あなたの心には「正義」というものが隠されていると信じますか?
そもそも、人間が「善」なる行動をしたいと思う陰には、「自分がより良き状態になりたいという欲望」、又は、「自分の価値を上げたいという極めて利己的な顕示欲や名誉欲」などが、隠されているということは頭に入れておかなければならない。
私は、以下のように断言する。人生において、われわれはすべて衝動としての「善」、或いは「悪」を行うこと以外に道は用意されてない、と。つまり、そこに確かな「主体」などを持って、自ら行動を選択する「自由」はないも同然だということを言いたい。が、こういった「自由」についての議論はもう相当前から行われてきているのは、百も承知である。
あれ? これは、アウグスティヌスが言っているのと、同じことだろうか?嗚、ほんとうに頭の悪いやつだ僕は、そんなの引用すれば済む話ではないか、と思えてしまう。もう、僕らは、過去の偉大な先達たちの言葉のうちで、どれが好きかを選択し、編集し、提示すること以外に何らかの方法があるのだろうか?
(ちょっと、アウグスティヌスについての書籍などに目を通してみよう…。)
ひとつ、思ったが、「善」と「悪」は両方存在しなければ、どちらも存在しない、と言えるよね。つまり、一方だけが存在する訳が無い、と。幾ら、神が全農だかなんだか知らないが、私の考えでは、神様は、私たちの生をひとつの映画を観て楽しむような目的を持って創造したと言い切る。「善」と「悪」の両方が存在しなければ、物語としては成立し得ないのだ。だから、私たちが、今目の前で起きた事柄について「善」とか、「悪」とか判断していたとしても、それを超えた「神による判断」をも考慮しなければ、われわれは正気を無事に保てているとは言い難い。われわれは、神の意志に因って創造された、被造物なのである。そこを飛び越えて、神の論理を手に入れる資格は、最初から「人間」にはない。どうしても、そういった資格が欲しいと思えば、そのうちにでも人間が、新たな「生命体」の生みの親になるしかない。そうすれば、その「生命体」たちの神に、われわれは成れるのである。
さて、ここで新しい、疑問が生まれる。われわれは、そういう「生命体」を生んだ暁に、果たしてどういう気持ちで「彼ら」と付き合っていこうと思うか?という、素朴な疑問である。もちろん、僕らを超えないで欲しいけど、何かしら「人間の生活」にどうにか「役立っ」て欲しいと思うのではないだろうか?また、もちろんわれわれに「危害を加えるようなもの」には、成って欲しくないとも思うだろう。
待てよ? 神様と、人間は同じ次元に住んでいるのか?或いは、別次元なのか?という問いが生まれてきた。そうなってくると、スピノザが言っていることの重要性を感じられるようになってきた。
われわれが、勝手に「神」を特別なものにしているだけで、何つまるところ、われわれの生活のなかに、神は居られるのであって、神が、全然別の次元にいて、私たちを鑑賞しているというふうに言い切ることはできないのではないか?違うだろうか?
つまり、神はわれわれの行動や思考などの一切の原因であると同時に、われわれは神と呼ばれる概念の一部なのだと、つまりは神の意志の具象化されたものが「私」なのだ、と言いたい。「私」は神の一部分なのである。
おっとー。汎神論とは、一神教が掲げる「神」の絶対的な存在を希薄にさせる考え方なんだなあー、と思えてきたね。うーん、話が堂々巡りする。ということで、私のこの稚拙な論説文も、終わりを迎えさせようか。
考えるの、ちょっと疲れた。夕飯食いたい。では、また。
(この文章に最初に付けた題名、「「善」も「悪」もそもそも初期衝動に由来する」、参考までに……。)
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