五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

口を開けたまま

2008年11月27日 | 第9章 愛
私のかかりつけの歯医者さんは、とっても丁寧な方です。
何が丁寧かというと、技術も学問も粛々と研鑽され、日々努力されているのがよくわかるのです。それだけではありません。言葉も挨拶も丁寧なのです。
患者に対しての応対がとても温かい先生なのです
自分のこともよくお話します

今日は治療の合間の歯のお掃除の日。口を開けること二時間。
私の隣で歯の治療をしていた患者さんのお父様が先日91歳で逝去されたことを知り、一緒になって涙しているくらいの人情派。
考えてみれば、今は天国にいる癌の友人を嫌がらずに治療もしてくださいました。
一緒に泣いてくださり、ある時は一緒に怒ってくださったり・・・もちろん、喜びも、です。

もうかれこれ14、5年のお付き合いになりますが、そもそも子供の幼稚園のご父兄という出会い。信頼関係もあり、自分のコンプレックスである「歯」の全てを託し委ねています。

歯の治療というよりも私の癒しの場といってもよいかもしれません。

私は口を開けたまま、しゃべることはできないわけで、それがまた、休息の場となるのでしょう。
癒される歯科医院というのはちょっと珍しいかもしれません。

ありがたやありがたや・・・

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物々交換

2008年11月24日 | 第9章 愛
二年間、作品を預かりながら手を出せないでいたエッチング(銅版画)二枚。
名のある作家の作品を掛け軸にしてほしいと、長年の友人から頼まれました。

表装のデザイン、技術的な工夫が必要だったため、すぐに取りかかる勇気がなく、作品を時々眺めながら創意工夫を巡らしていました。
二年も見ていたら、だんだんとその作品が自分の中で身近なものになっていました。手をつけ出したら不思議と自然とイメージが湧きあがり、何なく仕上がりました。

出来上がった掛け軸を車に乗せ、久しぶりに友人の家に。
「花を活ける」生活が彼女の軸です。そのために花器を焼き、自然と向き合い花材を見つける日々を送っています。

アトリエには枯れたほう葉や蓮の茎、流木、それらの花材に合いそうな器が白い棚に並べられ、埋まるように部屋を支配していた書籍は、今やあっさりと本棚に並べられてあります。

やっぱり、好きだなぁ~
人の暮らし方は、その人の顔です。

彼女のアトリエをぐるりと見回すと、私の足元に大きな器がゴロリと置いていありました。

「これは、花器にならないの。水漏れるのよ・・・」
「持っていく?」

私は、「うん。頂く。」と即答。

掛け軸仕立てはプレゼントのつもりだったので、「物々交換だわね。。。」と笑い合ったのでした。

油煙で黒くした、絶対に無くさない大きブコツな箸置きと書家の作った麦の穂の筆
まで頂き、互いの感性の交換会を成す時間をたっぷり心地よく味わいました。

帰りがけに彼女が「花の師匠から、もうひとつそぎ落としたら、何かが変わるわね、といわれてるのよ。もう捨てるものは全部捨てちゃったんだけどね。。。」と言ったので「うん、物は全部削いじゃったのはわかるよ。あとは物じゃないものだね。。。」と、とっさに言葉を返してしまいました。

言葉にしない方が良かったかな・・・

物々交換したのは、物じゃなくて、心と魂。
お金では見えてこないもの。それは、私にとって価値の深いもの。

霞を食ってる私たちですが、霞がないと生きていけないことに殉じたほうが
楽に生きていけそうな気がします。

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山で遭難、以心伝心のせい?

