「善」が僕らの生活のなかで「実践」されるとき、いつもギリギリの判断で為されるということは、覚えておいておかなければいけない。何かを「為」すにあたって、大した余裕は与えられず、ほぼ直感的な速度でコトを為す他ないのである。よって、「善」はほぼ私たちの直感に依っており、その直感は日々どういうふうに「思念」しているかによって、決定されるものと言いたい。「善」は、そう単純なものではない。が、とっても「感覚的」に行われる類の行為である。実際の場面に遭遇して、はじめて何を為すことで「善」になるか、分かることである。かと言って、何の準備もなくして「善」を行い得るか、というと非常に疑わしい。それは、逆の「悪」にしたってそうであるに違いは無いのだろうが。
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