五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

五感で見分ける

2007年07月27日 | 第2章 五感と体感
好きなの?嫌いなの?

心地良いの?心地悪いの?

自分への問いかけ。

相手が望んでいると思うから、、、
相手が好きだと思うから、、、
自分を犠牲にして、他者の為に尽くす。

子供が、親が、夫が、上司が、友人が、、
では自分は?

主語が「私」から「第3者」に置き換えられていると、自分の五感に素直でなくなっていってしまうように思います。
どんどん、自分の「素」から離れてしまう。

「私」が感じている喜怒哀楽。
そして、
「私」が体感している五感。

どんな状況におかれても、「私」という「心と体と魂」をいつもいつも意識していたいと思うのです。

今日の私は、とても心地良い午後を過ごしています。
この数週間の感情の流れは、低から高へと導かれ、いまは、失った大切な人の魂が、私の内にしっかりとくっついているように感じています。
不思議なのですが、ブラジルよりも天国の方が、私には近いのだと、体がそう体感しているのです。
庭の萩が今年も他の植物の邪魔をしながら、堂々と風に任せてなびいています。
茎はしっかりと枝を支え、枝は茎を信じて好きな方向に揺らめいています。

戻るところは、自分自身。
正中線に心を宿し、ますます「私」を愉しんでいこう。

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好き?嫌い?

2007年07月25日 | 第2章 五感と体感
「不安な感情を読み取る、」

心地良い感情と心地悪い感情は、人によって違います。
私と貴方は違います。

一つの現象を、同時に体験した場合、その対応のし方(行動)、感じ方(感情)、捉え方(思考)は、人ぞれぞれです。

「私」が感じた「感情」は「私の個性の賜」なのです。

「心地良い、心地悪い」=「好きと嫌い」の感情は、「私」が生まれてから今日までの成育史が育み芽生えさせたものでもあります。
だからこそ、瞬時に湧き上がるこの感情を大切にしたいといつも思うのです。

いちいち口に出さなくても良いのです。
心に留める自分を許すだけで良いのです。

その湧き出す感情を否定もせず肯定もせずありのままに・・・。

<生き甲斐の心理学参照>

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感情には意味がある

2007年07月23日 | 第2章 五感と体感
湧き出す感情を否定も肯定もせず、受け容れる。

湧き出してくる感情には、必ず意味があるそうです。

身近な人との別れ。

その現実から逃避したい気持ちもあります。
でも、日常の生活に戻りつつある私は、何故かその人との間に芽生えた私自身の「友好的感情」がふつふつと湧き出てくるのです。
第三者が彼について語る言葉、文章を聞いたり読むに連れ、それらが全て、私が彼との関わりにおいて感じた「友好的感情」と結びつくことで、間違いなく「仲間」に加えてもらったような嬉しい感情が湧き出てくるのです。
だから、彼がブラジルにいようがニューヨークにいようが、天国にいようが、その境目はあまり感じられないのです。これは、私の現実吟味力の低下ではないと信じていますが。

これは、あくまでも、私個人の自己分析です。

このように、自分の湧いてきた感情を解釈していくことは、次の階段を一歩踏み出すきっかけになっていきます。
その解釈の仕方は、人それぞれです。

自分の不安な感情がまだ見えず、混沌としていらっしゃる方は、
自分が今心地良いと感じているのか。
それとも心地悪いと感じているのか。
それだけでも、意識化してみると良いかもしれません。

本日は、亡くなった人との関わりを思い出し、そこから湧き出る「友好的感情」に焦点を当ててみました。

<生き甲斐の心理学参照>

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否定もせず肯定もせず

2007年07月22日 | 第1章 意識と知覚
自分の不安な感情をみる。

これは、普段そんなことを意識しないで生活している人が殆どだと思います。こんなことを書いている私もそうです。

「あなたの不安を頭に思い浮かべてください」そう問われると、頭の中にはぐじゃぐじゃと巡るのですが、スカッと言語化できないのです。

人様の心配はできるけれど、自分の事となると、はてさて。。。

そんな時に、話しを聞いてくれる人がひとりでもいたら、そんな嬉しいことはありませんよね。
でも、どんな聞き方をしていただきたいと思いますか?