2008年10月12日 | 第9章 愛
私たちの住む地域は、やたらと山の尾根路が多い。
尾根路に繋がる小山の中腹にも家がびっちりと建ち並び、路地に入るととんでもない方向にいってしまうような場所です。

山の上からは、大黒埠頭やベイブリッジ、みなとみらいのビルが見え、富士山も見えます。だから路がわからなくなったら、尾根路に上がると良いのですが。

今日、いつも来てくださる宅急便に大量のメール便をお願いしました。
日曜日の午後、いつもよりのんびりした感じだったので、玄関先でお茶を出し、このあたりの地理の話で盛り上がりました。

やはり、車で配達する人にとっても、難しい地域だそうです

坂道を車で上ったら、その先は階段とか、
行けるかなー、と思い車を進めると、行き止まりだったとか
路を歩いていても同じです。尾根路がまっすぐだと信じていたら、気づいたら目的地が、山の向こうだった、ということもあります。

決して、私は方向音痴ではありません。このあたりの地理の特徴です。

そうしたら、、、本日の夕暮れ時、

たまたま近くの大学での模試だった息子が、溜息をつきながら帰宅。
何を言うかと思いきや、
「○○駅から歩いて帰ろうと思ったら、路に迷って、ドツボにはまったよ~!!、ここらへんの地形はヘンだ

路を知っていれば10分もかからない地点から、30分もかかったそうです。
地図を広げ、本人は納得いかない様子。。。
聞くと、とんでもない所を歩いているのです。

案の定、山を三つは越えたらしい。。。
ありゃ~、以心伝心とはこのこと??

まるで山奥に住んでいるような会話。
みなさま、横浜の山の住宅地、遭難に注意してください。

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みんながやってる

2008年09月26日 | 第9章 愛
「みんながやってる」
子供にそう云われて、ついつい、、、ということを経験される方は多いと思います。大人になってもそれは云えます。

日本人は、「みなさんがこれをやってらっしゃいますよ」とか「皆さんがこれを選んでいらっしゃいますよ、」と云われると安心する傾向があるようです。

「個性を大切に!」なんて言っている私自身も、場合によっては、この言葉に安心感を覚えたりします。

同じ年頃の子供を持つ母たちとの会話は、それぞれの子供の「傾向」とか「趣向」が違うと、「みんながやってる」という内容が、全く異なるのです。

「最近の子供の常識」だと思いこんでいた母親が、別の「子供の常識」を聞き、びっくりすることがあります。

「私の常識は世間の非常識」くらいのことを思っていないと、「みんながやってる」についつい騙されてしまいます。
そんなことよりも、やっぱり、「自分が本当はどうしたいのか」
この問いかけは大事なことだと思います。

子供にばかり、問いかけるのではなく、まずは自分自身に問い掛けることを心がけたいものです。

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明るい人は・・・

2008年09月20日 | 第9章 愛
自分の感情の解釈の話です。

「明るい感情を表に向けながら日々生活している人は、自分の死をも明るくする。」
、と解釈した私です。

昨日、仕事で御世話になっていた方(厳密にいえば、今もお世話になっている)の葬儀に参列しました。

葬儀に清々しさを感じ、生前のお人柄が、そのまま遺された方々に引き継がれたように感じました。

「明るい人」というのは、「明るい解釈で生活する人」のことです。

何を信じて生きているのか。

何に喜びを感じて自分は「今」を生きているのか。

メメントモリ。常に死を想いながら生きることは、自分の生き方を定めていくことなのだと思うのです。

「愛」
しみじみと思い浮かぶのは、この言葉です。

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歌のやりとりは漫才と同じ

2008年08月09日 | 第9章 愛
ボケとツッコミ。

関西の方なら、これは当たり前のコミュニケーションですよね。

関東となると、ボケたことに対して、あからさまに不快感を表す人も少なくありません。もしくは、ボケられたことをどう突っ込んでいくか、言葉に詰まったりすることもしばしば経験します。

日頃、この漫才のようなやり取りをしていれば、とっさに切り返すこともできるのでしょうが、こればかりは、環境に影響することなので、なかなか上達しません。

大阪の駅の売店で飴を買うだけでも、このやりとりの重要性を痛感します。

そんな関東人の私が、源氏物語を読むにつれて、ある印象が頭に浮かんだのです。
光源氏が女性に宛てるこまめなお手紙。つまり「歌」、これに切り返して歌を返す女性の皆様。

