五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

時代性

2012年03月30日 | 第2章 五感と体感
「自分の生育史における、時代性を自己分析をせよ。」

先日の勉強会で、このようなテーマを頂きました。

私が生まれた頃は、高度成長期。育っていく中で、「頑張れば人から認められ、夢も叶っていく」ということを言われながら、戦時中に子供時代を過ごした親に育てられ、60年代安保を学生時代に経験した先生に教育を受け、70年代安保は思春期の始まりのきっかけともなりました。

私達の世代は、親の教育と学校教育に何らかの差異を感じる生活を余儀なくされたことは確かなようです。

東京オリンピック、新幹線の開通、大阪万博等、アポロ11号、日本改造論等、時代性としては、エントロピーの法則のようなスピード感ある日本という国が豊かさを求めて膨れ上がっていくさ中、何となくそういうことを巻き込まれながらも、達観していたのが私の時代性における自己傾向のおおざっぱな解釈であると思います。

そんなわけだから、こんな自分になっちゃった。。。ということを人のせいにしているわけではありませんが、時代性に関しては、自分のせいではないわけです。

戦時中に食べ物に苦労した両親の世代は、食べることや学ぶことに意欲旺盛です。私の実家には、我が家の倍の大きさの冷蔵庫があり、大きな冷凍庫まであります。
そのような親に育ってはいても、便利な時代を過ごしている私は、そこまで食物の貯蔵に執着はありません。ただ、大震災があったことで、両親のように「生き延びる欲」を食物貯蔵をすることで満たしている自分がいることあるようです。

一方、私達の子供達世代は、冷蔵庫よりもコンビニをあてにしています。

「自分の中にある時代性」というテーマをつらつら思索してみると、面白い自己発見があるかもしれません。

今日から町田で「平家物語」を使った勉強会で籠ります。二泊三日、どっぷり平安後期に浸かってまいります^^//

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フラメンコフラメンコを観ているうちに

2012年03月29日 | 第2章 五感と体感
渋谷、ル シネマで上映されている(そろそろおしまい)フラメンコフラメンコを観ました。

息子のサークルのお陰で、すっかり身近になったフラメンコ。学祭に向けて、特に女子が長期間真剣に稽古し、穴蔵のような舞台を設置し、観客はひしめき合いながらその舞台を楽しみます。毎年若さ溢れる踊りからエネルギーを頂いてきましたが、いよいよ今年が最終学年です。歴史のあるスペイン研究会が、ずっと続くことを祈ります。

さて、映画フラメンコフラメンコは、美しいドキュメンタリー映画でした。ドキュメンタリーというよりも舞台を独り占めしたような感覚と表現したほうがしっくりきます。

映画に使用され絵画と照明は、ベラスケスやゴヤを想わせ、あたかも自分がその絵の中に入ったような感じになり、舞台装置とダンサーが交わることで画面が一枚の絵画の連続を観ているように感じます。そのくらい完成度の高いものでした。

ガルシア ロルカのような深い詩だけではなく、日常を営む人の思いがストレートに歌われ、神様が身近であり、嘘偽りの無い人間的な詩から今を生きる私達が血と骨と肉を直に体感できる事が、踊りもさることながら今回の映画で、フラメンコの面白さを新たに発見したのです。

そして、映画を観ながら、つらつらと色々な事を思い出していました。

随分昔に私がジャズを聴くきっかけになったアルバムが、マイルスデイビスの「アランフェス」でした。勿論クラシックのアランフェス協奏曲がモチーフになっています。ジャズ好きの叔父の部屋に入ると、レコードジャケットやジャズ喫茶のマッチ箱が飾られ、その中でアランフェスを聴いた時の衝撃は、中学生の私にはとても刺激的で大きなものでした。
たぶん、いきなりセロニアス モンクを聴かされていたら、刺激が強すぎたかもしれませんが。
数年間、ジャズを聴いているうちに、フュージョンが流行り出しました。そこで出合ったミュージシャンが、パコ デ ルシア。彼のスパニッシュ的なギターはテクニックも素晴らしく、私が学生の頃に聴いた、ジョン マクラフリンとラリー コリエル3人のギター共演は、過去のコンサートで私の中ではベスト5に入ります。
そのパコ デ ルシアが映画に現れ、映画館内が一瞬ざわめいたことも、ちょっぴり嬉しい出来事でした。
スパニッシュを奏でる彼のギターも素敵でした。