☆自分の考えを相手に語り、それが一番!と言いきってしまう人。

☆話すことを否定し、お説教に走る人。

☆倫理、道徳に縛られている人。

☆何が正しいか、にこだわっている人。

☆最後まで話を聞かない人。

☆質問魔

☆人嫌いな人

☆すぐに人を疑う人。

☆感情がみえない人(喜怒哀楽が無い)

☆万物の自然の摂理や神仏を大切にしていない人

ネガティブなことを書き出すと切りがありませんが、このことは、私も反省すべき点が大いにあります。
でも、こんな☆だらけの人には、話を深く聞いてもらおうと思う気持ちは起きません。

自分のことはこの際、棚に上げて申し上げますと、
私が不安を打ち明けたい人は、「海のように山のように、神仏のように、変わる事無く自分をありのままの自分を受け容れてくれる人」です。

まずは、自分の感情を、自分自身が否定も肯定もせず、聴くことができるか、静かに瞑目してみるのも良いかもしれません。

一つ、二つ、絡まった感情が紐解けてくると、みえてきませえんか?

<生き甲斐の心理学参照>

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不安をみる

2007年07月20日 | 第1章 意識と知覚
「不安」は人の本質だそうです。
「不安」であって当たり前。
逆に、人の本質は、「平安」であって当たり前と定義付けられたら、不安である自分は、益々不安になっていきます。

さて、自分の不安は、いったいいくつあるでしょう。
数えてみるとどのくらいあるでしょうか。

私の場合、①前回書いた分離不安
     ②喪失感
     ③寂寥感
いま、今日この時点で思い浮かぶのは、こんな不安感です。

では、悩みや不安はどうして自分の心に覆い被さってくるのでしょう。

理想と現実のギャップがあればあるほど、不安感は増大してきます。

私の場合、信頼し、心を解放していた人の死により、まだまだ生きていて欲しかった、という「理想」。それに相対するその願いが聞き入れられない「現実」。
そのギャップが大きいために、不安感が増大しているようです。
先の見えない、予測の立てられない想像による不安感もあるようです。

さて、そうはいっても、私達をいつも統合させるべく、柱のようなものはあります。

それは、何でしょう。

私の場合、「愛」です。その柱は、揺るがずに私の内に宿っています。
それを中心に、理想と現実のギャップが揺れ動いているのです。

自分の不安をみつめる。不安を数えて、頭に巡らしてみる。
どんな感情がふつふつと湧き出てくるでしょうか?

                   <生き甲斐の心理学>参照

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解釈して整理

2007年07月19日 | 第7章 光と復活
悲しいことが起ると、それに対して、何らかの解釈が必要になってきます。
解釈することで、次に進んでいくのです。

先日天に昇った人が云っていました。
「ブラジルに行き、ポルトガル語を学びながら働くことは大変なことだが、日本を学ぶ外国人が日本語を覚えていくプロセスを間近でみているから焦らないよ。お陰で自分の語学力のプロセスも想定できるんだ。3ヶ月だったらこれくらい、半年だったらこれくらい、って感じでね!」

何事も最初から、全てが整い上手く事が運ぶわけではありません。
私自身も、徐々に解釈し、頭の中を整理する時期にきているようです。
今の自分の状態をちょっと見据えてみませんか?


自分の不安を見ていくと、それがいまどのくらいのストレスなのか測る必要があります。

① 錯乱しているのか。
② 鬱状態になっているのか。
③ 身体症状にでているのか。眠れないとか、動悸がするとか。。。
④ 怒りが爆発しているのか。
⑤ あきらかな不安感?。もしくは得も知れぬ不安感に陥っているのか?

