五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

絵を観て感じる

2007年03月28日 | 第2章 五感と体感
10年ほど前に、東海大学の水族館、三保の松原、そして御前崎灯台をイチゴ狩りしながら旅しました。

台風中継で、「御前崎を通過しました」という言葉が気になり、御前崎とはどんな場所なのかこの目で確かめたく、その思いを果たす旅でもあり、ねむの木学園の美術館も目的の一つでした。
今、経済新聞の「私の履歴書」にねむの木学園の宮城まりこさんが掲載中です。

現在、私は、絵画鑑賞療法のワークショップを展開しています。1枚の絵を眺めながら湧き出す感情を語り合うことで、自分自身の五感と体感を意識化していくのです。
同じ絵を鑑賞しても、参加者の方々は、それぞれ違った見方をされます。

絵画は、目を使いますが、実際に見えるものを観ることで、その奥に潜む様々なものが心を通して見えてくるのです。

それは、過去の体験であったり、理想であったり、楽しい思い出であったりで、見えてきたものを語り合い出すと、まさにその人の人生そのものがみえてくるのです。

ねむの木学園の子供たちの絵が飾られた美術館は、私がアートセラピーに興味を持ったきっかけでもありました。
一つの作品を仕上げるための一所懸命さ。そして、一人一人の個性の美しさ。発想の豊かさ。五感の豊かさ。
絵を描くことで表現できる心を、見事に表わしているように感じました。
学園での純粋で、真摯な生活が絵から滲み出て、しかも子供たちは、まり子先生が大好きなのです。大好きだから、大好きな人を一所懸命に描く・・・。

愛されたら、愛で答え、還元し、私達来館者にまで還元された愛を感じ取ることができるのです。飾りたてた美しさではなく、魂から湧き上がる普遍的な愛が、そこにありました。

ねむの木学園で求めた作品集は、未だ私の愛蔵書です。
喜怒哀楽の感情がフィルターをつけずダイレクトに伝わってくるこれらの絵は、時々、天邪鬼になる私の心の処方箋となっています。

またいつか伺わせてください。

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柳の新芽

2007年03月24日 | 第2章 五感と体感
暖冬のせいか、今年のお正月頃にようやく柳の葉が全て落ち、枝垂れた葉の無い枝に安堵感を持ちました。

この2、3日桜の開花便りが方々から届き、横浜の我が家の近所はまだ咲かず、早過ぎる開花といっても、なんとなく気を揉んでいました。
今日も買い物がてら、公園まで出向き、まだ桜が咲いていない事を確認してきました。
多分明日、明後日には必ず咲くでしょう。蕾がパンパンに膨らんでいて、お日様の日差しがちょっと強めに蕾を突付いたら、きっと一気に咲くことでしょう。

今年は桜の話題が早くから取り上げられ、毎年の私のお楽しみである柳の新芽を意識するのが少々遅かったようです。
公園の柳は、既に若々しい黄緑色の葉っぱで覆われ、ほわほわとした柔らかい色を風に任せて、緩んだ春の空気を愉しんでいるように見えました。

このほわほわとした黄緑色は、私にとっては、桜よりも先に見るべきもので、そこから徐々にお花見のシーズンへと向ってゆくのが、正しい私の春の順序だと、改めて思いました。今日、その柳の新芽で、とろ~りととろける柔らかさを味わうことができ、小さな幸せを頂きたような気分です。

これで、悔いなく桜の花を愉しむことができそうです。

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選択しながらの人生

2007年03月21日 | 第1章 意識と知覚
「今までにどのくらいの数の選択を経験してきただろう。」

買い物の帰り道、こちらの路から帰るか、あちらの路から帰るか。

この学校にするか、あの学校にするか。

この人と結婚するか、しないか。

この仕事を引き受けるか、それとも断るか。

表具の裂地の組み合わせに何を選ぶか。

昼食をカレーにするか、ラーメンにするか。

Aさんと会話をするか、Bさんと会話をするか。等。。。

細かいことを思い浮かべると、実に無数の色々な選択をしながら生きていることに気付きます。
最近、これらの選択をする際に、「これを選んだ場合と、あれを選んだ場合、ほんの少しの差であっても、人生に大きな違いが出てくるかもしれない。でも、今、私が最善と思ってこれを選んだのだから悔いは無い!」大げさかもしれませんが、そんなことをついつい頭に巡らします。

