五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

食べて祈って恋をして

2011年02月28日 | 悔いのない人生とは?


「ルーブルで建築と遊ぶ」

「食べて祈って恋をして」
映画の題名です。

想像通りの映画だろうな、、、と思いつつ、ついつい単純な直訳のタイトルに惹かれ、暮れに機内で見ました。

恋と訳すのは日本人の照れによるものなのか語呂合わせなのか、わたし的には恋より愛かな、と思いながら理屈っぽくなりながらも映画を楽しみました。

食べる
祈る
愛する

これらは、人の欲求である、ということを私は宗教心理学の学問を通して学習しています。

食は食べ過ぎれば、体を壊しますが、食べる欲求は生きている以上、命と直結しています。

祈りは、自然と人の心の底から湧いてくるものです。何かの問題にぶち当たったり、理不尽な現実を受け容れなくてはいけないとき・・・それだけではありません。嬉しい時にも祈る気持は自然と湧き出してきます。

そして、愛。
人から愛されない。誰々から愛されない・・・親から愛してほしい、恋人から愛してほしい、子供から愛してほしい。。。愛されることを求めるよりも、自分がどのくらい愛すべき対象の人を愛しているのかを吟味してみるほうが、自分の核のようなものが見えてくるかもしれません。

食べて、祈って、愛することを思いっきりできたら、どんな状況でもそれを乗り越えることを信じることができるようです。

昨日のミサで、「思い煩うな」という御言葉が響き、ふと、この映画の題名が浮かびました。

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命は尊い

2011年02月27日 | 第2章 五感と体感

[ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ]

生まれてから今日まで、実にいろいろなことが起こります。

先日、ある保険会社の方と話をする機会がありました。自殺する中小経営者が後を絶たたないようです。ここではあえて数字は出しませんが、自殺による保険金支払い率を聞きショックを受けました。

海外のことは解りませんが、自殺による保険金支払いは、ある条件をクリアーすれば可能です。
資金繰りの獲得可能な余地を残す救済策に自己の生死が含まれることに、日本人の死生観が見えてきます。
保険金支払い条件の定款を読むと、用語を回避しながら実に「死を以てお詫びをする」ことを受容しているかのような言い回しが秘められている気がしました。

難しい問題ですが、
自殺は、多くの関係者、多くの親族を深い苦しみ、後悔に陥れていきます。
想像を絶するストレスに飲み込まれます。

「箱」の中に閉じ込められた状態の中で苦しんでいる人に何を言っても聞き入れてもらえないと思います。
でも、
自分は何のために生きているのか?
自分の生き甲斐とは何か?
自分の心と魂と体を大切にしているか?
・・・これらの問いかけを日頃自問自答する習慣をつけていると、何か大きな問題に当たった時、見えてくる答えは「死」ではないと、私は信じています。

その前に、私は私であり、この世に生を受けた唯一の一人の人間である、ことを忘れてはなりません。

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桑田圭祐さんの歌詞と能楽

2011年02月26日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」

昨晩、病気復帰初テレビ出演された桑田圭祐さんを楽しみに拝見しました。

新しいアルバムを購入した息子に便乗し私もこのところ毎日聴いています。

韻を踏む歌詞は、万葉の時代から受け継がれ、同じ言葉でも漢字が変われば別の意味が含まれていくので、表層的に捉えられない意味深な歌となっていきます。

その使い方が最も面白いのが能楽の謡です。
言葉を紡ぐ中、万葉集が出てきたと思えば、いきなり平家物語を拾ってきたり、それを源氏物語に重ねたりして、言葉の表す時空が変わりながらも根底に表現するものは変わらない表現は、日本人独特の表現であるとも思います。

現代の作家に能の戯曲を書いていただくとしたら、桑田圭祐さんに書いていただいたら、面白い新作能ができそうです。

韻を踏み表現する事は世界中でなされていますが、奈良時代から現代の時空をひとっ飛びしながら重ね合わせて行く表現は、知性と教養を素地にしただけではできません。それらを素地にした感性の成せる技だと思います。