私の場合、今は、自律神経が高ぶり、眠りが浅かった2週間を乗り越え、昨日ようやく深い睡眠を得ることができました。
①から④を全て経験し、今は⑤の不安感が、拭いきれない状況です。

不安感。「親しい人の死」
これもなかなか言語化しにくいのですが、私の場合、現在、「分離不安」というような状態かもしれません。今まで事あるごとに、自分の感情を打ち明けていた人の死でしたので、いくらメールしても、電話をしても、会いに行っても、その人の「体と心」に触れる事ができないという不安です。離れることに恐怖を感じているとも云えます。

今現在、感情が不安定で、自分の感情を読み取る必要性を感じている方は、この①~⑤で自分の状態をはかってみてください。

私自身も、いま、悲しみの渦中にあるクライエントです。
共に、自分の内にある答えを求めて、自問自答していきましょう。

答えは、自分の内に必ずあります。

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ガンジス川

2007年07月16日 | 第9章 愛
私とその人の出会いは、共に持つガンジスの思い出でした。

ベナレスのダシャシュメワトガート。
巡礼者の沐浴。
遺体が川を流れる。
洗濯もする。

そのガート(防波堤のような波止場)に賢者なのか、浮浪者なのか、詐欺師、修道者なのか、それはさっぱりわかりませんが、兎に角そんな姿の人が大勢居るのです。

そこに物売りが混じり、物乞いも同じく。

そのような人々をよけながら進んでいくと、川のほとりに辿りつきます。

憧れの地。
憧れの風景は、あっさりと私の目の前に現れました。
川の流れはとうとうとし、人生を早送りするようにも見え、または川の水だけが流れ移り、自分は取り残されたように変わらない、そんな風にも感じ・・・。

私は、巡礼者が使う安宿に滞在し、毎日、このガートに足を運びました。
ガートに座ったまま、流れる川を眺め、カッコ良く言えばこれからの人生の自問自答。
座っているだけで、人生の縮図を見、そこから溢れ出る生命力に驚きと畏れを感じ、ゆらゆらと揺れている自分の軸を、更に体感したような経験をしました。

何かが解決したわけではありませんでしたが、20年後、私はある人に出会うのです。

「ガンジスで神に会った」とその人は言い切りました。
ガンジスをこよなく愛し、宣教者となり、その人は、アジアとブラジルで活躍しました。
勿論、日本でも多くの人々と関わり、癒し、いたわり、育てました。

48年の人生を生き抜き天に召され、今、私達の心の中を住みかとし、彼は、また動き出ししたようです。

今日友人が私にくれた歌の歌詞にこんなフレーズがありました。

「あなたのために何か一つ。
  今日も新しく生まれ変わりたい。 
   その日を祈って、今日も生きる。」

私がガンジスで出会ったのは、20年後の彼だったのかもしれません。

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ライフ・イズ・ビューティフル

2007年07月12日 | 第9章 愛
私にとってとても大切な人が、急逝しました。
その人の死を受け容れるには、これから長い時間が必要なようです。
この一週間、静かに静かに彼との真実の記憶を思い起こし、この出来事の意味を自問自答してきました。

彼は、私たちに笑顔を残して、異国の地であっという間に天に昇ってしまいました。

めそめそしていても、現実は変わりません。
本日、以前から友人と約束していた東京ミッドタウンのサントリー美術館を訪れ、日本の匠と芸術に触れてきました。学生の頃から、この美術館が好きで頻繁に通いました。一緒に行った友人も同じ経験の持ち主です。互いの好みも何となく分かり合い、日常の色々なことを話し、充実した時を過ごすことができました。

こんな時は、美しいものに触れ、お喋りするのが一番の処方箋です。

五感は正直です。美しい音を聴き、触れて、観て、食して、嗅ぐこと、本当に好きなものであれば、悲しみや苦しみに囚われた心をほぐす事ができます。

そんな一日を乃木坂で過ごし、ふと、ロベルト ベニ-ニの映画「ライフ・イズ・ビューティフル」を思い出しました。美しい人生を自ら築き上げようとし、妻と息子に悲しい思いは絶対にさせないという意志のもと、強制収容所で最期を迎える、という内容の映画です。

彼に重なるのです。
笑いながら。
その残像をはっきりと私の脳裏に残しながら、天国に直行しました。

私の身心に宿る彼の魂をしっかりと信じ、これからの人生、私も彼と共に生きていきます。
ご冥福をお祈りします。たくさんの愛をありがとう。
そして、これからも変わらずに降り注ぐ愛と喜怒哀楽を私たちに与えてください。

ガンジスの友でもあり、兄でもある大切な大切な人に、私の想いを捧げます。
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表装のお話

