五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

久しぶりに表装の話

2007年10月31日 | 第9章 愛
掛け軸をあと1ヶ月で作らなくてはなりません。
もたもたしていたので、かなり焦る気持ちと創作意欲が湧き出てきました。

いま、仕立てようとしているのは、お茶席の床に飾る茶掛けです。
夏にたまたま出会った古裂屋さんから、インドネシアの古いバティック(染め布)を購入した折、「栄染め」という岩料の染物のはぎれを頂きました。
そのはぎれを、時折デレデレと眺め、夏が過ぎ、秋も深まりつつあります。

今回は、それを今私のお気に入りの和紙である名塩和紙を台紙にして張り込もうかと考えています。

栄染めは、今は無いそうですが大阪で行なわれていた染めの技法らしく、名塩和紙も兵庫。なんとなく関西の香りをイメージしながら、きりっとした掛け軸を作りたいと、裂地の色合いの想像を膨らませています。

小さなはぎれから生まれる、無限の宇宙。
夏の出合いから早いもので3ヶ月。
ようやく、かたちになろうとしています。
というか、かたちにしようとしています。

いつも余裕をもって表装の作業に入りたいのですが、気分を高めていくことは、どうも自然に任せるしかないようです。
「~せねばならない・・・」で始めてもろくなことになりません。

自然に任せ、時が満ちると、どんどんイメージが降りてくるのですが、表装モードに鍵がかかっていると全くやる気が起りません。

こんな仕事のし方をしているわけですから、「霞を食う」といわれても仕方ありませんが。
言い訳は、これ以上書けないので、ブログアップし終えたら、作業開始です。

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インドで私も考えた

2007年10月27日 | 第2章 五感と体感
インドのガンジス川のほとりで「ヨガ」を体験するために一人の女優さんが旅をする番組を見ました。

私がインドに行ったのは、なんと25年前。
1ヶ月半、リュックを背負い、気ままに旅をしました。

最近ではインド式計算法、(昔からニューヨークのキオスクにはインド人の店員さんが多く、不思議に思っていましたが、なるほど、計算が早いからなんだ、と最近になってようやく納得。)、そして、ヨガも大ブームになっています。

ヨガマットを持ち、私もやりたいところなのですが、人には言えないくらい体が固く、習いに行く以前の問題で阻まれています。
インドは50年経っても何も変わらない悠久の国。。。と云われていたのですが、最近のITの活躍。経済も発展し、女性の活躍も著しいようです。
ここ3,4年インドでも流行り出したヨガによる健康法。デリーの公園に朝から男性も女性も色々なヨガグループがあり、それぞれ楽しんでいる姿がテレビに映っていました。

こんな風景、25年前にはありませんでした。
女性がヨガマット敷いて公園でクネクネしているなんて・・・。

そうはいっても、ヨガはヒンドゥの教えそのもの。
心と体を呼吸によって繋いでいきます。その繋ぐものが、日本語で「呼吸」=「魂」ヒンドゥ語で「プラーマ-」、と言います。
体と心は呼吸によって生かされます。

番組の最後にヨガを広めたアシュラムのグル(師)が、病床にも関わらずテレビに出ていました。
ベットに横たわった95歳のグルは、衰えた肉体からは想像もできないくらい太くしっかりとした口調で女優さんに言いました。
「あなたは日の上る国からきました。そしてインドで日は沈みます。日本人は古来から太陽を拝んできました。だから太陽礼拝のヨガをおやりなさい」と。

私は、なんだか自分に云われたような気分になりました。
古来から大切にしていた風習、習慣、祈り、大きなことを始めようとするより、自分に与えられたものに満足し、慈しみ、畏怖をもち、謙遜になること。言葉では簡単に書けますが、そんな自分は程遠い。。。でも、それが、本当の人の強さかもしれないのです。

久しぶりに、浄化作用のある番組を見させていただきました。NHKさんに感謝。

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自分と自分

2007年10月25日 | 第2章 五感と体感
ブログという一定の表現でお付き合いさせて頂いている方には、どうも私が生真面目な人と思われているようです。

多分、ブログのイメージを持ちながら私に会った方は、私という印象を混同するかもしれません。

人の見え方、というのはそういうもののようです。

ある人にとっては「名前を出されるだけでも嫌悪感を感じる」
また、ある人にとっては、「あんな優しく親切な人は、なかなかいません」
大げさに言えば、そのくらい人の見え方に違いがあるかもしれません。