重要なのは隠喩の使い方。

光源氏が胸ときめく女性ほど、隠喩の使い方がお上手なのです。
冷静に読んでみると、
ボケた光源氏に、突っ込みを入れる女性。という関係というわけです。

突っ込まれば、またボケる・・・

「なぁんだ、、漫才の原点じゃないの~」と思うと、一層このやり取りに引き込まれていく私がいるのです。

漫才も然り。
うまい!と思えるラップの歌詞も然り。
サザンの桑田圭祐さんも然り。

隠喩の達人は、いつの世も、人の心を動かします。

残暑厳しい夏の日を、言葉遊びで涼んでみましょう~

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喜怒哀楽

2008年07月13日 | 第9章 愛
悲しい時には、悲しい感情になります。

嬉しい時には、嬉しい感情になります。

心の問題は、個人にしかわからないスケールがあります。

どんなことをいえば、笑うのか?、喜ぶのか?、怒るのか?
それも人それぞれです。

でも、そのスケールが個人個人違っても、「悲しい時には悲しくて、嬉しい時には嬉しい」のです。

自分の心の中のどこが分岐点になるのかを意識化できていると、生活がより楽しくなり、そして怒りや悲しみの感情を回避することもできるはずです。。

自分の湧き出す「感情」を大切にすることが、心の健康の第一歩。

心の健康は、身体の健康と同じく、自分自身でなんらかの対処をすれば、必ず健康を取り戻すはずです。

そのためには、知識が必要です。

心の問題は、個人的なこととはいえ、喜怒哀楽は人が持つ普遍的な感情です。

家族の話をどう聞けばよいのか?子供の問題を親である自分がどう関わればよいのか?ふさぎこんでいる友人の話をどのように傾聴すればよいのか?自分の生きがいとは何なのか?

健康であればこそ、勉強は自分の頭に沁み込みます。

身近な人の話を聴くための学びは、必ず自分自身の自問自答の仕方にも繋がります。

宗教の違いも民族の違いも思想の違いもないはずの心に、自己概念という仕切りをつけることから、何かの感情が生まれます。

「湧き出す感情を大切にする。」

いつの日か、固く仕切られた境界線が、自分の内から消え去ることを願いながら、
学びを続けて生きたいものです。

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草茫々

2008年06月18日 | 第9章 愛
この時期、草の成長が著しく、忙しさにかまけて庭の手入れを怠っていたら、緑茂る、雑草の庭と化してしまいました。
日中にブログを書く暇があるなら、草の一本でも、、、と思うのですが、指は、パソコンのキーボードに乗っかったまま、庭に出る気がしません。

毎年、伸び伸びと成長する萩も、5月に一番枝を剪定し、ずいぶん短くしたのですが、すでに隣のモミジが迷惑そうに葉っぱをくねらせています。ツワブキも日陰という劣悪な環境に押しやられるのは時間の問題です。

今年は、雑草と間違えられずに生き残ったミズヒキが去年よりハバをきかせ、オカメ蔦を押しのけて増えてきました。
庭の草花も、せめぎ合いながら、生き残りをかけています。

そんなことを考えながら草茫々の庭を眺めるのも悪くないと思うのは明らかに私の言いわけめいた独り言。

夏至間近の梅雨の晴れ間。日が陰り風も涼しくなったことだし、少しだけでも草刈りでもしよう。。。かな、

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友は宝

2008年06月16日 | 第9章 愛
思春期の子供と親の関係は、時代が変わっても同じです。
親は子供の成長を喜びながら、期待も膨らみます。
一方、子供のほうは、だんだんと自分に目覚め、自由に行動する機会も増えていきます。