観阿弥、世阿弥、金春禅竹の流れから現在を表現する面白さを味わうことも、伝統芸能を守る秘訣かもしれないと感じています。

日本人の持つ感受性は、個性の美です。

個性の美を武器にしながら、生き抜いていきたいものです。

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五感と体感を大切に

2011年02月25日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」

この季節は新たな環境に旅立つシーズンでもあります。

私は私であり、私は私以外の何者でもありません。

「自分の体と心と魂を大切にしているか」ということを心に留め、歩んでほしいと願います。

遠い将来を心配することも大切かもしれませんが、「今ここでの感情」を大切にせずして、次には進んでいきません。
そのためには、「理想的な目標」よりも、自分の体で感じること、心に浮かぶことを正直に感じ取りながら、自分自身を確認してくことが大事なことのようです。

五感:視、聴、匂、触、味・・・これらのことを意識しながら自分の体を大切にしてください。
「人の体は神の神殿」です。

このことを新しい環境に旅立つ友達に、伝えたいな、と思います。

出会いに感謝しています。

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そろそろお水取り

2011年02月24日 | 第2章 五感と体感
「写真・ルーブルで彫刻と遊ぶ」

東大寺二月堂で行われる修二会の季節がやってまいりました。

年に一度のこの行事は、2月28日から14日まで行われます。
昨日は、二月堂にお供えする「のりこぼし」の花ごしらえの日でした。
ブログに毎年書いているように思うのですが、「のりこぼし」は紅白の和紙で作られた椿のことを云います。

二月堂から東大寺大仏本殿裏に繋がる小路を歩くと懐かしい情動が湧きあがってきます。自分にとっての魂の故郷を感じる場所に立つと温かく包まれた安心感を覚えます。

お水取りが近くなると、心が躍り、その場に立ちたくなります。

2週間続く修二会の期間は、夜の松明だけが行われるわけではありません。日中は二月堂に一般人も上がることができます。そこで瞑目し作法、声明に耳を傾けると、一年廻った自分の体と心が浄化していく体感を得ることができます。
キリスト教では、春分の月の満ち欠けによって復活祭の日にちが決まりますが、仏教では日にちが決められています。
同じ季節に同じように自分を悔い改め、新しい自分を迎え入れ、新たに一年を過ごしていきます。
そう言った意味では、修二会と四旬節は同じような目的を思います。

今年の復活祭は4月24日。花まつりは4月8日。復活祭は春分後の満月が過ぎた日曜日です。今年は少々遅めです。

とにかく、
また、ワクワクする季節がやってきました。

今年も大いに反省し、大いに期待し、我が道を歩んでいきたいものです。

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良かれと思う思い込み

2011年02月23日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」

我が子を信じる親の気持ちは、親である私もよく解ります。
そこには「自然に信じていること」と「信じようと努力していること」が混在しています。。

我が子の身の丈を観ることが出来ず、親の理想ばかりが先行し子供を理想と現実のギャップに追い込んでいったり、
自分の親や伴侶との感情転移や投影の対象が我が子であるケースは少なくないように思います。

母親もしくは父親が子供に自分の心の内をなんでも喋っている、としたら、その内容を受け容れるだけの許容量が子供にあるか?ということを、ちょっと、頭の隅に記憶しておくとよいかな、と思います。

子供は親の心の内の解釈の傾向を学習し、学習したものに対する防衛機制を身につけていくようです。

無意識に身につけた防衛機制は、いつしか自分のバランスを保つために、身体症状に出たり、家庭以外でうっぷんを晴らしたり、いろいろな現象として表れてくるように見受けられます。
良い悪いの問題ではなく、自分が生き延びるために必要なものを補い、要らないものは捨てながらバランスを取るようです。私も同じことをしています。

子供と向き合う前に、自分と両親との関係から生まれた自分自身の防衛機制を点検してみると、「良かれと思っていた思い込み」に気付くかもしれません。

「どこまで喋るか、どこまで見せるか、どこまで黙っているか、どこまで見せないか…」
「ほんとうに言いたい事を言っているのか?それとも我慢しているのか?」

学年末をきっかけに、自分の心の点検をしてみる、というのは如何でしょう(^^)/

子供の成長を喜びながら、親である自分自身の成長を楽しみたいものです。

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母親との関係

2011年02月22日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻を愉しむシリーズ」

息子、娘に関わらず、子と母親との関係は密接です。

よく男性を吟味しながら母娘で「あの人はマザコンだ!」と言い合う事をと耳にしますが、言っている本人達の母娘の依存度に関して観察してみると「人のことは言えないんじゃない???」と思うことがしばしばあります。

「グレートマザー」という用語があります。

自分の子供と向き合う前に、自分と母親との関係を今一度点検してみると良いかもしれません。

生まれてから今日まで自分と母親は、どのような関係性で過ごしてきたのでしょう?