自分と自分が向き合っても同じことがいえるのです。

生まれてから今に至るまでの私は、持って生まれた遺伝的なもの、そして時間とともに成長し大人になり、環境もいろいろ変化します。そんな中で自分という「個」が生かされ学習されていきます。

思い出すのも恥ずかしい、と思う時期。
二度と味わえないと思えるくらいの素晴らしい経験。
喜びと悲しみの繰り返し。

言葉では簡単に「大人」と表わしますが、実は大人などというものは存在せず、不確かな自分の在り様を常に維持し、喜怒哀楽を経験しながら天国へと旅立ってゆくのが「ひと」なのではないかと、しみじみ思うのです・

どれもこれも、自分の体が体験した尊い経験。
思考と感情と行動。
それらに、「個性の美」という名前をつけて、ひとつひとつ大切にしてみるのは如何でしょう。

自分が持つ、たくさんの感情。

それはどれも自分のもの。
人が何と言おうと、自分のもの。
大切に受け容れてゆきたいものです。


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学び時

2007年10月22日 | 第2章 五感と体感
カウンセリングの学びは、宗教学、比較宗教学、文化人類学、民族学、生物学、宇宙物理学などなど、言葉は固いですが、ありとあらゆる学問に関係しています。
「知る」、という作業は、人を受け容れる、自分を受け容れることに繋がっていくようです。

今更ながら、と言いたいところなのですが、私自身今が一番学び時かな、と思っています。

先日から読み出した本は、奈良時代を中心とした歴史と人間模様を描いたものです。
夢中になっています。

今と違い、結婚制度も乱れているし、争いのし方もストレートだし、なにより、私が大人だと思っている年齢よりもはるかに若い人が「大人」として登場するのです。
幼い頃から婚姻関係を結んだり、まつりごとを司る中心人物になったり・・・。
15才となれば立派な大人です。

読んではじめて「ふぅーん、そうなんだ」と納得したり、歴史上の人物のの相関図や系図を眺めて、今まで繋がっていなかった事が急に繋がったり。。。

こんなことを高校生の頃に納得できたとしたらきっとその人は特別才能を持った人でしょう。(負け惜しみかな?)

それにしても、古典の読み方をもう少しまじめに学んでおけば良かった。。。と、反省しきり。
ともかく当分の間、万葉集の解説書と歴代天皇の系図は手放せそうもありません。

学び時。
それが、いつ自分に起るか、わかりませんね。
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愛こそすべて

2007年10月20日 | 第9章 愛
この数日間、周囲から温かさを頂いています。

人は生まれてから一人では生きてこれません。
家族だけでなく、周囲の人々の温かい愛情を受けながら、育っているはずなのです。

たいてい自分が何かを決意した時に、自分が受けたその愛情を改めて感じたりするもののようです。

志し半ばであったり、苦しい状態の時は、自分を生かしていく事で必死です。
でも、そこに兆しがあらわれたとき、急に、自分を取り巻く周囲が見えてきたりするのです。

「こんなに多くの人々が見守っていてくれていたんだ、」
そう思うと、胸が熱くなります。

「自己実現」という言葉があります。
それは、事業の大きな目標や、売上アップ、自己啓発ばかりに使う言葉ではなく、自分が生きていく上での大小関わらず、目標設定に使うものです。

今日の夕食は何にしようか。
明日は何を着ようか。

どんな人になりたいか。
どんな職業につきたいか。

そして、自分自身どう在りたいか。

大げさに言えば、一瞬、一日、いろいろな自己実現を果たしながら私達は生活を営んでいるわけです。

意思、意志、夢、目標、それらは、確かに自分自身の問題でもありますが、色々なカタチで育ててくれる周囲の人々がいてこそ、芽生えてくるものなのかもしれません。

そして、芽生えたものを行動に移してはじめて、人は温かく添い、見守ってくれるものだと思います。

この数日間、私の持っている五感が、思いっきりフル回転しました。
フル回転して、落ち着きを取り戻し、静かに夜を過ごす今、深呼吸して私が思い浮かぶ言葉は、「愛こそすべて」です。
共に時を過ごした多くの皆さんに深く感謝致します。