「良かれと思って、子供のために」と思う前に、親である「私」と子である「あなた」を切り離して考える努力が必要かもしれません。

「親の望み=子供の望み」ではないことを意識しているか否かで、日々の生活がずいぶん変ってくると思います。

ただし、親の意見や考えは、きちんと伝達する必要はあるし、子供の意見や考えももちろん聞く必要があります。

親が危険を感じたら、子供を守るのは、本能でもあるし、義務でもあります。

心と体が急成長する時期、心の急成長は見えない分、親も戸惑います。子も同じです。

こんな時期に大切なのは、やはり友達。
親も同じく。

友達のお母さんにお世話になることは、とても大切なことだと思います。
作ってくださった料理をいただいたり、自分とは違う家庭の雰囲気を味わったり、
ちょっとした世間話をしたり・・・。親も、子の友達と関わることで、なんとなく平素の感じが掴めたりするものです。

「よそのお母さんにお世話になる。」

我が子も、幼稚園のころから今に至るまで、友達のお母さんにお世話になりながら、すくすくと育ってきました。

特に中学から高校にかけての時期は、そんな関係性が、親の不安の解消にも繋がったように思います。

自分の子だけ見つめて「ああじゃない、こうじゃない」と悩む前に、子供の友達にご飯を食べさせてあげると、結構、次のステップが見えてくるかもしれません。

親も子も、友は宝です。

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絶対に騙されない

2008年05月02日 | 第9章 愛
「私は絶対に騙されない!」と思っている人ほど、振り込め詐欺の被害に遭うケースが多いのだそうです。

その手口を知るとなるほど、巧妙です。

「知らない人からの電話はすぐに切る」「余計な誘いに乗らない」などと、自分に言い聞かせ、用心しながら日々暮らしているのにいとも簡単に騙されてしまうのです。

私は、ふと、生き甲斐の心理学の学びの一要素である「自己愛」を想い浮かべました。

人の本質は不安です。
何らかの不安を克服するために、学習し知恵を得て、より良く生きようと努力していきます。でも、それだけでは不安は解消されません。もっと大きなもの。それは、「愛」の問題です。どのような時代に、そして環境の中で、どのような育てられ方をしたのか?それによって自分と人との関わり方はずいぶん違ってきます。

「愛し方」「愛され方」の傾向も人それぞれです。

愛は神なり、神は愛なり。

これを逆手に取って、人を騙す人たちがいることに憤りを感じます。

私は騙されない、と気丈に振る舞っていても、あるきっかけで相手を信用してしまうと、ATMの前に立ち、携帯電話で言われるがままに指を動かしてしまうのです。
明らかに、「振り込み」と表示されているのに、「振り込まれる」と思いこみ、「パスワード」と言われて金額のところに、971111という数字を入れてしまう。。。冷静に見れば、明らかに「パスワード」ではなく「振り込む金額」の表示です。

もたもたしていると「いいですか?大丈夫です。ゆっくり落ち着いてやってください・・・」と優しい言葉で携帯の耳元で誘導されるのです。

相手を信じ、優しく丁寧な言葉で指示を受ければ、見えてくるものに疑惑がなくなります。

「ATMに行ってください。」という言葉にだけは、乗らないようお互い気をつけましょう。

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宝塚勉強会報告

2008年04月17日 | 第9章 愛
16日、兵庫に行ってきました。
とある修道会主催の勉強会。
参加者の皆様、そして、主催してくださった皆様、良い機会を与えてくださり、心から感謝申し上げます。

通信講座生の方々も駆けつけてくださり、25,6名の方々と、出会い、再会を楽しませていただきました。

平素の生活、悩みやしなければならない課題等を意識的に頭に浮かべると、かえって整理がつかなくなったりします。私の場合もそうです。
だから、あまり思い悩まないで、日々の生活を送って過ごすことのほうが多いかもしれません。

このように日々の生活を続けて元気に行動していても、ふと、言い知れない不安感が持ち上がったり、もやもやした気分に取り込まれたり、陰鬱な気分になることがあります。

そんな時、私たちの行っている勉強会で、ふと、立ち止まるのも良き機会のように思います。

生き甲斐の心理学を活かして、学びを続け「生き甲斐の心理学」を普及する仲間もいれば、自分の長年の悩みや苦しみを自分の内から見つけようと必死で学ぶ方もいらっしゃいます。どちらかというと、自分の中の問題点をを意識化しながら結果的に学び深め、社会に還元している方が大半です。

今回、宝塚の勉強会は、初めて「生き甲斐の心理学」に触れる方が多く、
「不安は人の本質である」
「理想と現実のギャップが不安感を増長させ、ストレスとなっていく」
「悩みの答えは、必ず、自分の内にある」
等、このような概念を、たった数時間で語っていったわけですが、如何でしたでしょうか?

