(原題:Chinese Box)97年イギリス=香港合作。1997年7月1日、中国返還を目前にした香港に生きる人々を描くウェイン・ワン監督作品だが、同じような題材を扱った「世界の涯てに」と比べるまでもなく、これは完全な失敗作と断言したい。
設定があまりにも(観念的レベルにおいて)図式的なのである。白血病で余命いくばくもなく、好きな香港で人生を全うしようとするイギリス人男性(ジェレミー・アイアンズ)、10年前に大陸から移住し、苦労を重ねて今では高級クラブを経営するまでになった女(コン・リー)、過去にイギリス人男性との恋に破れ、心と身体に傷を負った香港女性(マギー・チャン)、という組み合わせだ。東洋と西洋の接点であった香港、そこに西洋人と中国人、そして香港人それぞれの国籍・立場・心情から香港返還を捉えるという、いかにも頭だけで考えたような話を、ドキュメンタリー・タッチを身上とするアメリカ帰りのワン監督に振った時点でこの映画は終わっていた。
しかも、脚本を担当したのがルイス・ブニュエル作品でお馴染みの御大ジャン=クロード・カリエールだ。はたしてカリエールに香港返還といったモニュメンタルなイベントに興味があったのかは不明だが、それほど思い入れのある題材であったとも思えない。
たぶん脚本の狙いは、歴史的事実よりも、屈折した登場人物たちの面白うてやがて悲しき人間模様をシニカルかつブラックに描き込むことだったのかもしれない。その片鱗がうかがえるのはコン・リー扮する中国女性のキャラクターだ。彼女は香港財界の大物(マイケル・ホイ)との結婚を望んでいるが、相手には元娼婦である彼女と一緒になる気はない。そこでとりあえず故郷の母を安心させるため花嫁姿を撮らせてほしいという相手の依頼を受け入れると共に、なんとそのあとすぐに売春婦の格好をして主人公のイギリス人と寝るという突飛な行動を取る。
花嫁と娼婦、相反するものが一人の女の中に存在し、本人はその矛盾を自覚しながらも抜け出そうとはしない。ブニュエル仕込みとも言うべき、女の性のどうしようもなさを容赦なく描く部分は、コン・リーの存在感もあり、実に印象深い。対して、マギー・チャン演じる香港女性の扱いは、顔の半分をマフラーで隠しているという外見こそ意味ありげだが、それ以外は要領を得ない。ジェレミー・アイアンズも過去の彼の演技パターンを一歩も出ていない。
もっとハッタリかませた海千山千の演出家を起用すべきではなかったか。ヴィルコ・フィラチの撮影とグレアム・レヴェルの音楽は良かったものの・・・・。
設定があまりにも(観念的レベルにおいて)図式的なのである。白血病で余命いくばくもなく、好きな香港で人生を全うしようとするイギリス人男性(ジェレミー・アイアンズ)、10年前に大陸から移住し、苦労を重ねて今では高級クラブを経営するまでになった女(コン・リー)、過去にイギリス人男性との恋に破れ、心と身体に傷を負った香港女性(マギー・チャン)、という組み合わせだ。東洋と西洋の接点であった香港、そこに西洋人と中国人、そして香港人それぞれの国籍・立場・心情から香港返還を捉えるという、いかにも頭だけで考えたような話を、ドキュメンタリー・タッチを身上とするアメリカ帰りのワン監督に振った時点でこの映画は終わっていた。
しかも、脚本を担当したのがルイス・ブニュエル作品でお馴染みの御大ジャン=クロード・カリエールだ。はたしてカリエールに香港返還といったモニュメンタルなイベントに興味があったのかは不明だが、それほど思い入れのある題材であったとも思えない。
たぶん脚本の狙いは、歴史的事実よりも、屈折した登場人物たちの面白うてやがて悲しき人間模様をシニカルかつブラックに描き込むことだったのかもしれない。その片鱗がうかがえるのはコン・リー扮する中国女性のキャラクターだ。彼女は香港財界の大物(マイケル・ホイ)との結婚を望んでいるが、相手には元娼婦である彼女と一緒になる気はない。そこでとりあえず故郷の母を安心させるため花嫁姿を撮らせてほしいという相手の依頼を受け入れると共に、なんとそのあとすぐに売春婦の格好をして主人公のイギリス人と寝るという突飛な行動を取る。
花嫁と娼婦、相反するものが一人の女の中に存在し、本人はその矛盾を自覚しながらも抜け出そうとはしない。ブニュエル仕込みとも言うべき、女の性のどうしようもなさを容赦なく描く部分は、コン・リーの存在感もあり、実に印象深い。対して、マギー・チャン演じる香港女性の扱いは、顔の半分をマフラーで隠しているという外見こそ意味ありげだが、それ以外は要領を得ない。ジェレミー・アイアンズも過去の彼の演技パターンを一歩も出ていない。
もっとハッタリかませた海千山千の演出家を起用すべきではなかったか。ヴィルコ・フィラチの撮影とグレアム・レヴェルの音楽は良かったものの・・・・。