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悲しみの聖母

2007年10月18日 | 第2章 五感と体感
「悲しみの聖母」を廻る2年間を想っています。

2年前の10月17日。小雨が降る寒い日でした。
避けようの無い突然の事故で二人の高校生の尊い命が失われました。

あれから2年です。
そして、10月18日、今日は亡くなったS君の誕生日です。
彼の天国での18歳の誕生日を一日想いながら過ごしています。

江戸のマリア(悲しみの聖母)が守護聖人となっている教会が彼に会うことのできる場所です。昨日は、そこで追悼ミサが行なわれ、共に祈らせていただきました。

「悲しみの聖母」の御絵と私は、なぜかSくんが取り次いでくれたかのように、この2年間、何度も違う場所で出合ってきました。

しかも「悲しみの聖母」と出合う毎に、私は人との別れを惜しまなくてはなりませんでした。

度重なる縁に、不思議さも感じますが、Sくんの魂が、天に昇る人に手を差し伸べて、添ってくれている様に思えてならないのです。

偶然では無いと思っています。ご両親の愛がS君を通して、普遍的な愛へと繋がり、私達に恵みをもたらしてくれていると解釈しています。

聖人の取り次ぎ、という言葉が、私の内で真実となっています。

1708年に屋久島に渡来したイタリア人のシドッチ神父が所有していた「悲しみの聖母」。キリスト教徒弾圧が進められ、彼も江戸川区小石川茗荷谷のキリシタンの牢獄で尋問を受けています。(江戸時代年表・小学館)
聖母マリアが、ベールの隙間から親指だけを出している構図なので、「親指のマリア」とも云われています。

聖堂に飾られてある小さな御絵を仰ぎ見ました。
人と人との繋がりは、この世だけではないようです。遺された者がこうやって祈り続けることで、生きている私達にとって深く意味のあるものになっていくのだと、しみじみ感じさせていただきました。

永遠の魂を信じて見えてくるものに感謝。
S君、お誕生日おめでとうございます。

そして、その悲しみの聖母の祝日は9月15日。
勉強仲間なら、「あれっ!」とお思いになるでしょう。
研究所20周年記念号の発行日、確認してみて下さい。

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欲しい言葉

2007年10月16日 | 第4章 愛とゆるし
急に秋が深くなってきたように思います。
秋の夜長、何をしようかと思いながら、ついつい、うとうと。
「読書の秋」はいつしか「睡眠の秋」となっている今日この頃です。

最近、ふと思うのです。「多少素直になってきたかな、、、」と。

人知れず役に立ちたい、と思い込んできたものに、寂寥感を感じ出してきたことが、始まりのようです。
どうせ、やるなら、「私という個性を堂々と表に出そう」そういった開き直りが、「多少素直に・・」繋がってきたように思います。

そうすると、不思議なことに、大切に思っている方々から「私の欲しい言葉」が聴こえてくるようになってきたのです。
私は、どうも聞いていたけれど、聴こえてこなかったようなのです。

「欲しい言葉は、生き抜く知恵と勇気にもなるんだなぁ、」と、今更ながら思う秋の夜長。

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感情の流れ

2007年10月13日 | 第3章 無意識の世界
「感情の流れは川の流れと一緒」
そう思ったのは、ガンジス川のほとりに座った若かりし頃。

人には見えない感情の流れ。思い。そして行動。
自分にも見えない無意識の感情。思い。そして行動。
ガンジスの流れは、未熟で子供な私にそれを気づかせてくれました。

瞬時に変わりゆく自己の感情は、自分を取り巻く環境の変化に比例します。

先日、近所のお寺の≪今月の言葉≫に「好きな人とは、自分に都合の良い人である。嫌いな人とは、自分に都合の悪い人である。」と書いてありました。

どっきりする一言でした。そして、ふとガンジスの流れが蘇りました。

そうなのです。人の感情は一喜一憂。
昨日まで好きと思っていた人が明日には自分にとって悪人になっていることは、私にも経験があります。

子供の頃は、親がその対象になりやすかったように思います。
「可愛い可愛い」とばかり言われ続けて育つ人は、そういないでしょう。
時には、怒られたり、注意されたり。そんなことがあった日には、心底親が嫌いになったりしていました。

