関東大震災≒カント大天才
今、津波のように押し寄せる言葉の襲来に筆者の足は震え、手はおののき、頭蓋は揺れている。われわれにとって震災を語ることとは、一体どういうことなのか? それについて語ろうとする度、何度も上に書いたように津波のようなものが筆者の脳内に押し寄せるのが分かる。しかしながら筆者は、かの震災における被災者であると同時に、もしかすると被災者ではないという意識に捕われることもある。なぜなら、震災を楽しく都合良く捉えることに躍起になっていたからだ。どうしてそういうことができるか? それは、筆者は「生き延びてしまった」からだという理由しか挙げられない。生き延びたからこそ、少しの希望を必要とするし、また悲しみに打ちひしがれてばかりの日常であれば、それに耐えることはできない。今、確実に言えることは、ある種ドライなカラッと晴れ渡った空のように、心配事には無頓着で、どんな艱難辛苦も笑い飛ばしてしまえるような軽いスタンスで立つ強さが欲しいのだ。それは、目の前で起きた事実を淡々と認め、前へ進む、そんな強さである。喜劇を素っ気なくやってはいけないのと反対に、悲劇はあまり湿っぽくやってはいけない。悲劇に直面したときは、笑うのが一番である。われわれは心を苛むような記憶を忘れることで、ほんとうに大事なものだけを心に保存することができる。いわば、それは心の間引きである。
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