が起きるのは、例の鎌倉エージェントが裏に居るからだろう』と、考えて、私は、我慢をして、問い合わせることも、抗議をすることをも、致しませんでした。
そして、その連載が終わると、同時に、堰を切ったかのごとく、すさまじい弾圧が始まりました。
で、この和田義彦事件ですが、彼には、詰め腹を切ってくれと、島田章三さんが頼んで、それを、引き受けて、納得をして、恥辱に満ちた役目を、和田義彦氏は、甘受したのではないかと、思い到ってきたのです。2006年に、和田氏は、既に、70歳になっています。年金受給者です。と、なると、生活には困らないです。
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副題7、『和田義彦氏の役割は、甘粕大尉と同じ趣向ではなかったのかな?』
また、和田義彦氏は、この恥辱に満ちた事件の後でも、もう一回、別の大学の教授職に返り咲いています。また、個展も事件後にも、やっているらしい。それは、両方とも普通ならあり得ないです。事件が起きた時に、すでに、66歳です。
報道されている通りだとして、再びの就職が無理だったとしても、年金は入るでしょう。また、森村誠一の小説の表紙(カバー)の装丁をしているみたいです。すると、そちらの報酬も多大にあるでしょう。文章を書いた人に比べれば、小さいでしょうが、バカにならない金額を既に、得ていて、貯蓄もあるはずです。だったら、静かに暮らしても、生計には困らないです。そして、あの事件が本当に、報道をされている通りだったら、イタリアなどに、移住をしてしまった方がいいですね。
処が、普通の暮らしに戻っていると、言う次第です。こうなると、甘粕大尉と、似ていますね。甘粕大尉は、本当は、大杉栄を殺していないのだという説があります。有名人の身代わりになったという説があります。
ここで、急に、新しいブログを書き、ここに挟まないとならなくなりました。
大原光孝さんが動いたので、急に島田章三氏に関する複数のリンク先を明示しないといけなく成る
@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。なお、ここで、二回目の中断を入れさせてくださいませ。以下はメモです。これを、丁寧に完成させていくはずです。続きは、多分ですが、23日に書きます。
その後
島田章三さんは、こっそりと、しかるべき会員たちに、「あの情報を外に漏らしたのは、川崎千恵子(=月刊ギャラリーの連載では、雨宮舜を使っていたが)です」と、流したと、考える案です。
2016年三月の現在では、これが正しいのではないかしらと、思われてきました。
その、こっそりと、耳打ちされた方法ですが、電話でもいいのですが、のみかいが、最高ですね。それも、二次会とか三次会を利用する案です。
この章(と言うのは下に置いてある真夜中に書いたもの)に登場する蛯名協子さんとか、A女史とか佐々木豊さんとか、東京都在住だけど、私の事は知っている筈の貴堂静栄さんなどの、芸大卒業生に、こういう嘘を噂として、広めれば、すぐさま、私の事を知っている、全員に、それが、真実として、広まるでしょう。
と、同時に国画会以外の、各方向から、飛んでくる刃の数は、ものすごく、おおかったです。
で、この和田義彦の、剽窃問題も、私を貶めるために、起こされた事案であって、和田義彦は納得をして、剽窃事案を公開をされることを引き受けたのではないかと、言う、そう言う考え方も、起こりました。それが、B案です。
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副題8、『増田陽一氏(国画会版画部会員)の異常な行為と言動、・・・・・それが傍証になるかもしれない』
副題9、『旭化成の社長が、詰め腹を切らされて、涙を流しながら、記者会見をし、その後、消える様に辞任をしたと聞くが、それと、まったく同じ構造で、和田義彦氏は、恥辱を公表する様に、依頼をされたのかな? そして、依頼をしたのは、島田章三氏だったりして』
副題8と、9の展開を含めて、これから、先は、21日に書きます。
なお、このブログの、2010年から数え始めた延べ訪問回数は、3423331です。
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