チエちゃん家に電話機が入ったのはいつのことだったかしらん?
ちゃんとした記憶がないのですが、たぶん、チエちゃんが小学1年生か2年生の頃だったと思います。
その電話は有線放送電話といって、加入している村内の家とだけ繋がっていました。電電公社の電話とは異なり、全国何処へでも掛けられるものではありませんでした。村が補助金を出し、農協が運営するという形だったと思います。
それでも、大人たちは便利になったと喜んだものでした。有線放送電話は略して「有線放送」と呼んでいました。毎日、朝・昼・晩の3回、キーステーションの農協からお知らせの放送があったからです。村役場からのお知らせや各種団体からのお知らせ、交通安全のお知らせ、農協からの出荷市場状況などのお知らせがありました。
村の外へ電話を掛けるときはどうしていたのでしょう?
チエちゃん家の部落のほぼ真中にあるバス停の前に、一軒の紳士服仕立業を営むテーラーがありました。部落の人たちは屋号では呼ばずに『仕立て屋さん』と呼んでいました。この家に本電話(電電公社の電話のことをこう呼んでいた)があったのです。商売柄、電話が必要だったのでしょう。部落の人たちはここの電話を借りていました。
おばあちゃんは年に2~3回、
ヨシヒサ伯父さんや仙台にいるおばあちゃんの姉妹に電話を掛けに仕立て屋さんに行きました。こんな時は必ずチエちゃんも一緒についていったものです。
黒い電話機には、プッシュボタンもダイヤルも付いていません。電話機の脇にハンドルが付いていました。それをグルグルと回して、交換手さんにつなげます。交換手さんはこちらの番号と相手の番号を聞いて、回線をつないでくれます。そうしてようやく相手が電話に出てくるのでした。
ヨシヒサ伯父さんには、「
お歳暮が届いたよありがとう、みんな元気にしているか、こちらからは米を送ったよ」と話しています。
仙台の姉妹には「元気にしているか、こちらもつつがない、春になったらそちらに行ってみようと思っている」と話しています。
その間、チエちゃんはおばさんからいただいたお菓子を食べながら待っていたものでした。
電話が終わると、交換手さんから電話がかかってきます。仕立て屋さんのおばさんが出て、料金を聞きます。そうして、おばあちゃんは料金を支払い、仕立て屋さんのおばさんと世間話をしたあと、ようやく家に帰ります。この仕立て屋さんの電話は公衆電話の役目をしていたのです。
その後、チエちゃん家にも本電話が入ったのは、チエちゃんが中学生か高校生になった頃の昭和45年前後のことだったような気がします。