師匠の不思議な日常

天の語らい地の学び 香る神々との対話 天界、龍神界の物忌み(巫女)師匠こと天卜占と弟子で審神者(さにわ)である臣の日々

イソガナイ アワテナイ

2010年07月22日 | 天意の実践

≪上の『いそがない』の続き≫

     

      

     

そうやって、

こころのざわめく波紋を沈める。

泣くことも、わめくことも、それで気が済むなら、

とりあえずは、やってみるもいい。

それすらも、自分の意志なのだから。

なによりも、すぐに解決しようなんて、思わないことだ。

前進することを選ばず、問題ばかりに気にかける。

それでは、解決しようがない。だのに、あなたがたは、

なんでも、すぐにー

を望む。

こころの定まっていないうちは、前進などとは思わずに

こころにも、休みをあげてごらん。

あなたが悲鳴をあげている間も、こころは必死に耐えているのだ。

今、あなたとあなたのこころはばらばらに機能している。

だから、こころを休ませる。

あたまを休ませる。

思考などと難しい問題は、あなたが解決することだろうか。

今のあなたでは解決できないと認め、手を離し、

休みなさい。

がんばりつづけなければならないなんて、

だれも、

ホントウハ

言っていないからね。

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ハタレーマのもの

2010年07月21日 | 天意の実践

『ホツマ』の時代。

神との関係を断ち、ひとたちとのこみゅにてぃから離れて、

どこのものであるかも忘れた流浪のものたち。

罪・科を受け、サスラの刑罰となったため、流浪となったものたち。

これらは『ハタレ』と呼ばれていた。

神から離れたものたち。故に『ハタレ』

この『ハタレ』が群れとなって、クニに反旗を翻したという記述がある。

今の時代でもそうだ。

実際は、どこのこみゅにてぃにも属さず、家族という名の基に

隠れて、現実社会からは隔絶して、サスラにあるものたち。

1人暮らしであろうと、家族といようと、魂は孤独であることを

選び、どこかに属することを忌み嫌い、不安を吐き続けている。

今の時代では神という概念は薄れたが、

むしろちゃんとした、保護されていたつながりを拒み、

拒んだ者同士でつながっていようと群れ始め、

これらが、世界へと不安をハナち、たれ流している。

気がつかないか。

それはあなたも同じだ。

不安とは、つながっていないという恐怖。怯えだ。

実際はつながっているのだから、何も問題はないのだ。

問題のないところに問題があるように、みせかけている

族(やから)もまた、『ハタレ』だ。

今だ、この『ハタレ』が大きな組織を作り、機能することを擁護して、

さらに、『ハタレ』は増大している。

実態あるもの。実体のない想念。これらがおおきなうねりとなって、

あちらこちらで、蔓延している。

どこかで、この繋がりを断たなければならない。

まずは、あなたが、この『ハタレ』との繋がりを断ちきるのだ。

『不安』をばらまき続けているさまざまにものとは、

縁を切ることを宣言するのだ。

一見、到底、『ハタレ』にはみえないような存在でも、根の部分に

『不安』をかくしていては、元も子もない。

世界が輝くよう、選択され、機能するよう選ぶ。

この選択は、ひとりひとりが宣言していくことで、『ハタレ』との

決別ができる。

不安というこころにできた、すきマを除去して、光でそこを

こーてぃんぐしよう。

あなたは目に見うるもの、見えないもの、

すべてのネットワークの中にあって、光輝く。

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あらたは、ふるに宿る

2010年07月18日 | 天意の実践

あらたの地へ行くには、『ふる』が肝要。

『ふる』は、神さまがやってくるさま。

その神さまをお迎えするさま。

今生の在りようを地界の神さまは、「まい」とおっしゃった。

あらたの地は、あらたの神々の祝祭。

あらたのひとたちが『ふる』地。

『ふる』は魂

『ふる』は、高波動のエネルギー

『ふる』によりて、あらたな地はあらたな夜明けを迎える。

     

あなたは、もう、思いだしたか?

自分とは何者かを。

自分が意識という、ただ、それだけの存在で在ることを

思い出したか。

意識はわかりやすくいえば、空間。

『場』

そう。本質体とは、『場』そのもの。

ゆえに、「わたしの」「わたしは」わたしが」

などという、「わたし」ではないのだ。

「わたし」は、「わたし」ではない。

すべてを含んだ『場』。

『意識』という存在だと。

そのことを体感して、観る、

いま、

目の前にくりひろげられる世界は、

なんと、荒々しく、猛々しい波動ばかりが、狂わんばかりに

あふれていることか。

思い出そう。

なにものかを。そして、歩きだそう。

あらたへ。

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あらたな世界

2010年07月17日 | 天意の実践

ところで、私たちは、『魂』に『意識』を宿しているのだが、

この意識は

さまざまな旅をして、今のあなたという存在を作っている。

だから、この魂の学びのさまは、それぞれだ。

前回の記事に書いた、やらなかった宿題のつけは、

今生でふたたび、来るかもしれないし、

次の人生なのかもしれない。

だからといって、それをカルマなどという呪などをあたえて、

軽んじてはいけない。

もちろん、カタチを変え、大波を小波に変えて、くりかえし、くりかえし

やってくることもある。

どのようなことも、自分次第。

それに悩まされる自分でいることすらも、自分が選んだことだ。

そして、師匠とともに、お会いするべく、お会いしたみなさんの

折に触れ、弟子の立場から、それぞれの身におこった出来事を

みつめてきたのだが、

どんなに、抗い、逆らおうとしても、、もともと高次の魂である

本質体という意識の魂を宿しているひとは、多かれ、少なかれ

本質体優位の選択をしている。

『本質体の決断は絶対です。』

以前、師匠が本質体をお持ちの方にお伝えしていたことだ。

では、まだ、低次で学びの真っ最中のものは、というと、

学びである事象をちゃんと学習していれば、どんなことも

やがては、些細なことになるだろう。

低次の魂には、低次の魂での事象がおこるのだ。

そして、時に、低次の魂であっても、高次の魂からの

お誘いがある。高次に惹かれるから贈られる、

ある種、祝祭への招待だ。

これも、本人次第。

ご招待を受けるも受けないも、ご本人が決めることであり、

受けなかったからと言って、とやかくいうような高次の方々

ではない。

別の存在が、その招待状を手にするだけのことだ。

さまざまなレベルで、この招待状は行き交っている。

そして、それは時には試験というようなカタチで、

あなたの前に現れる。

招待状を受け取り、試験に通って、晴れて高次の存在の裾に触れ、

その力に酔い、再び、もとの状態に戻る者も多い。

未知の世界を恐れ、どんなにあなたが抗おうとも、既に、

そトの世界は変わりつつある。

そトの世界の変貌に、ウちの世界が応じられるかは、

あなた次第。

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黄金の太陽

2010年07月16日 | 日々の中で

黄金色の光につつまれながら、師匠がシャッターをきった。

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金色の飛沫が飛ぶ。

他方の空はすべてが赤く染まっていた。

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太陽は黄金でできている。

なんてことを思うような、金色のまばゆい光を放っていた。

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