おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

信濃川流域 蒲原平野 を 守る 大河津(おおこうづ)分水路 <農村 の 水 27 >

2011年10月14日 00時00分00秒 | 農村の水

写真1 大河津分水  (国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所 2010年9月刊『郷土を守る先人の心をつないで 明日の安全安心なくらしを支える 大河津可動堰改築事業』に掲載の写真を筆者が撮影)


写真2 大河津分水路の可動堰(薄青色・写真1の可動堰)。後方に建設中の新しい可動堰。さらに後方は国上山・弥彦山、真木山などの山塊。山の端の向こうが日本海


写真3 信濃川の洗堰(写真1の洗堰)。左が下流、蒲原平野、新潟市方面



写真4 正面は分水地点の中洲。左上は信濃川の上流。右は大河津分水路の可動堰(写真1・写真2の可動堰)と固定堰(写真1の固定堰)へ続く。左端の中ほどから水面へ出る短く細い線は連続浮。その左は信濃川の洗堰(写真1・写真2の洗堰)へ続く。


写真5 水面に、左から延びるのは連続浮(写真4の短く細い線)、右から延びるのは中州(写真4の中州)。左上は信濃川上流。左は信濃川へ、右は大河津分水路へ、それぞれ続く。

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 蒲原平野の信濃川流域は、たびたび洪水に遭い、とくに1896年(明治29)に「横田切れ」大水害にみまわれた。
 そのため、蒲原平野に入る前に信濃川の水を日本海へ分ける水路建設が江戸時代から請願され、「横田切れ」を契機に明治政府は動き、1909(明治42)年に大河津分水路工事が始まる。
 14年後、1922(大正11)年に、現燕市五千石で信濃川を分け、真木山と国上山の間を掘削し、寺泊の北で日本海に通水する約10kmの分水路が竣工。
 通水から約90年間、堰や堤防等を補修・改築しつつ、蒲原平野の洪水を防ぎ、安心安全な暮らしを守り、同時に円滑な農業水利に寄与し、流域の発展を支えてきた。
 今後も支えるために、現在、新しい可動堰改築事業が、国土交通省 北陸地方整備局 信濃川河川事務所の監理の下、2003(平成15)年に着手され、2013(平成25)年を目途に進行している。
 謝辞:写真1を掲載するにあたり、国土交通省 北陸地方整備局 信濃川河川事務所のご了解を得ました。ここに御礼申し上げます。
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:写真1;2011年10月10日、写真2~写真5;同年9月25日 撮影地:写真2~写真5;新潟県燕市(旧分水町)五千石
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