母親から、どんな考え方、言動で育てられてきたのでしょう?

母親と自分との愛され方、愛し方は、どうだったのでしょう?

「愛されること愛すること」は、「愛」というひとつの言葉で括られるものではないかもしれません。

自分が愛だと思っていても、我が子には恐怖だったり、悲しみだったりすることもあります。

自分にとっての愛を思い巡らせながら、母親との関係を思い巡らせてみると、自分の「思い込み・概念」が自分を苦しめていることに気付くかもしれません。

昨日の保護者勉強会では、「グレートマザーがテーマ」でした。今回重たい内容の勉強会ができたのも二年間にわたって皆様が参加し思索を重ねてくださったおかげです。一つ一つ重ねていく学びの内容は、一枚一枚自分の襞を捲っていくことでもあるように思います。来月が最終回です。楽しみながら学んでいきましょう!

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成長過程を眺めるのは気持ちいい

2011年02月20日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻を愉しむシリーズ」

我が子の成長を見守る余裕がある人は、よほど心に余裕がある方かもしれません。
特に、第一子を育てていくには体験したことによる安心感もないので、予測も立たなければ、術も見つからないケースを体験した人は少なくないと思います。

自分で体験しない限り、体験したことにはならないのが、「生きていく大変さ」ともいえそうです。

昨日は、私が趣味で3年前に始めた能の発表会でした。わけも分からないまま舞台に立つこと5回。
能舞台を踏み、そこで謡い仕舞うことは、できるできないの問題ではなく、自分のアイデンティティの統合にとても役に立っています。
歴史ある文化が明らかに自分の体内にも宿り継承されていることを自分の体が教えてくれます。

自分のことはさておき、昨日の舞台では2人子供が舞いました。彼らは私と同じくらいのキャリアです。子供は子供なりの仕舞いを教える、と師匠はおっしゃいますが、子供の吸収力は目覚ましく、メリハリの利いた美しい舞いを堪能させていただきました。明らかに今までとは違う子供たちの舞いは、確かに何かに気付き掴んだ感触が表れていました。

稽古事を始めることは、本人の湧き上がる情動によるものもあれば、に勧められて始めるものもあります。
どちらにせよ、自分の内側から意識して湧き上がる習得力が、どんどん成長に繋がっていくように思います。これは大人も子供も関係ありませんね!

他者の成長は自分の成長よりも見えやすいものです。

子供達の「自らの成長」を見守る喜びが私の喜びであることは、どうも本物らしい・・・ということにしみじみと気付かされた一日でもありました。

喜びを繋ぐ役割を果たしていきたいものです。

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自分を許す時間の確保

2011年02月19日 | 第2章 五感と体感


「写真:ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」

わかっちゃいるけど、体が動かない
そうなんです。充分わかっているんです。やるべきことは。

でも、体が動かないのです。

体が動かない自分を無理に動かさなくてはならない、、、と思うと、ますます動けない自分を諌めていきます。


動かない自分を許すには、どうしたらよいのでしょう。


今、ここでの自分自身の感情は見えてくるでしょうか?


自分の感情を見据えるには時間がかかるかもしれません。


誰かに促されることなく、せき立てられることなく、一人で静かに静かに見つめる時間を作ることはできるでしょうか?

