元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ユリシーズの瞳」

2008-08-29 06:39:22 | 映画の感想(や行)
 (原題:To Vlemma Tou Odyssea )96年フランス=イタリア合作。バルカン半島で最初に撮ったとされるマナキス兄弟の作品で、しかも未現像で陽の目を見ないフィルムを探すため、現在はアメリカに住み35年ぶりに故郷ギリシアに戻ってきた映画監督(ハーヴェイ・カイテル)の旅を描く。ギリシアの異能テオ・アンゲロプロス作品で、その年のカンヌ映画祭銀賞など多くの賞を獲得した3時間の大作。

 はっきり言ってしまおう。私はさほど面白いとは思わない。理由は簡単で“当事者意識のほんの少しの後退”というものだ。アンゲロプロスのような先鋭的作家は、その“ほんの少し”が大問題なのだ。70年代後半に撮った「旅芸人の記録」と「アレキサンダー大王」がなぜあれほど衝撃的だったか。それは時間と空間を超越した大胆な映像手法はもちろんだが、それよりも歴史に翻弄される市井の人々の赤裸々な姿を容赦なく捉えたからだ。切迫した作者のパッションが登場人物の姿を借りて画面を横溢したからである。映像技巧はあくまでも手段に過ぎない。

 対してこの作品はどうか。主人公はギリシア人とはいっても故郷を長く離れた異邦人であり、しかも彼の目的は失われたフィルムを探すことだ。彼はアルバニアからルーマニア、新ユーゴ、ボスニアなど、ヘヴィな状況の場所を旅する。住民の悲惨な境遇も目の当たりにする。でも・・・・。

 彼は部外者だと思う。この現実を前にして、失われたフィルムを探すことに何か意味があるのだろうか。たぶん、映画黎明期の作家が撮ったフィルム(冒頭に紹介される)の、初めて撮る者と撮られる者の意志の交流による、原初的である意味“幸福”な光景と、現在のバルカン半島のシビアな状況とのコントラストを狙っているのだろう。あるいは“原点”を求める映画監督の内省的スタンスを綴ったのかもしれない。しかし、その程度では何ら私の心は揺さぶられない。単なる旅行者の勝手な思い込み、と片付けられても仕方がない。

 対して、主人公の少年時代を描くエピソードは見事だ。1944年から49年までの一家の苦難がワン・カットで(!)描かれるシーンは、彼自身が歴史の証人となり物語の中心になる瞬間である。ただ、映画の中で良かったのはここだけだ。主人公を取り巻く女たち(マヤ・モルゲンステルン4役)の扱いや、ラストのサラエボでの悲劇は、それなりの思い入れがあって撮ったのだろうが、非常に図式的で感心しない。作者の“傍観者ぶり”が目立つばかりだ。

 困ったことに、昔は革新的に見えた彼の手法(極端な長廻しと時空間のランダムアクセス)が、今回はマンネリとも感じてしまう。加えてその後「ビフォア・ザ・レイン」とか「アンダーグラウンド」とかいった真に現在進行形のスルドイ映画が輩出したせいもあり、この当時のアンゲロプロスの位置は“一歩引いた”ものと思われても仕方がない。
コメント
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