95年オーストラリア作品。製作当時はアカデミー賞候補にもなり世評が高かったらしいが、私は評価しない。最大の理由は、主人公のデヴィッド・ヘルフゴット(ジェフリー・ラッシュ)が少しも天才的ピアニストだと思えなかったからである。
映画のサウンドトラックには彼の実際の演奏が使われているが、あまり良くない。奇抜な演奏ではあるが、天才のひらめきは感じられない。単なる“曲芸”だと思う。彼よりスゴいピアニストはいくらでもいる。M・アルゲリッチやM・ポリーニの若い頃の演奏は素晴らしい(今でも相当なものだが)。ひと昔前だとそれこそグレン・グールドやサンソン・フランソワ、もっと前だとホロヴィッツのような、超のつく天才がウヨウヨしていた。
対してヘルフゴットは小物だ。素材に対する興味が全然わいてこない。・・・・と書くと“この映画は天才の伝記ではない。運命に弄ばれた男の魂のドラマだ”なんて反論する向きもあるかもしれない。しかし、英才教育を施す父親(アーミン=ミューラー・シュタール)からの過度のプレッシャーによる破綻とそれからの解放を描く中盤場面や、年齢を重ねるごとに子供っぽくなる主人公のイノセントな“奇行”を思い入れたっぷりに描く後半などは、ヘルフゴットが“実は万人を唸らせる天才であった”という前提がなければ、単なる茶番に過ぎないと思う。“しょせんはちょっと変わったピアニストでした”ではシャレにならないのである。
ハリウッド的な仰々しい“泣かせ”の部分を出来るだけ回避しようとするスコット・ヒックス監督の作劇は、それを意識するあまりドラマを四散させてしまっている。後半のストーリー展開は省略のし過ぎで、ハッキリ言ってワケがわからない。特に精神病院に入院させられたヘルフゴットが立ち直るきっかけになった音楽カウンセラーのオバサンが、重要なキャラクターであるにもかかわらず、いつの間にか消えてしまったのには唖然とした。
アカデミー主演男優賞を取ったJ・ラッシュのガンバリは認めていいが、それ以外は何ともコメントのしようのない作品だ。演奏家を題材にした映画なら「コンペティション」や「愛を弾く女」の方が数段上だと思われる。サントラ盤も覇気のない仕上がりで本当に困った。
映画のサウンドトラックには彼の実際の演奏が使われているが、あまり良くない。奇抜な演奏ではあるが、天才のひらめきは感じられない。単なる“曲芸”だと思う。彼よりスゴいピアニストはいくらでもいる。M・アルゲリッチやM・ポリーニの若い頃の演奏は素晴らしい(今でも相当なものだが)。ひと昔前だとそれこそグレン・グールドやサンソン・フランソワ、もっと前だとホロヴィッツのような、超のつく天才がウヨウヨしていた。
対してヘルフゴットは小物だ。素材に対する興味が全然わいてこない。・・・・と書くと“この映画は天才の伝記ではない。運命に弄ばれた男の魂のドラマだ”なんて反論する向きもあるかもしれない。しかし、英才教育を施す父親(アーミン=ミューラー・シュタール)からの過度のプレッシャーによる破綻とそれからの解放を描く中盤場面や、年齢を重ねるごとに子供っぽくなる主人公のイノセントな“奇行”を思い入れたっぷりに描く後半などは、ヘルフゴットが“実は万人を唸らせる天才であった”という前提がなければ、単なる茶番に過ぎないと思う。“しょせんはちょっと変わったピアニストでした”ではシャレにならないのである。
ハリウッド的な仰々しい“泣かせ”の部分を出来るだけ回避しようとするスコット・ヒックス監督の作劇は、それを意識するあまりドラマを四散させてしまっている。後半のストーリー展開は省略のし過ぎで、ハッキリ言ってワケがわからない。特に精神病院に入院させられたヘルフゴットが立ち直るきっかけになった音楽カウンセラーのオバサンが、重要なキャラクターであるにもかかわらず、いつの間にか消えてしまったのには唖然とした。
アカデミー主演男優賞を取ったJ・ラッシュのガンバリは認めていいが、それ以外は何ともコメントのしようのない作品だ。演奏家を題材にした映画なら「コンペティション」や「愛を弾く女」の方が数段上だと思われる。サントラ盤も覇気のない仕上がりで本当に困った。