知識を知らないで、生きていくより、知って生活するほうが数倍明るく暮らすことができるはずです。

悩みや苦しみ、なにかわからない「もやもや」した気分から解放されるには、やはり「こうありたい」という自分自身の意志が必要なのだと思います。

愛することも愛されることも、自分の意志次第、ということでしょうか。

ともかく、学び、食事をし、修道院という場所で共に過ごす時間は、人生において貴重なひとときです。新たな出会いに心から感謝し、またお会いできることを楽しみにしています。

ありがとうございました。

★「生き甲斐の心理学」ユースフルライフ研究所発行 1.890円
テキストはアマゾンで購入できます。

ご興味のある方は、ぜひ、ページをめくってみてください。

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復活祭

2008年03月23日 | 第9章 愛
✚「主の御復活おめでとうございます。」

キリスト教徒の方は馴染みのある挨拶ですが、そうではない方にとっては、少々違和感がある言葉でしょう。

復活祭は、毎年春分の日以降の満月の週の日曜です。ですから毎年、三月の下旬から四月にかけてのどれかの日曜日が復活祭となります。

クリスマスのように日にちが決まっているわけではありません。
ただ、「聖金曜日」つまり、キリストが十字架に架けられた曜日が金曜日で、その三日後に復活しているわけですから、曜日は、決められています。

奈良のお水取りが終わり、復活祭が訪れると、もう確実に春到来です。
私が住む横浜の桜も開花し始め、教会からの帰り道、遠回りをして、青空に伸びた桜の枝を見上げて、生命の息吹を頂いてきました。

午後からは、月に一度の我が家での勉強会。
お茶とお菓子で、楽しい集いです。
丸三年、「生き甲斐の心理学」のテキストをパラパラと捲りながら、時が過ぎました。
人生、様々ですが、日曜の午後、仕事や子育てに忙しい友がこうやって集まってくれることに改めて、心から感謝する一日でした。

テキストを読みこなす、というよりも、その人の思いや感情から湧き出してくる言葉は、宝物です。その言葉をこれからも一番大切にしていきたいと思っています。

力まず、無理せずに、その時その時の感情を言語化していくと、必ず、このテキストのどこかに繋がることに気づきます。

「体得、というのは、こういうことなのかな、」

学びは、一生。
息をひきとる瞬間まで、学ぶ喜びを感じることができる人生を送るのが私の目標です。

また、のんびりと続けていきましょう。宜しくお願い致します。

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ブラジル・ベレン

2008年03月20日 | 第9章 愛
テレビ番組、ダーツの旅をたまたまつけたら、その地名に記憶が蘇ってきました。
それは去年、日本から赴任先のブラジルに帰る途中に寄ったN.Yで帰天したI神父さんの住んでいた街の名前でした。

アマゾン川河口に近い街。ベレン。

大河というより、海と思える川が流れています。

漁師がとった魚を料理をし、レポーターが、美味しいと言いながら食べていました。
川魚を油で揚げ、スープにしていました。
水上生活の家族のお宅に泊まることとなり、家のご主人が、ハンモックを準備しだします。でも、夜になると川面から蚊が出現し、身体中刺されるので、ハンモックの布を身体に巻きつけて眠ります。