フラメンコフラメンコの映画のおかげで、色々なことが思い出され、まとまりがつかないのですが、私の生育史に影響を与えている芸術の宝箱が久しぶりに開いたような感じです。

なんといっても、サラ バラスのダンスが最高であり崇高であることを最後に書き記しておきます。
性を超えている身体の美しさをこの映画でより深く表現したことも絶賛です。

映画のお陰で、色々なことが溢れ出ています。書ききれないので、この辺で終わりにします^^よくよく考えてみるとスペインの表現者は私にかなりの影響を与えているようです。

DVDが出るのが楽しみ^^

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決意に立ち合う

2012年03月27日 | 第2章 五感と体感
昨日は、私の仕事のパートナーの「式」に列席しました。

それは「決意の式」です。

「終生誓願式」といえば、カトリック教会が身近な環境にあられる方は「なるほど」と思ってくださる筈です。

カトリックの中高一貫女子校にはなくてはならない存在が、シスターです。男子校だと神父です。

カトリックの学校は、大抵修道院が経営しています。

明治時代に多くのプロテスタントやカトリックの宣教者が来日し、そこから学校が誕生したところも多く、特に戦後は更に宣教者が活発に教育活動をしてきました。
教育に携わるシスター方は各々教員免許等、色々な資格を持ち、一般人と何ら隔たり無く勤務し活躍しています。(祈りを中心に、修道院の敷地の中のみで活動している修道会もあります)

話は長くなりましたが、私の仕事のパートナーの一人がシスターです。9年間という期間修道会でシスターに成るための修行をしてきました。今までもシスターとは呼んでいましたが、昨日、晴れて本当の?シスターとなりました。

つまり、そのための式が「終生誓願式」です。(仏教でいえば戒壇式が当てはまります)

半年間の修練期間を経て久しぶりに私達の目の前に現れた彼女は、深い安定感のある物腰と、満面の笑顔でした。

もともと持ち備えている天性の明るさと優しさに、更に磨きがかかったようです。あえて秋田弁で語った挨拶は、私の心に深々と沁み入りました。

Sさんと仕事ができる私は本当に幸せだし、Sさんと関わる生徒たちはなんと恵まれているのだろう。。。と羨ましさまで感じ、自然体で関わることを大切にしている私達の仕事内容に、ますます澱みの無い風が吹き通るように思いました。

好きな仕事をすることは出来ても、一緒に仕事をするパートナーとの人間関係で悩むことの多い世の中、好きな仕事をしながら一緒に働くパートナーと心が通じ合うだけで、仕事の役割を遂行しているのです。子供達は私達の人間関係をしっかりと見ているわけです。大人が仲良く仕事をしていることが、現場の第一条件でありの要なのです。

この仕事に関わる3人が、互いに強すぎず弱すぎず、互いの個性を尊重していることが他者に安心感を与えていくことを忘れなければ、益々よい役割と成れると信じています。
4月からが楽しみです。

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元気の素

2012年03月26日 | 第2章 五感と体感
定期的に我が家で行っている勉強会も早いもので始めてから8年くらいとなりました。

平日仕事をしている友人たちが集まり、とりあえず、私が世話人となり、生き甲斐の心理学の理論を自分の事例に当てはめながら、心と身体の整理していきます。お茶とお菓子を頂きながら歓談も有難く、世話人ながら私も友人に助けられています。

昨日は、若手の友人が参加しました。
そして、私に代わり、いろいろとテキストの内容を説明してくださったNさんの言葉を聞きながら感慨深いものが湧きあがり、とてもともてHappyな気分になりました。