自分の時間は自分の意志で作るしかないようです。
頑張ることと、意志を持つことは、違うと思います。
まずは、自分だけに留まる時間を確保することから始めることが必要かもしれません。

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健全な批判

2011年02月18日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻と遊ぶのは愉しい」

私自身が中学生、高校生の頃、理不尽な事柄や自己の解釈に私が違和感を感じる先生に対する批判は、結構意識に上げてぶちまけていた方です。高校生になると、段々と自分の方向性が見え始め、自分と他者を客観的に分けて考えられるようになってきました。そんなわけで、批判的な思いから湧きあがる感情は、だんだんと治まり、どうでもいいことになってきたように思います。
クラスメートの誰よりも世間を知っているかのような思いから、徐々に焦燥感とか孤独感へと変化していきました。
かといって、すべてが悲しくて、つまらないわけではありません。
嬉しい感情、楽しい感情も大揺れに揺れながら思いっきり体感した時期でもあります。

家庭生活という固定された環境の中で育まれた個性は、学校という新たに設置された家庭とは別の固定された環境に通う事で、何か自分の中で統合を図ろうとしていくようです。

統合を図ろうとする意志は、意識的、無意識的、双方に起こることです。特に無意識に起こる意志及び意思は、自己の統合するためのバランスを図っていくようです。

統合、つまり「理想と現実のギャップを縮める力」は、人が本来持ち備えているホメオスターシス(自然治癒力)が働いているので、必ずあるはずです。

こんな先生だったらいいのに・・・
こんな学校だったらいいのに・・・
この授業はサイテイ!
こういうタイプは大嫌い~!

このような批判は、決して不健全な批判ではないと思います。
健全な批判だと思います。

心のストレスをため込みすぎると、批判する力が欠けていくようです。批判力が低下すると、自分に起こったストレスをナントカしていこうとする思いにも欠けていくようにも思います。
批判することを飛び越して、他者に八つ当たりしたり、物を壊したり、暴力したりして、自分でも自分の情動と行為を止めることが出来なることにも繋がるように思います。

大いに怒って、大いに文句タラタラ、、、良いじゃないですか。
自分の「こうありたい姿」が見えている証拠です。
「文句タラタラ」の話を、否定も肯定もせず、そのまま傾聴し続けるとそのうち、本人に軌道修正のための統合する意志が起っていくようです。

答えは自分の内にあるのですから。
人は死にゆく瞬間まで成長し続けるそうです。

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自己受容

2011年02月16日 | 第2章 五感と体感



振り子の感情、湧き出す感情の傾向について思うに、私自身激しい方だと思います。
でも、訓練していくと徐々に自分が「今」感じている感情を意識化しやすくなってきます。

「好き」

「嫌い」

そこから感じる、自分の感情をさらに意識化してみると、そこに潜んでいる不安感が、なんとなく見えてくるのです。

見えてきても、意識が通り過ぎる場合もあります。
見えてきても、肯定できない場合もあります。
そんな時は、受け容れられない自分を温かく包んで欲しい、と願います。

「受け容れられない自分を受け容れること」は、自己受容の一歩だと思います。

焦らず、ゆっくりと・・・

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二十四節季の雨水

2011年02月15日 | 第2章 五感と体感
 ミモザ

今週の19日は、二十四節季の雨水です。

地球温暖化と言っても、何故かいにしえのまま季節が過ぎて行きます。

ちなみに、
1月6日小寒 1月20日大寒
2月4日立春 2月19日雨水 
3月6日啓蟄 3月21日春分 
4月5日清明 4月20日穀雨 
5月6日立夏 5月21日小満 
6月6日芒種 6月22日夏至 
7月7日小暑 7月28日大暑 
8月8月立秋 8月23日処暑 
9月8日白露 9月23日立秋
10月9日寒露 10月24日霜降 
11月8日立冬 11月23日小雪 
12月7日大雪 12月22日冬至

さらに、七十二候があります。

季節の変化を暦で確認していくと、心と体の変化が季節と比例して関係し合っていることに気付きます。
自然と共に生きている自分の体を知ると、安心感、安定感を感じるのです。

今日から2011年四ツ谷勉強会の始まりです。
今日は、こんな話題から始まる予定です。

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孤独の淵からどうするか

2011年02月14日 | 第2章 五感と体感

「ルーブル美術館で彫刻三昧。腕に注目…」

ふと気付いた時に、世間から遠ざかり「私は独りぼっちだ」という思いに駆られ、自分自身を孤独の淵に追いやっていく経験が無い。。。と、言い切れる人は、居ないと思います。
「私には孤独感が無い、と言い切れる人」が身近に居たとしたら、私はきっとかなりの距離を置いて付き合うと思います。