なぜそうなったかは、私のここ数年立て続けに経験した身近な人の死が原因していることは確かなようです。

私の場合、最終的に直感が私の選択行為を支配し、理屈は後からついてくる場合が多いように思います。
悩みに悩んでも、結局は自分の第一印象と直感で判断しているようですし・・・。
でも、この直感は、決して他人と入れ替えることが出来ない「私という個性」が下した判断です。自分の選択を信じると、次の選択が必ず見えてきます。
これも生き抜く力。

どんな人生を歩みたいか、思い描き、

どんな人生を歩みたいか、言葉にして、

思い描き、言葉にしたことを実行する。

「悩みながらも、自分にとって最善の選択をして、悔い無き人生を送りたい。」と小さな決意を新たにした春分の日です。

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生き抜くこと

2007年03月18日 | 第3章 無意識の世界
今日、一駅だけ目の見えないAさんと時間を共にしました。
私の腕に自分の身体を委ねるAさんから生き抜く美しさを頂きました。
人を信じることは、こんな小さな出来事から始まります。

幼い頃から、黙って大人の横に座り、静かに会話に耳を傾ける傾向があった私は、大人になってもその傾向が抜けず、実に多くの人々の生き抜いて来た話を聞いてきました。

「自分はどうやってここまで生き延びて来たか」
この内容を人によっては、親族に耳にたこが出来るほど聞かせる方もいるでしょうが、これは、話して確認したい本人の情動の強さなんだと思っています。

釧路湿原の風景絵を描くことで、シベリアの抑留時代を想い返している方がいました。かつて中国で諜報員として活躍した方です。彼は何十年も同じ風景を描き続け亡くなっていきました。中国に潜入してた頃、あるパーティで自分の目の前に「ドン」と日本酒が置かれたことがあったそうです。瞬時に覚悟したそうですが、動揺を見せず切り抜けたそうです。その話しを家族に話したかどうかわかりませんが、私はNOだと思っています。
単調な色使いに、淡々と描く湿原は、私の心にいつも寂しく写り、いつしかSさん本人に興味を抱くようになりました。私の祖父から絵を学び、公募展が開かれると必ずSさんのいらっしゃる日に伺い、控え室で、Sさんがタバコを燻らすのを黙って眺めます。

いつしか、とつとつと話しをしてくださるようになりました。

生き抜いてきた話を聞くことは、尊い命を守り抜いてきたその人の精神を見ることに通じます。

東欧のある国の思想がいくつかに分かれ、そこで生き抜けないと覚悟したKさんは、高熱をおしてドロミテ渓谷を越え、イタリアに逃げた経験を持っています。
生死に関わる緊迫した状態で見た渓谷は、望みの無い苦しみではなく歓びの美しい風景だった、とおっしゃいました。

その語りから「信念は、信じることから生まれるし、信じることは信念を生む。」と肌で感じました。

美しい、という概念は人それぞれです。

私が真から美しいと感じるのは、生き抜こうとする人の姿です。
どんなかたちでも生き抜く事を優先すると、扉が見えてくるようです。

取っ手を握り、扉を開ける歓びを私は生涯何度体験できるでしょうか。

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紙の衣・お水取り

2007年03月16日 | 第2章 五感と体感
お水取りが終わり、春がやってきました。

奈良の旅は、まだまだ私の心を捉えて放しません。

お水取り(修ニ会・しゅにえ)の練行衆(お坊様)が身につける衣は、紙なのです。
紙衣絞り(かみこしぼり)といって、和紙を棒に巻いて、寒天の汁を絞り、それを40枚ほど張り合わせ、それに木綿の裏地をつけて衣にします。
少々肩がこるそうですが、温かいそうです。

その紙衣を国立博物館で実物を見、幸運なことに、二月堂内で行なわれる昼間の修行でお坊様が着ている姿を拝見する事が出来ました。

紙衣(かみこ)は、清浄な着物とされているそうです。

表装を通して、避けては通れないのは、紙とのお付き合いです。
手漉きの薄い和紙は扱いが手ごわく、水で濡らして裏打をする際に、少しでもバランスの悪い持ち方をすると、すぐに裂けてしまいます。でも、一旦、手なずけてしまうとこんな丈夫なものはありません。

一昔前の掛け軸は、紙は大変貴重なものであったので、細かい紙を重ね、本紙(作品)の裏打をしたそうです。1200年前、紙は今を生きる私達には想像もつかないくらいの貴重な素材だったことでしょう。それを衣にするのですから、そんな神々しいことはありません。