皆さん、ほんとうに、いろいろなことを乗り越えてきたよね。。。

天国のように穏やかで優しい風が皆の身体の中に吹いていることが私に見えてきました。そして皆さんの表情が自立した人の自信に満ち溢れておりました。素敵だなぁ~とうっとりしながら皆さんの表情を眺めていたのですよ~。

昨日の話じゃないけれど、私はもう少し、同一化から解き放たれて、独自の力を信じたほうが良さそうです。
そんなことを決意させてくれた昨日の勉強会でした。

この集まりは私の元気の素でもあるのです。

ありがとう、ありがとう!

次回の勉強会は、春が落ち着き、緑がすっかり濃くなっている頃ですね。

仕事もプライベートも益々充実していくことでしょう。

一週間の始まりです。今日もよき一日でありますよう^^//

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春休みだから休もう

2012年03月25日 | 第2章 五感と体感
この週末からどの学校も春休みですね。

梅の花が咲くのは遅かったけれど、桜の花は例年通りと聞いていますがどうでしょう?

今日の横浜は朝から青空が広がっています。
お天気の悪い日が続いたので、久しぶりに爽快な気分です。

四月から新しい学校に通う人もいれば、進級する人もいるわけですが、気分はひとぞれぞれです。
ワクワク気分の人もいれば、ドキドキ気分の人もいれば、憂鬱な気分の人もいらっしゃることでしょう。

憂鬱な気分の人は、きっと、何故自分が憂鬱なのかは解っているはずです。
でも、みんなが休んでいる春休みなのですから、みんなと同じように休んでみましょう。

すっかりお休み気分を味わうと、「いっぱい休んだなぁ~!」という達成感が湧いてくるはずです。

憂鬱な気分で、何となく煮え切らない気分で休んでいると、「休んだと」いう気持ちが湧いてこないはずです。

だいたい、「休む」ってどういうことなのでしょう。
人によって「休む」内容は違うでしょうし、「休み方」も違うはずです。自分が休んだ、と思える事が休みなのですから、自分が思っている休み方をして過ごせばよいわけです。

親に言われる休み方ではなく、もしかしたら自分の休み方で休むことも勇気が必要かもしれませんが、「自分の休み方」を大切にしてください。

うんと休んで、4月にお会いする事を楽しみにしています。

生徒や学生にとっては、一年のうちで一番楽チンな休暇なのですから^^//

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10年周期

2012年03月24日 | 第2章 五感と体感
何事も10年くらいやり続けてみると、何かが見えてくるようです。
人によって周期は違うとは思いますが、「10年」は私の中ではキリの良い期間と認識しています。

その上、半世紀生きてきて、ようやく過去のことを落ち着いて比較考察できるようになってきたように思います。

夢中になる好きなこと、意志を固めて学ぶこと、仕事、結婚、子育ても、やはり10年続けてみると、良いこと悪いこと含め、一つの塊としての感情が湧いてきます。それによってこの先どうするのか、考えてみるのも良いかもしれません。

自分の中にあるわだかまり、本当に嫌々やっているのであれば、何が嫌なのかを冷静に考えてみることも必要です。

もしかしたら、やっていることが嫌なのではなく、自分自身の防衛機制に何らかの傾向があるからかもしれません。

兎にも角にも10年続けると、過去の年数の長さが立ち止る余裕を与えてくれるようにも思います。

そして、立ち止まる時に、「自分の生き甲斐は何か?」「自分は何のために生きているのか?」「自分は自分の心と魂と身体を大切にしているか」この三つを、思い巡らせてみると、更に進んでいく自分の姿が見えてくるのでは…?

