写真1 噴煙たなびく桜島 筆者の誕生地・故郷は写真右のなだらかな山裾 東桜島町 別名は湯之
写真2 誕生地・故郷東桜島町をズームイン 右半分 横に並ぶ白い建物辺りが東桜島町
写真3 鹿児島市役所 後背は城山 西郷隆盛自刃地 写真に見えない城山のシラス台地が与次郎ヶ浜埋立て用に削られた
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1.与次郎ヶ浜から誕生地・故郷、桜島を望む
2013年02月10日、筆者は鹿児島市与次郎二丁目地先にある長水路の錦江湾側護岸に立つ
誕生地・故郷、桜島を望む(写真1・写真2)
桜島と言っても、東桜島町、別名は湯之(ゆの)
亡き祖母たちは、湯之をイロンナと言っていた
与次郎二丁目は江戸時代後期、1843年(天保14)から始まる塩田の跡
荒田村の塩造り人・平田与次郎が整備した塩田
与次郎は藩命により赤穂塩田を視察し、約10万平方メートルの塩田を拓いた
処は甲突川(こうつきがわ)河口の右岸に広がる荒田浜
いつしか与次郎ヶ浜と呼ばれるようになった
時代は変わる
与次郎ヶ浜は1965年(昭和40)から、1972年(昭47)太陽国体の用地に埋め立てられた
2.城山のシラスを海水といっしょに与次郎ヶ浜へ流し込む
シラスは水に溶けやすい
この特性を活かし、鹿児島開発事業団は水搬送工法で与次郎ヶ浜埋立て用シラスを運んだ
この工法は日本で初めて使われた
神戸市の埋立て工法にヒントを得たと、当時事業団に出向していた叔父(叔母の夫)が語っていた
まず、海水を桜島フェリー発着場近くで汲み、城山のシラス台地まで上げる
海水汲上げは、小さな川、なめかわ・滑川に設置した鋼管を使った
滑川は、城山東裾の浸食谷を流れ、冷水(ひやみず)街道脇を通り桜島フェリー発着場近くに流入
城山は西郷隆盛自刃の地(写真3)
次に、城山で削り取ったシラスを海水に混ぜて鋼管に流し込み、与次郎ヶ浜まで運んだ
シラス水搬送鋼管は1級河川甲突川に設置
甲突川は城山の西裾を流れて与次郎ヶ浜近くへ流入
海水汲上げとシラス水搬送の鋼管の長さは合わせて10km前後と思われる
削ったシラスは1,300万立方メートル、埋立て造成した土地は66ha
現在、削り取られたシラス台地跡は住宅団地(城山2丁目・同1丁目)、埋立地は与次郎一丁目、同二丁目
筆者は中学・高校時代、冷水町・伊敷町・東桜島町から通学
通学途中、歩きながら、あるいは市電の窓から海水汲上げ鋼管やシラス水搬送鋼管を見た
当時の市電は、長田町停留所近くで滑川を横切った
また、甲突川近く、城山西裾の国道3号線を走っていた
この2路線は、現在廃線
3.城山のシラス台地浸食谷、冷水町に住む
筆者は60年前、4歳の頃、1952年(昭和27)頃、冷水町に住んでいた
冷水町は滑川上流、冷水街道に、シラス台地浸食谷に立地
家の前方は切り立ったシラス崖、後方も木が生えたシラス崖
前方の崖には防空壕があり、そこで遊んだ
小川流れ、オニヤンマ飛び、サワガニ歩き、笹舟を作り浮かべて遊んだ
使っていた井戸は、降雨後には溢れるほど
シラスの透水性は高い
現在の地図では、城山トンネル北口と冷水街道の間に家があった
4.麦穂を焼き切る
4歳の頃、城山シラス台地での思い出
父方の祖母は城山シラス台地のてっぺん辺りに段々畑を数枚耕作
遠くに、南日本放送城山送信所のアンテナが立っていた
東桜島町生まれの祖母は段々畑に麦を栽培
麦秋、麦稈を株元で切り、麦穂近くを火で焼き、穂を落としていた
その麦穂を木槌で打ち、実を落とした
今思うに、明治20年代生まれの祖母が保持していた桜島の麦穂切り技術だったのであろう
5.焼畑が桜島にあった?
麦穂切り火から次のように連想
東桜島町の桜島中腹に、コバと呼ばれる段々畑の所在地があった
コバは、対馬では木庭と記し、焼畑を指す
類推すると、東桜島町のコバは、焼畑が行われていた名残りと考えられる
あるいは、薪を伐る場、木を伐る場の木場・コバの名残りとも考えられる
いずれにしても、桜島を望みつつ行きついたのは麦穂切り火だった。
引用・参考文献等:*鹿児島市HP *袖山研一著「シラス利用の新しい展開」鹿児島工業技術センター
執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:写真1・写真2;2013年02月10日、写真3;同月11日
撮影地:写真1・写真2;鹿児島市与次郎2丁目、写真3;同市山下町・みなと大通り公園