今、孤独感の真っただ中に居る人もいるでしょうし、
過去の自分を思い出す人もいるでしょう。

私自身、成育史の中から生まれる慢性的な孤独感、周期的に落ち込む孤独感、何かが原因で単発的に起こる孤独感等、常に何らかの孤独感に苛まれながら生きてきました。いやいや、今現在も「孤独感」は進行中です。

孤独感が自然に消えていくこともあれば、何かに気付いて昇華された孤独感もあります。
ただ、誰かをあてにしたり、社会のことを憂いだままにしていては、多分、孤独感を処理することはできないようです。

腹を据え、私はどう生きたいのか?

と、本気で思った時、自分の内のどこからか、孤独感を武器に自分のすべき行動が見えてくるように思います。

「今の自分の孤独感をどう解釈したいか、または、どう解釈しているか」
この点検を、自分自身でしてみると、「私はどう生きたいのか」の自問自答が孤独の淵から自分自身を救っていくようです。

自分の体と心と魂は、他人のものではないのですから・・・

孤独がなければ、平安感も生まれないはずです。

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縁は有るもの

2011年02月13日 | 第2章 五感と体感

「ルーブル美術館で出会った天使」

「無縁」
最近はびこる「無縁社会」という言葉は、メディアが作った新概念の造語です。

もともと人は孤独です。
孤独ですが、縁は必ず有るのです。

縁によって人と人が繋がり、物事と物事が繋がり、世の中の関係性が生まれてきます。
「繋がっていくこと」は、良くも悪くも、己の個性が、己自身育んでいくものなのだと思います。

無縁と思う「縁」の概念を信じれば、無縁でしょうが、無縁によって悲しく孤独になるのだとすれば、「縁を断ち切る修行者」にとって、大変失礼な言い方になっていきます。

「無縁によって、自分をどう生かしていくか」

自ずから縁を生み出していることを忘れてはいけないな、とつらつら思います。

縁は有るものです。

「人は思った通りの人になる」
ヒンドゥーの教えが頭によぎるこの頃です。

メディアの造語に翻弄されませんように祈ります・・・

「自分は孤独である」と思った時、その孤独と向き合う時期は、今後生き抜くための素晴らしいお恵みである、という概念を忘れないでいたいものです。

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不器用なのか器用なのか

2011年02月12日 | 第2章 五感と体感

「サンジェルマン・デ・プレ教会前の屋台でであったマトリョーシカ達」

国内旅行にしても、海外旅行にしても、田舎の小さな村の集落を通ると、「何を生業にしていきているのだろう・・・・?」という疑問がぼんやりと頭に浮かんできます。

中学や高校の時に、自分の進む道を決められる人は稀だと思います。

自分が何を「生業(なりわい)」にして生きて行くのか・・・

これは、個人個人にとって、まさに大きなテーマです。

昨晩、テレビをダラダラと見ていたら、パリから車で40分くらいの村に住んでいる野菜作りの名人が登場しました。
「ふぅーん、」と思って見続けていると。。。。

その名人は、もともと盆栽職人だったようですが、今ではフランスの三ツ星レストランのシェフ達を世界で一番待たせている方といっても過言ではないそうです。
日本人が、フランスで日本の野菜を作り、宝石のような野菜を作っているのです。

ビニールハウスには、大事に育てられた蕪が20個たらず。

「これじゃぁ~~、シェフ達を待たせるわけだ・・・」

未だに、生業という言葉に憧れつつも、一つに納まりきれない自分が不器用なのか?信念の中で一つのことに集中して生業を立てていることを不器用というのか? 
考えたことろで答えは見つかりません。

そもそも、何を以て器用な生き方、というのかは解りませんが、自分の人生の過程での発見、出会い、出合いを受け容れるタイミングが、個人の人生をいかようにも変容させていくのだと思います。

「どんな生き方をしたいのか?」

器用だろうが不器用だろうが、自分はどんな生き方きたいのか?

この問いかけを、自分に問いかける事は、悔いの無い人生に繋がっていくようにも思います。

三ツ星シェフに愛される野菜を作る生き方に、改めて自分の生き方を考えてみると、自分はこんなことしか出来ないけれど、ま、、、悔いはないか、、、と、

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