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義経の憂鬱

2012年03月23日 | 第2章 五感と体感
一の谷の合戦で、功績を上げたにも関わらず、頼朝は彼を無視を装い、ジワジワといじめ続けていきます。

私は頼朝に親しみを感じません。自己の成功にひたすら邁進し、自己愛に忠実で、他者との関係に生命があるのかと思うくらい冷酷さを感じます。その上、猜疑心が強く、他者を信じる力が欠けているようにも思います。
血縁であればある程、その猜疑心は嫉妬と共に、彼の行動を決定付けていくのです。

頼朝の生育史は、そのような人格を考えると「さもありなん」と思います。歴史上の大人物を批評するつもりはありませんが、「成るように成る」とはこのことかなと思うのです。

京都に上がることを無視し続け、遠い鎌倉にて、人気を上げていく義経を頼朝の側近の搾取的情報に感情を高ぶらせながら、更にいじめ続けていきます。
側近も頼朝の感情を高ぶらせることで、義経を生け贄の子ヒツジに仕立て上げながら出世していきます。

義経は義経で、兄を慕いながら母を想い、その希求心は深く強いものだったと思います。
人柄好く政治力にも長け、京都に馴染んでいく義経であればあるほど、鎌倉の嫉妬は強くなっていくのです。

頼朝は、何度も京に上がることを要請されても、上がろうとはしません。

その狭間に立たざる得ない義経の憂鬱は大きなものだったことでしょう。

義経の生育史から考えると、頼朝に疑いをかけることを思いつかないのも理解できます。

こういった事象は、現代の社会に散見できることと何も変わりません。義経と頼朝の関係は、いつも私を憂鬱にさせます。
吉川英治氏の新平家物語12巻は、そんな義経をあれこれ心配しながら感情移入している私がいます。

就活真っただ中の我が子も、これからこのような世間を渡っていかなくてはならないかと思うと、「自分を信じて頑張ってくれや!」と思うしかありません。

現代は、平安後期から鎌倉、室町、さらに続く戦乱の世よりは、もっと自由であることは確かです。
自由であるがゆえに意識できない自由を意識してみると、案外自分は心の中に広がる自由を忘れていることに気付くかもしれません。

さてさて、義経に情をかけながら、また読み進むことと致しましょう。

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聞かれたことに答えること

2012年03月22日 | 第2章 五感と体感
質問されたことに対しての「自分の答えといえる言葉」を的確に相手に伝えることができてきるでしょうか?

質問する相手が求める「自分の返答」について、私自身もいつも明快明確に出来ているかの自信はありません。

質問する方に問題がある場合もありますが、今回はそれを棚に上げて考えてみます。

自分がいつも気になっていることが頭にグルグルしている場合とか、過去の出来事が原因でどんなことを質問されてもそれが壁となり防衛機制が働いてしまうとか…、つまり自分が何かに囚われていると、相手の質問に対する自分の答えが長ったらしくなり、そのうち何を聞かれているのか解らなくなり、結局自分をとりまく環境の話に移行してしまったりしてしまいます。

自分から湧き出る言葉には意味があります。

なぜ、この言葉が湧き出るのかが意識できていると、段々と自分の中にある何かが整理されていくようです。

質問されたことに対して的確な言葉で簡潔に答えるには、自分の成育史を受容するところから始めることも一つの方法かもしれません。

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傾聴の方法

2012年03月21日 | 第2章 五感と体感
映画シックスセンスやシャッターアイランドは、簡単な表現過ぎるかもしれませんが、カウンセラーにおけるセラピストとクライアントの関係が描かれています。

昨晩は英国王のスピーチを観ました。この映画も教科書にしたいカウンセリングの映画でした。もっと早くに観ておけばよかったと思いながら繰り返し鑑賞してしまいました。もう少し掘り下げて表現するならばカウンセリングの条件とプロセスが理想的であった、ということです。

ここで傾聴する側のおさらいをしてみます。

1傾聴するあなたは、相手に対し「無防備」になっていますか?堅苦しかったり、威圧的だったり、妙に緊張してたりしていませんか?

2傾聴するあなたは、相手の感情に「共感」していますか?共感と同調は違います。感情を理解することであって考え方に賛成することではありません。

3傾聴するあなたは、相手の「思考と感情と行動」をあるがままに受け容れていますか?「受容」していますか?