I神父さんは、まかないの方に食事をお任せしていたため、昼食の残りが夕食なんだ、とおっしゃっていました。

水とか油は、お腹を壊すには最短の方法です。
いくら海外生活に慣れていたとはいえ、きつかっただろうなぁ、と思います。

蚊のこともおっしゃっていました。「キンチョーの蚊取り線香が欲しい!」と。
でも、ベレンの人には、あの匂いはダメだろうから。。。そんな気づかいもしていました。

大きな街には立派な聖堂があり、画面に映ったその建物の扉を彼も押したのだろうな。。。とも思いました。

ブラジルの大きな地図を持ち、訪問する家庭で広げ、「そうですかねぇ~」と照れながら云い、茶目っ気を出して、人の言葉を待つのです。

この街の人々に愛されて、この街の人々を愛してやまなかったI神父さん。
テレビに登場する人々の笑顔と人懐っこさは、何か彼を思い起こさせる共通のものがあるように思いました。

偶然につけたテレビではありますが、必然を感じています。

天国にいる彼のイタズラなのでしょうか。
聖週間という大切な週、ベレンを見ることができたことに深い意味を感じます。

ひょっとしたらブラジルよりも、天国のほうが近いのかもしれません。





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大阪勉強会

2008年03月10日 | 第9章 愛
2007年4月から3月まで行われた月一回の大阪池田勉強会、11回目最終回。

「生き甲斐の心理学」のテキストをベースに、毎回、様々な投げ掛けをし、学びを深めていきました。

人が発する言葉は、言の葉と言われる所以通り、一言一言が尊いものです。
その人の人生が垣間見られ、大切なひとつの命が今現在まで生き抜いてこられた証
として、私たちは知ることができるのです。

言葉を発する本人自身、自分の言の葉にはっとすることをしばしば経験します。

あなたと私の関係性において、「あなたの求めている答え」は「私の内」にはありません。

「自分が求めている答え」は、「自分自身の内」にあるのです。

だからといって、一人きりになり、苦しみながら自分の内にある答えを見つけるこは、大変難しいことです。

知識も必要。
学問も必要。
情報も必要。
否定も肯定もせず傾聴する仲間は、もっと必要。
「愛」は第一条件。

自分を語ることで、それがテキストに書かれている理論と重なっていることに気づくだけでも、大きな一歩となります。

共に学び合う空間は、大事です。

一年間、友情を育みながら学びあったお仲間との別れは、少々寂しいですが、またお会いできる日を心待ちにし、私も次の一歩を踏み込みたいと思います。

大阪勉強会参加者の皆様に感謝をこめて。

世話人のブログ「生き甲斐の心理学」も引き続き宜しくお願い致します。

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きれいな背筋

2008年02月08日 | 第9章 愛
今日は、年に二度の検診日。

血液検査をするために、椅子に座って待っていました。

氏名と生年月日の確認をしてから、針を刺すのが最近の常識です。
そんなわけで、聴き耳を立てて待っている人には年齢はバレバレ。
というわけで、私の前に座って確認応答しているおばあちゃんお二人は大正生まれということが分かり、病院にいらしているとはいえ、若々しいのに驚きました。

久しぶりに「大正」という言葉を聞きました。
義母が生きていたら今年で89歳。
背筋の真っ直ぐな人でした。
いつも髪をきれいに染めてセットして、きれいな江戸言葉を喋っていました。
一気に痴呆が進み、寝たきりになりましたが、品の良さの中にある抑圧した一本義な個性が、彼女のプライドを守りきっていたように見えました。
見栄は張るけれど、張った分だけ美しい、というのも悪くないと思います。
(美容整形に明け暮れる、というのは好きではありませんが)

一人のおばあちゃんが私の席の横が空いていたので、採血が終わり、そこに荷物を置きカーディガンを着ようと手を掛けられたので、そっとカーディガンの袖を後ろから回してあげました。
「ありがとうございます」
そうおっしゃって、出て行かれました。

おばあちゃんの声色は予想通り、きりっとしていました。

美しい姿勢は、年齢を若く見せます。
そのうえ、カッコいい。

同じ歳を重ねるなら、いつも意識して背筋を伸ばせるよう過ごしたいものだ、と自戒を込めて、目標設定しました。

背筋を気にするくらいの見栄、可愛いものだと思いますが、心身ともに健康に生きるためには、大切な意識化だと思います。

行きたくない病院も、人との出会いでずいぶん違うものですね。

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