あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

ハッピーバレンタイーン!そして親子地獄!

2022-02-14 | from:sachiaki
ハッピーバレンタイン!!
というわけで、お仕事で描いていたイラストを
こちらにもアップしてみるよ。

モケラボ株式会社さんというアプリ開発の会社さんの
公式絵を担当させてもらっているので
今回はバレンタインのイラストを描いたって寸法さ。
このイラストを上げるために朝方までお仕事していたので
ねむねむなsachiakiです。

時間配分が出来ていなかった自分が悪いので
何一つ文句はないです。
とりあえずバレンタインで思い出す話としては
女子高時代のバレンタインとホワイトデーは楽しかったなぁ
ってことだけです。
なんていうか、目立つタイプにいたわけじゃないけれど
リア充と呼ばれる側のことは一通りしてきた人生なのだなぁ
なんてことを最近よく感じます。
そしてそれが大したことないと思っていたけれど
恵まれていただけなんだなってことも。

というわけで、こんなバレンタインという
浮足立つイベント当日ですが、
また子殺しをした母親が出たとかで
いろんな意見が出回っているそうで……。

んで、比較的この人の言うことは正しいよなぁって思う人がいるんだけど
その人が子殺しした時の親への同情が集まるのはおかしい、
どう考えたって殺された子供がかわいそうなだけだし
情状酌量の余地はない、とまで過激なことを言っているので
う〜ん、言いたいことはわからなくもないけれど
さすがにそれを言ってさらに人を追い詰めてどうするんだろう?
って気持ちになったりしてました。
私は一貫して犯罪を犯した人間にも良心があるという前提に立っている側なので
犯罪なんてものは誰もがその環境いかんによって
手を染めるか染めないかの違いでしかないって思っているので
こういった子殺しにまで至ってしまった母の気持ちを思えば
どういった心の経緯があったにしても
そんな環境にいなければなぁ、
かわいそうになぁっていう同情心を持ってしまうのです。

ちょうど「鬼滅の刃」遊郭編の最終回で
ずっと虐げられてきて、誰からの助けもなかった
そんな兄妹が鬼に落ちていった話を見ていたところもあって
タイムリーにそんなことを思ったわけです。
誰も許してくれないだろうけれど、
例えば兄弟が、例えば両親が、例えば先生が
そういった縁の深い人が祈ってくれるぐらいはいいじゃないか
というようなものの延長で、
誰も祈ってくれる人がいない人のために
誰かが「この子が幸せでありますように」と祈ってあげることくらいの
同情心は持っていてておかしくないんじゃないか?って思うんです。

それは「環境が悪かった」という他責のものになるから
いつまで立っても日本人は自律しないんだって
上に描いた人は言うんだけど、
まぁそれは戦争責任についての日本人の無責任論にも通じているとも思うんだけど、
それでも結果というものには原因があり、
その原因というのは見方によっては
外因性であったり内因性であったりするんじゃないだろうか。
「環境が悪かった」というのは外因性で
それに対してどう振る舞うかは内因性で「自律」に関わることなんだと思う。
どんな環境にいても人間性=理性を貫き、
善性を持って人と生き延びた人もいるわけで、
「環境が悪かった」なんて言葉で自分の責から逃げてるだけじゃないか
っていう言葉もわかるけれど、それはなんていうか
あまりにも強すぎる人の言い分だと思うんですよね。
そりゃそうだよ、そうできたらいいよ。
でもそんな強さを誰もが持てるものだろうか?

そこで何度もこの日記で引用してしまう「ベルセルク」の中の
クソザコ弱キャラ、ニーナの言葉ですよ。

 人は強いってだけで
 誰かを傷つけてしまい
 弱いってだけで誰かを憎んでしまう

 縋(すが)る誰かより
 誰かを赦せる自分が欲しい


せめて誰かを許せるほどの自分があれば
誰かを憎んだり傷つけることもせずにいられる。
そしてそれがいつか誰かを引っ張りあげられるだけの
同情心とたくましさを持つことができれば良いんだと思います。
強くなんて生まれてきていない私たちが
その弱さについてカッコ悪いと目をふさいだり
ボコボコに言うことはできるけれど、
どちらの側に立っていられるかは
薄皮一枚程度の覚悟とかそんなもんなんじゃないでしょうか。

 強い者は存在じたいが弱い者を傷つけ
 弱い者はその強さを憎まずにはいられない。

こういった心理を理解できない強者の奢りについて
自分も思うところがないわけじゃないです。
今日はとくにバレンタインデー、
その中のハッピーが心の底から憎い人たちもたくさんいることでしょう。
そういった人たちを醜いと笑うこともできるし、
そういうところやぞ!って言うこともできるけれど、
そうじゃないよねとも思います。

他責から自責に考え方をシフトできると
人生の苦難への見方も変わると思うんだけど、
一番苦しい時に「この苦しみは自分が招いたものだ」と
受け入れるには器が出来上がっていなくては壊れてしまうんじゃないでしょうかね。
また、その自責というものへの考え方を
別の見方でしたら、すべてはお前が悪い!と
謎理論で無理難題を振りかけてくるクソどももいることでしょう。
そういった人たちには、それこそ自責でそのあと誰かが壊れたりしたら
その補償をするのかちゃんと考えて欲しいですね。
”人材”=”人財”なのだから、宝はちゃんと磨いておかないと
自分の扱いが悪くてボロボロにしておいて
「勝手に壊れた」なんて他責の最もたるところですからね。

そんなことを考えていました。
自分の人生、自分で動かせる範囲はどこかと見極めておきましょう
ってことになるのかな?
疑問系で締めるなって話ですが今日はこの辺にて。
そんじゃまた。モイモイ。
コメント
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