4傾聴するあなたは、間をおいて、ゆったりと聴いていますか?せっかちに質問したり、「間」が怖い、つまり沈黙の時間が怖くついつい自分から喋っていませんか?

5傾聴するあなたは、相手を理解するための「熱意」が「相手に心地良く」伝わっていますか?

6傾聴するあなたは、人が好きですか?

今日は、以上6つのことを意識しながら広尾の2011年年度最終回の勉強会に臨もうと思います。

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平氏と源氏

2012年03月20日 | 第2章 五感と体感
平重衡(しげひら)は、清盛の五男です。
一の谷の合戦において源氏に捉えられ、鎌倉・頼朝の下で幽閉され、結局、南都の僧にて奈良坂の般若寺で首を切られます。

奈良坂での東大寺や興福寺等、当時の大勢力であった南都衆の怒りは治まらなかったのでしょう。

平家に焼かれた東大寺は、頼朝からも援助を受け再建されます。

そのような経過があるせいか、未だに鎌倉の寺社との関係を深めていることを度々耳にします。

もともと重衡は、出陣の際、奈良の都を焼き打ちする予定はありませんでした。清盛からも大きな争いを避けるよう強く言い渡されていたにも関わらず、家臣たちの勢いが止まらず、とうとう重衡は奈良坂から火の海の奈良を見ることになってしまいます。

平家滅亡の暗雲の暗示と噂されても仕方の無いことです。

大将が家臣の感情の高ぶりを制御出来なかったのも管理ミスといえばそれまでですが、民衆の勢いを考えると、私はいつもイエスキリストの磔刑を思い起こします。
民衆の勢いとうねりは、いつの世も管理者の意図のようにはいかず、制御不能になる傾向があります。

かといって、その制御不能の事態が真理ではないといえば、そうは言い切ることはできません。

真に見える事象は、案外不確かなもので、人が何かのフィルターを通して見えることが、その人自身の真実であったりするのです。
その人が見えるものを、他者が否定したところで、覆すことは難しいことだと思います。

平家の現実吟味力が、世間とかけ離れてきたことを平家自身が気づかなかったところに平家らしさがあったのかもしれません。

先日の大河ドラマ清盛でも、平氏の館で楽を奏でそれをしめやかに聴き惚れる一門、かたやワイルドな坂東武者を次々と味方に付け血縁と家臣を増やしていく義朝の対照的な演出が強調されていました。まさに、そんな感じで平氏と源氏の個性が時の流れと共に形成されていくのです。

重衡最期の現在の般若寺は、コスモスの花畑が美しい花のお寺です。
奈良坂見降ろす東大寺の屋根を眺めると、奈良時代を超え平安時代の戦乱をも想像できます。

着実に事実を重ねていく歴史の出来事は、風土を生みだすだけでなく今を生きる私達の教科書でもあるのです。

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行動の原動力

2012年03月19日 | 第2章 五感と体感
「自分の行動の原動力とは何だろう?」

昨日の日曜日、友人と代官山の蔦屋書店の本に囲まれ、のんびりとあんみつを食みながら、そんな話題となりました。

確かに3月11日以降、皆の口にする言葉に違いがでてきたことを感じます。
その言葉の一つとして、「生き延びなきゃ」という言葉を耳にすることが増えたように思います。

今まで、自分が生きることを何となく環境の中の一人の自分と捉えていたのか、自分が生きることを当たり前と考えていたのか、それともあまり考えていなかったのか、それは人それぞれだと思いますが、ともかく大小の差はありますが不安感がそれぞれの人の中に意識化されたことは、確かな事だと思います。

では、自分の行動の原動力とは何だろう…?