二月堂から東大寺の裏手にある講堂跡は、いつ歩いても懐かしく、心の奥深くから歓びが湧き上がります。東大寺の境内の中で一番好きな場所です。

かつて、鑑真和尚も空海も、ここを歩き、聖武天皇、そして景教を信じていたといわれる光明皇后が東大寺を建立しました。
あらゆる宗教や学問、律法を学ぶ場としてこの東大寺は、日本人のアイデンティティを築きあげてきたように思います
神聖なものを尊び、多様性を受け容れながら、個性を作り上げてきた日本の歴史は素晴らしいものです。

紙衣の知恵を知ることから美しい国が見えてくるように思います。

知ることを恐れない人でありたい。そんなことを思いつつ、春の訪れに感謝。


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お水取りの松明

2007年03月12日 | 第3章 無意識の世界
関西の人々は、「お水取りが終わると春が来る」と口々に云います。
いつかはその時期に訪れたいと思い続け、ようやく念願が叶いました。

3月1日から2週間続く本行。正確には修ニ会(しゅにえ)と云います。
人の持つ「むさぼり、怒り、愚痴」の三毒によっての様々な罪を懺悔し、清浄な身心を得ることによって、災いを取り除き幸福を招くための行です。
簡単に云いますと、「人々の幸福を願う行事がお水取り」なのです。

10日、小雨がぱらつく中、東大寺の二月堂前で19時から始まる松明(たいまつ)の行を1時間ほど待ちました。
数時間前から火の粉を浴びる位置を陣取り日が暮れるのを待つ人、二月堂を遠めに眺め雑踏から離れて眺める人、それぞれです。
私たちは是非近くで見たいと願い、二月堂を間近に見上げることの出来る場所を確保することができました。始まる30分前には身動きが出来なるくらいの混雑ぶりです。
そうはいっても、松明を待つ大勢の人に苛立ちは無く、静かに時を待つ。そんな感じです。

いよいよ、
夕暮れが闇に変わり、七時の梵鐘とともに、お堂の明かりがいっせいに消されます。
皆息を殺して、音を待ちます。

暫くたつと、長い竹の枝の松明を持った練行衆が一人階段を駆け昇る音が聞こえてきました。そしてその松明を掲げ二月堂の角に立ちます。そこで燃える炎を安定させるように松明をゆすります。すると火の粉が大きく散ります。

大きなどよめき。大きな歓声。

「揺れる大きな炎は、魂で、生命の源だ」
初めて目の当たりにする松明の炎に、そういう想いが湧き上がりました。

「火は、生命の躍動を投影するもので、私の命もこのように躍動しているのかもしれない。」

意識せずして涙が流れ落ちていることに気付きました。
炎が舞い上がり、火の粉が大きく散る毎に、ため息と感嘆がどよめきとなり、人の声の渦となるのです。

自己と炎の姿を重ね合わせると、瞬間のうちに溜めた心を浄化されていくように感じます。不思議な浄化作用です。

松明の炎。
もう少し、思い巡らし、静かに自分を見つめたい、今はそんな想いです。


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うぐいす鳴きました

2007年03月08日 | 第2章 五感と体感
私の住んでいる街は、駅から数分の平凡な住宅地です。
この住宅地は山の尾根と谷戸の路沿いから広がっていき、今では山の北側傾斜にも無駄なく家が建ち並んでいます。私は10数年前に移り住んできた小さな家の新参者です。
住み始めた頃から比べても、大きな変化はないのですが、古い住宅が世代交代で分割で売られ、広いお庭のある家が残念なことに少なくなってきました。
そうはいっても、ツツジが咲き終わる頃と夏の終わりの頃、そして年末に庭師を入れて、庭を整えるお宅がちらほらとあり、そんな風情が心地良く、立ち止まっては庭師の手さばきを眺めることが私のささやかな愉しみの一こまです。

住み始めた頃に、我が家の庭を狸の親子が通ったこともあります。数年前にはハクビシンも。この数年で、狸やハクビシンがひっそりと暮らせるような小さなお山はいつのまにかなくなってしまい、近所の大木のあるお宅も造成され八軒ほどの家が建つ気配です。
そんなわけで、春になり里におりてくるうぐいすは諦めていました。

ところが、です。
本日、ベランダに出て、洗濯物を干していたら、聞こえる聞える!
紛れもなくうぐいすの鳴き声です。

私の初聴きなのか、うぐいすの初鳴きなのか、それはわかりませんが、
「ホーキョケキョケ、キョケキョケ~♪」
歌い方が、なんとなくこんがらがっている感じに聴こえるのですが、それもご愛嬌で、なんとも可愛らしいのです。