2007年07月04日 | 第9章 愛
表装の作品展が終わり、一息ついた週も過ぎ、今日は久しぶりの表装教室でした。

表装教室といっても 皆さんがそれぞれの想いがある作品を掛け軸にするわけなので、表装の面白さだけではなく、その方の作品を拝見させていただくのが、私の楽しみでもあります。

ご自身の作品だけでなく、戦前の船旅のレストランメニューを額装したり、四国八十八ヶ所の御朱印、気に入ったカレンダーなどの印刷物や日本手ぬぐい、スカーフを表装したり、本当に様々です。

人の数だけ想いがあり、思い出があることを いつもシミジミと感じさせていただいています。

今日も、素敵な出合いがありました。
この春から表装教室に入られた方が、ご自身の書を掛け軸にするために、張りきって通っておられます。その方が書いた詩が、とても素敵なので、裏打されていた頃から由来が気になっていました。

空の青さと広さに魅せられた息子が、空に祈るのです。
空に祈ると叶うよ、と、おかあさんに向けたメッセージのような内容です。

息子さんが小学校3年生の時に書いた詩、ということでした。
気負いの無い、無垢な綴りは、自然と読む人に涙をこぼさせます。

年齢からすると、多分息子さんは、とっくに独立していらっしゃるはず。

「母」は、そういものなのですね。

何十年も前に息子さんが書いた詩を、今、お母さんが掛け軸にしようとしてるのです。
その姿が、とてもとても愛おしくなり、「母の姿」を改めて感謝しました。

「親の愛」はかけがえの無い、その人の「生きる軸」となっていきます。
「生きる軸」は、子の知らないところで、いつもいつも祈り続けているのです。

愛すること、愛されることの絶妙なバランスは、長年かけてつくられてゆくものなのだなぁ、と。

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樂(がく)の音(ね)

2007年07月02日 | 第2章 五感と体感
ラテン語のミサ(カトリックの礼拝はミサと云います)の最中、私の頭の中に平等院の雲中供養菩薩が舞っていた事を書きました。

つい数日前に、そのミサを誘ってくれた友人から、CDが送られてきました。
彼女はピアニスト。現在パイプオルガンを勉強中で、キリスト教の音楽史についても更に学習を深めつつあり、その魅力を語る目は、活き活きとして、一緒に居ると私までウキウキとしてくるのです。

封筒を開けると、そのCDジャケットに笙(雅楽の楽器)を持った雲中供養菩薩が載っています。急いで中を開けると、演奏曲目に、ずばり≪「雲中供養菩薩」楽≫と書かれてあります。しかもパイプオルガンのための曲です。

恐れながら、インスピレーションの共時性というものなのでしょうか。
CDを聴きながら、またあの雲中供養菩薩の前に立ちたい衝動に駆られています。

[雲中供養菩薩]・・・
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を囲むように、52体の雲に乗った菩薩がそれぞれ楽器を手に持ち、あるいは舞い、漂っています。

1053年に造立されたと云われていますが、当初それを目にした人々は、まさに浄土の世界に入りこんだのではないかと思うくらい、この世のものではない美しさを感じたに違いありません。
今は、鳳凰堂から外され、新しく建てられた隣接する建物で一般公開されています。

その菩薩に初めて出合った瞬間、私は息をのみました。
一体一体の菩薩が奏でる音(ね)は、果て無き空に響き渡り、しかもその音は遠くに吸収されてしまうのではなく、自分の心臓の鼓動に木霊となって共鳴し、生まれ変わっていくような想像に掻き立てられました。
視覚と同時に、瞬時に聴覚に響いてきた音はそういうものでした。

グレゴリオの家でのミサでの天高く響き渡るパイプオルガンの旋律と合唱は、雲に乗った菩薩が奏でる[楽の音]を思い起こし、私の魂を揺り動かせたのです。

天国とはそういうものなのか。
浄土とはそういうものなのか。

人の持つデジデリウム[見神欲]に、逆らう事無く生きてゆく事が自分の想像力を豊かにするように思います。

不思議な繋がりで大切な人を通して、今私の手元にある、このCD。
やはり、繋がっているのです。

私が死んだら、東大寺の華厳の光に上げられて、雲に乗った菩薩に出迎えられ、その奥にキリストが手を差し伸べて待っているかもしれません。

いや、古層の神々かも・・・。


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