幼い頃から言われ続けてきた親の言葉も大きな影響があるでしょうし、何かの現象が自分に大きな影響を与えることもあるでしょうし、描いた夢が原動力となる場合もあるでしょう。
結婚したり、子供が生まれたり、離婚したり、親と死別したり、嬉しかったり哀しかったりの経験のさ中、自分が選択していく行動の傾向は、いつも何かの力が働いてるはずです。

私の行動の原動力をツラツラ考えてみると、幼い頃から親から言われ続けてきた「あなたは夢見る夢子さん」という母の言葉と、どんなに良い通知表をもらっても「上には上がいる」と言う父の言葉が、いつも混沌と交わりながら私の行動の選択を決定付けているように思います。

夢見る夢子さんは、きっと夢が叶うわよ。。。などと、おだてて育ててくれれば、もしかしたら、と思うわけですが、
夢見る夢子さんは、いつも現実的じゃない。。。と、お説教の原因にもなっていたわけです。もっとおだててくれていたら、私が選んできた人生の岐路は、随分違うのだろうな、とも思ったり…。

でも、そんな育てられ方をしていたら、とっても高飛車で嫌な人になっていたかもしれないし、と思ったり…。

そんな私も、子供を育てながら、やりたいことはやってきているし、大きなストレスを経験しても、何とか這い上がってきました。きっとそれが私が生き延びてきた軌跡なのだと思います。

「生き延びなきゃ」という言葉が口から出てくる人は、きっと生き延びていくのだと信じています。

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口に出す

2012年03月18日 | 第2章 五感と体感
湧き出してきた感情や思った事を口に出すことについて、自分はどうだろう?

相手の立場や状況を想像し、相手への配慮のために口に出すことを憚ることは、とても大事なことです。

思ったこと、感じたことを言いたい相手に言語で伝えることも大事なことです。
でも「自分の心の抑制がどのように成されているか」によって、その言葉の出し方が違うように思います。

言われる側も、いちいち言われる必要の無いことを言われると「カチン!」とくるように、「一言多い」物言いは、相手の心に不快感を持たせます。

相手の状況を空想するのは結構なことだと思いますが、まるで相手の心を掴んでいるかのような確信に満ちた言い方は、避けたほうが良さそうです。

自分が相手に対して確信に満ちた考えが湧くのであれば、相手に対して口に出す前に、自分の抑制する力がどんなふうに働いているのかを、吟味してみると、案外、自分のストレスを相手に転移していることに気付くかもしれません。

自分だって言われたくない言葉をなぜ自分は口に出してしまうのか?

私も反省しつつ、気をつけたいな、、、と思うわけです。

自分の確信は、相手の確信ではないことを忘れてはいけませんね…

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平経正の琵琶

2012年03月17日 | 第2章 五感と体感
京都の御室に仁和寺があります。
仁和寺に纏わる能といえば「経正」。

清盛の弟、経盛の長男です。三男が敦盛。

敦盛は、一の谷の合戦において熊谷次郎直実に首を取られます。
17歳でした。熊谷は、我が子の事と重なり深い罪悪感から後に出家します。

そして、経正も一の谷において自刃し武蔵国児玉党・庄ノ四郎高家によって首を取られます。

大河ドラマにおいても彼らの父となる経盛は、感受性の豊かな優しい弟として演出されています。その子供達も父の血を引き感性豊かに育ちます。(実際にお会いしたわけでもありませんが^^;)

経正は、琵琶の名手でありました。

一の谷の前、北陸出陣の際にも立ち寄った竹生島で仙童という名の琵琶を奏でます。出陣の前に立ち寄る等、部将としてはほってのほかな行為でしょうが、清盛が世をとってから20数年という時の中で、しかと公達としてのアイデンティティが備わっているわけで、戦乱を生き抜いてきた父とは違うわけです。

そして、御室の君「仁和寺の法親王」から幼少の頃から寵愛され、琵琶の名手でもあった彼は、宮から琵琶「青山」を拝領されていました。この青山は北陸出陣の前に御室を訪れ返上したそうです。そして、経正の首は、仁和寺に引き取られ葬られたと云われています。