都合の良い。
都合の悪い。

自分にとっての「都合」とは、どんなことなのか。ちょっと考えてみたくなりました。

心を鎮めて思うには、都合の良い時の感情は、自分の平安感や統御感、幸福感から湧き上がってきます。
そして、都合の悪い時の感情は、不安や怒りです。どうもその中には嫉妬やコンプレックスが入り混じっているようです。

少なくとも、自己の「感情表現」が原因で、人のはしごを外すようなことだけはしたくないと思うのでした。
日々変わる自分の感情の流れを見つめながら、「自分の都合」も意識していきたいものです。

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感情を見つめる

2007年10月08日 | 第2章 五感と体感
週末、関西で2泊3日の勉強会でした。
とても充実した流れと内容で、とても深い学びを得たように思います。
良き時間を過ごせたことを、心から感謝しています。
勉強仲間との時間、場所もよし、食事も良し、語らいもよし、感謝と満足の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

カウンセリング勉強会、他人の面倒より、まずは、自分の面倒をみてゆくことが、何より必要なことなのです。他者を受け容れることは、自分を受け容れることで簡単に成り立ってしまいます。でも、これが、なかなか・・・。簡単にできるものなら私だって悩みません。

人と付き合うには、言葉を交わさなくてはなりません。
自分の経験から発する言葉は、案外人に嫌な思いをさせているかもしれません。
反対に、人を希望に導くかもしれません。

私自身も、人の言葉によって、良くも悪くも色々な感情が湧き起こります。

勉強会の中で、「傷つけられた」という言葉は、少なくともカウンセリングを勉強している者は、使って欲しくない、と先生が言われたことを私も「ごもっとも」と思うので、この場を借りて改めて書きたい気分になりました。

「傷つけられた」という感情を考えてください。
決して、心地良い感情ではありませんね。

つまり、傷つけられた=ストレスを感じるわけです。
そのストレスを感じるのは、カウンセリングの勉強をしている方ならお解かりになるでしょうが、「個人の防衛機制」の何らかが働いて、ストレスを感じるのです。

14の防衛機制、それを自己分析してみると、自分の心のストレスと向き合うことができます。(抑圧・抑制・昇華・合理化・感情転移・置き換え・知性化・退行・逃避・同一化・摂取・投影・反動形成・補償)「生き甲斐の心理学86ページ・参照」

「傷つけられた!!!」というのは、何でもかんでも「可愛い~~」言っているのと同じです。

自分の感情を「傷つけられた!」と安易な言葉でやり過ごしても、何も解決しません。

まずは、心を留めて、感情を見つめる作業を大切にしていきたいし、勉強している私達から、まずは自己分析を楽しむ習慣を持てるよう努力したいものです。

顔を合わせ、表情を見つめながら互いを感じ合う時間。
皆様との再会を楽しみにしています。

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平等院鳳凰堂

2007年10月04日 | 第9章 愛
宇治平等院鳳凰堂内の天蓋が修復が終了し、一般公開が始まりました。
その様子をニュースで見ました。

雲に乗った菩薩達が、楽の音を奏でながら、舞いながら、本尊の阿弥陀如来を
囲んでいます。

雲中供養菩薩。
何度か、このブログに書いているのですが、たまらなく好きな菩薩様達が、元いた場所に戻りました。
菩薩様とお友達でも親戚でもないのですが、ほっとした気持ちが湧き上がってくるのです

浄土式庭園。
池を橋で渡り鳳凰堂に入ると、そこに広がるのは浄土の世界。

千年近く菩薩が奏で続けている音楽(おむがく)は、さぞかし豊かな音色と旋律でありましょう。

週末は、関西での勉強会なのですが、今回は残念ながら寄れそうもありません。
阿弥陀如来と共に、私がお堂でよろこぶ日を今から楽しみにしています。

雲中供養菩薩さん、しばらくお待ち下さいね。

自分のアイデンティティというのは、こんなところから見えてくるものです。
千年前といわず、もっともっと昔の祖先から成っている自分。
ご先祖様から頂いた感性を素直に信じると、閉じていたものが開いてくるように思います。
信じて見えてくるものを大切にしたいものです。

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