啓蟄も過ぎ、土の虫たちもそろそろ顔を出すころ。
鳥や昆虫が賑やかしく活動を始める準備に取り掛かっているようです。

花粉も飛び、憂鬱な方も多いでしょうが、春の日差しに耳を傾けると、うぐいすさんの歌声が聴こえてくるかもしれません。

おたのしみに。
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感情は川の流れのよう

2007年03月05日 | 第9章 愛
16歳の頃、三島由紀夫の「花ざかりの森」を読みました。
偶然ではありますが、この「花ざかりの森」は三島由紀夫が16歳の頃に書いたものだと記憶しています。
私は、短編小説を読んだときにふと、「いつか私も自分の幼い頃に経験したことを書き綴る機会を得るだろう」という思いが頭によぎったのです。
その機会が訪れたら、必ずこの「花ざかりの森」の一節、「憧れとは川のようなものである」を引用しよう、と心に決めていました。

そのころ、インターネットなどという便利なものはなく、ラジオを聞き、好きな音楽を聴き、本を読み、想像を巡らせて自分の好きな世界を楽しんでいました。
こんなに簡単に自分の想いを綴り、不特定多数の人々に発信するなどという時代になるとは思ってもみませんでした。

この「憧れとは川のようなものである」というくだりが、未熟ではあっても、それなりに色々な経験を積み、子育てと共にカリタス カウンセリングの学びに出合った私にピタリと繋がったのです。

日々起る出来事、そして、朝目が覚めてから眠りにつくまでの時間、私たちは様々な感情で暮らしています。毎日同じ太陽を見ても、空を見ても昨日とは違った心の風景に出合います。
私が見ている川は、数分前に見た川とは違うのです。川という風景は同じでも流れている水は違う。。。その上、気分だけでなく、解釈によっても違ってくるのです。

川は身体。
流れる水は、感情。

他人の心は変えられませんが、自分はいかようにもなります。これは、そのことに気付いた人にだけ与えられる贈り物のように思います。

五感を磨き、身体で感じる本音の体感を大切にしながら、益々学びを深めてゆきたいと思います。

このブログを読んでくださる方々、そして講座で 長年学びを共にしているメンバー、そして四月から新しく加わるメンバーの方々と一層学び深めることができたら幸いです。

この繋がりを大切に、もっともっと心の風景を顕わにしていきたいものです。


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托鉢のお椀

2007年03月02日 | 第2章 五感と体感
幼い頃、福井に住んでいたせいか、虚無僧が椀をもち托鉢する姿をよく見かけました。
時々、玄関先にやってきて、母がお金をその椀に入れると、お経を唱えてくださるのです。

怖いような、謙虚なような、そんな感じを受けながらも、幼い私が、男臭さを感じたのを覚えています。

この托鉢のお椀は、応量器とも持鉢とも云われ、漆塗りのものです。通常は黒い色で外側の大きなお椀の中に幾つかの椀がすっぽりと重なり、布に包んで自身の食器として使うのです。管理は全て持ち主がします。
お坊さんが托鉢して持ち歩くお椀は、一番外側の大きなもので、しかもそのお椀でご飯を頂くのです。揃いのお椀に肉類はご法度です。

私が仕事で留守をする時以外、我が家の男衆はご飯を頂くだけで、なーんにもしないのです。私が居ると、私が食事の支度、後片付けをして当たり前だと本当に思っているのです。

そこで閃きました。

「この応量器を、一人づつに与え、自分で頂いた食器は全て自分で洗い、布に包んで自己管理をする。週末の一日だけでもそれをする。禅の修業と自立の精神に繋がるし、お父さんのメタボリックにも効果ありそう!」我ながら良いアイディアだ!と思い、男衆に発案すると、誰も乗ってきません。

私も負けてはいられませんので、インターネットで検索して、値段比べを始めました。これが結構高価なのです。高いもので1セット、4万円台、安いものでも2万5千円くらい。3人家族なので×3で、10万円前後。
すると、今まで食後のまどろみと、見たいテレビを愉しんでいた息子が、「まずは、1セットだけ買ってみて、それを家族全員で使えばいいんじゃない~。」との発案。
でも、それでは、意味が無いのです。私の目的は、一人一人の自己管理。
危うく、息子の案に乗っかりそうになりましたが、ここで我慢我慢。

どうしても一人1セットが条件です。

応量器貯金を始めることから、始めよう。
まだまだ、先が長そうです。
目指せ、実行。我が家の自立支援活動。

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