敦盛の笛、経正の琵琶。

奏でる響きは、如何なるものであったか。仁和寺の境内を歩きながら耳を澄ましましたが想像に至らず、それでも背後に迫る小高い山々をかつては見たであろう古の人を想い、雰囲気を味わうことは微細ながらできたようです。

屋島から出陣した二人の公達の兄弟愛を想うと、八百年を経た時を生きている私の心の中にも奏でる音色が聴こえてきそうです。

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融の塩釜・渉成園 

2012年03月16日 | 第2章 五感と体感
旅の僧が、京都、六条河原院(光源氏のモデルとされている源融の屋敷跡)の廃墟に辿りつき休んでいると、桶(担桶)を担いだ老人がやってきます。

老人に、「何をやっているのか?」と尋ねると、「この場所で汐汲みをしている」と答えます。

旅の僧:「京都のど真ん中で、汐汲みとは?」

老人:「昔、ここは源融(とおる)の屋敷でした。陸奥の塩釜の景色を移し、日毎難波から海水を汲み、この池に注ぎ、塩田の風景を愉しんでおりました」

老人は旅の僧に、その頃の物語を語り、やがて、渚に立ち汐を汲み消え去ってしまいました。

旅の僧は不思議に思い、六条院辺りに住む人に尋ねると、それは、源融の化身だと言われます。

その話を聞き、弔いも兼ね好奇心も湧き立ち、六条河原院の廃墟に泊り、老人の出現を待ちます。

すると、源融が現れ、昔を偲び、名月の下で舞って夜明けと共に消えていきます。

・・・・

これは、能楽の「融」のおおざっぱなあらすじです。

京都駅近く、東本願寺の境内(飛び地)に、六条院があったであろう場所に渉成園があります。

平安の贅沢さは、尋常ではありません。
美しい風景を愛でるために、その場を訪ねるのではなく、写し移すわけです。

拵える側は、場所や調度品に写しの想いを籠め、技術と豊かな表現力が試されます。それを愛でる人の感受性も、現代人の何倍も繊細であったかもしれません。

観たことの無いものを観る。

たぶん、平安の貴人は、それぞれの想いで、これらの風景を観ていたことでしょう。

渉成園で、名月を仰ぎ見、融の舞いを鑑賞してみたいものだと、思いながら、庭園と茶室の佇まいを散歩しました。

川の浅瀬にはシジミが撒かれ、塩釜が何気なく設えられ、桜や藤の季節には、もっともっと華やかな庭園となるでしょうが、人気の無い静かな庭園は、融を想うに相応しく、妄想しながら散歩を楽しみました。

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奈良の春と京都の春

2012年03月15日 | 第2章 五感と体感
奈良、東大寺で行われていた修二会が昨日で終わりました。

修二会が終わると春がやってきます。

仕事を兼ねて京都に行ってましたが、奈良には行けない代わりに、北野天満宮の梅を愛でてきました。
梅の花目当てに訪れる観光客に紛れて、きっと受験のお礼参りの方も多かったのではないでしょうか。

北野天満宮の参道の脇に東向観音寺があります。伴氏(ばんうじ)の塚の横に蜘蛛塚があります。これについて書きだすと少々知識が必要なのでこの程度にしておきますが、能楽愛好者にとっては、興味深々の場所です。

梅の花と土蜘蛛。なんとも奇妙な組み合わせでしたが、ハレとケを一気に体感することのできる京都ならではの面白さを満喫することもできました。

京都に咲く馬酔木(あせび)の花も美しく、奈良の春も感じ取り、充実した二日間となりました。

肝心な仕事は^^;
師匠のテレビ収録は、順調に進んでおります。
これについては、また改めて書かせていただきます。

昨年は修二会の最中に大地震が起こりました。それでも粛々と続けられる年の行事に魂の普遍性を感じました。
今年も粛々と1261回目の修二会を終え、私も心の中の支えのような安心を得ています。
春からの一年をまた大切に生きてゆきたいものです。

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