年頃申しなれたりける人に
年頃申しなれたりける人に、遠く修行する由申してまかりたりけり。名残り多くてたちけるに、紅葉のしたりけるを見せまほしくて、待ちつる甲斐なく、いかに、と申しければ、木の下に立ち寄りて詠みける
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心をば 深き紅葉の 色に染めて 別れて行くや 散るになるらん
駿河の国九能の山寺にて、月を見て詠みける
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涙のみ かきくらさるる 旅なれや さやかに見よと 月は澄めども
長年にわたって語り合いなれた人のところへ、遠くへ修行に出かけることを、告げるために行ってきました。とても名残おしくて佇んでいたところ、その人は、木々の紅葉するのをお見せしたくて、お待ちしていましたのにその甲斐もありませんでした、どうされていましたか、といわれましたので、私は木の下に立ち寄って、歌を詠んでから別れました。
1086
心をば 深き紅葉の 色に染めて 別れて行くや 散るになるらん
深く思ってくださるあなたの思いを、紅葉の色のように私の心に染めて別れゆくのは、紅葉の散ってゆくことになるのでしょうか
駿河の国にある九能の山寺にて、月を見て詠みました
1087
涙のみ かきくらさるる 旅なれや さやかに見よと 月は澄めども
ただ涙のみにかきぬれ、悲しみにくれる旅になってしまったことよ、涙に目をくもらさず、はっきりと見るようにと、空に月は澄んでいるのに
この二つの和歌の並びから、西行が「遠く仏道修行」に出るために、長年にわたって慣れ親しんだ人に別れを告げたのは、駿河の国、今の静岡県九能山あたりに旅に出るためだったのかもしれない。
そのとき西行が登った山寺とは、推古天皇の頃の六七世紀に久能忠仁によって久能山麓に建てられた久能寺だったのだろう。久能山からは駿河湾が見下ろせるから、西行が眺めた月は駿河湾の沖合に浮かんだ月だったかもしれない。
西行の和歌からは当時の九能山の面影は伺い知ることはできない。平安時代末の久能山にはもちろんまだ徳川家康を祀った久能山東照宮はない。私が静岡に暮らしていたときに久能山に登って東照宮に参ったことはあるけれど日の明るい昼間だった。その時の九能山の記憶ももう薄らいでいる。
「名残り多くてたちける」と和歌に言うように、もう二度とは会えないことを西行は覚悟していたのかもしれない。都から遠く離れた九能山の山寺で、西行が涙にくれながら月を眺めることになったのも、なれ親しんだ人に別れを告げたことを思い出していたからにちがいない。
「心をば」の和歌のように、「別離」は万葉集の昔からの多くの和歌の主題でもある。西行の生きた時代を描いた「平家物語」にも「生者必滅、会者定離は浮世の習い」とある。
早いもので、令和元年、二〇一九年の九月とも今日で別れを告げる。来月には国民の祝日として「即位礼正殿の儀の行われる日」がある。
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