五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

一本の蝋燭

2012年11月30日 | 第2章 五感と体感
パリで過ごすクリスマスは、私の理想のクリスマスの過ごし方ではありますが、「ふらんすはあまりにも遠し せめては新しい背広を着て気ままなる旅に出でてみん…」と萩原朔太郎?が書いたように、この時代になっても遠いものは遠いのです。

それでも行けなかった萩原朔太郎には申し訳ありませんが、二度ほどクリスマスをパリで経験しています。

パリのクリスマスの何が良いか、、、というと、都市であっても、闇の光の程好い加減に居心地の良さを感じるからです。

日本の都市は、光で溢れています。東日本大震災があっても、夜の光の希求度は、日本人の傾向であるように思います。

よほど、電気の無い時代に、寂しく暗い夜を過ごした民族なのだろう。。。と思うのです。
寂しく暗い夜の時代が長かった故に、光を得た時点で、その光を満たすべく眠っていた闇の不安感が意識に上がってきたから、その不安を満たすべく明るさを必要するのかもしれない、と勝手な解釈をしています。

闇に浮かびあがる光が強い必要がどこにあるか、、、というと、やはり、DNAに潜んでいる闇に対する人の不安度なのかな、と思うわけです。確かに闇に対する極度な不安感は、私にもありました。

強烈な漆黒の闇といえば、ヒマラヤの麓の山小屋に泊まった時に経験し、二度目はスロベニアの村でした。夜12時になると教会の塔の明かりが消されます。そうなると漆黒の闇が部屋に広がります。一寸先も見えず、いくら時間が経過してもまったく見えない暗がりでした。漆黒とは、こういうことを言うんだな、、、と、その時に感じました。その二度の経験では、闇と同時に無音も体験しました。

故に、朝焼けはより美しく、闇から光への移行する時間を心底有難く思ったものです。

あちらこちらに設置されるイルミネーションは、私の中では闇の光とは言い難いものです。

初心に戻り想像するならば、幼い頃読んだ「ろうそくと人魚」の童話の「人魚が海に面した山の神社に灯す一本のろうそく」が、私の闇に灯す蝋燭です。

今年は、宮島の弥山の消えずの灯のお堂に蝋燭を一本納めました。冬至に向かう一カ月を世々に引き継がれていく灯の尊さと重ね合わせて過ごしたいものです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東の空

2012年11月29日 | 第2章 五感と体感
朝、目覚めると東の空を眺め、日が沈む時に西の空を眺めるのが私の習慣です。

東方面は、我が家からは運良く遠くまで見渡すことができ、羽田空港を飛び立ったばかりの飛行機を確認することができます。

その先は、直に見えるわけではありませんが、東京湾があり、房総へと繋がっているはずです。

東の空から昇る太陽は、夜が明け始めると橙の色とネズミ色とも白ともつかない色が微細なグラテーションとなって、まだ青にならない暗い空に徐々に明るさをもたらせていきます。

美しいなぁ。。。と、思います。

毎日観ても飽きません。

京都に泊まると東山方面が見える場所泊まるようにしています。

関東平野とは違う雲を愉しむことができるからです。

謡曲の中に、「立ち昇る東雲(しののめ)」という詞があります。
この立ち昇る東雲は、京都の空でしか観ることができない東雲であることに、ある時気付いたのです。

何故かと云うと、東山の向こうに琵琶湖があるからです。
琵琶湖の水蒸気が、もこもことしたうろこ雲をつくり(私の勝手な解釈ですのでお許しください)、そのうろこ雲が、朝日と共に立ち昇ってくるのです。その雲を見たさに、朝は必ず東の空を確認します。いつも見えるわけではなく条件が整わないと見ることができませんが。。。

たぁちのぼる しぃののめぇ~♪

と、謡いながら、今日も雲一つない澄んだ東の空を眺めて一日の始まりを祈りました。フレキシブルな自分を整えるきっかけにもなります。

余談ですが、歴史的な変換のきっかけが琵琶湖周辺で行われること多しと解釈しています。近江へ遷都した天智天皇にしても、堅田水軍にしても、源氏のリベンジも、織田信長も明智光秀も、そして関ヶ原の合戦も、井伊直弼にしても、、、
この国のゆくへを考えると、興味が湧く場所でもあります。さて、日本のゆくへは、さていかに…。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を信じるか

2012年11月28日 | 第2章 五感と体感
自分の力は、限られています。

自分の視野も案外狭いはずです。

それらのことを意識しているだけで、思い込みの世界から解放されるように思います。

自分の力が全てだと思い込み、他者の自己実現を最後まで管理しようとしたら、どうなるでしょう。

ほんとうに「自分の中に答えがある」ことを自分は信じることができているとしたら「他者に関してもその人の中に答えがある」ことを自ずと繋がるはずです。

自分の何を信じるか。。。

自分の心の内を再点検しながら、日々の生活を営んでいきたいものです。

自分の中にある「解決できていない何か」や「常にまとわりついている不安感」が、関係の無い他者への関わりの仕方に繋がっている事に気付くと、案外、他者ではなく「自分が何を信じているのか」の答えに繋がってゆくように思います。

自分の力は、ほんとうに限られていて小さなものであることを受け容れてみると、他者の力も信じることができるかもしれません。

依存性の謙遜さは考えものでしょうが、自分はガンジスの小さな砂粒の一粒であると感じ、道端に転がっている小さな石ころである自分を感じたあの体感は、謙遜という概念を私に与える良き機会であったことは確かのようです。
時々、私も自分の思い込みに突っ走りますが、或る程度まで行くと、この体感が自分に現実を吟味する力へと変えてくれるのです。

そして、他者の力を信じることは、自分の懐の深さを測るバロメーターであるとも言うことができそうです。

こうやって、人生の修行は続くのです・・・

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平家物語 小督(こごう)の局

2012年11月27日 | 第2章 五感と体感
8年ぶりに訪れた嵯峨野に自然園のような公園ができていました。竹の路を過ぎ住宅地でもある場所に、大きな空き地があることは8年前に気付いていました。嵯峨野の風景は、千年前はきっとこんな感じで野趣に富んでいたのでしょう。。。との思いが募り、暫く佇んで、その空き地を眺めたので記憶に深く残っていたのです。

芒(すすき)が繁り、小倉山から落ちてくるひんやりとした秋風が、野原に音を響かせます。

源融の時代も、清盛の時代も、そして世阿弥の時代も、きっとこの音だったに違いないと思うと、この音の中に佇む自分の時空がどの時やらになったか判別がつかなくなるのです。

その空き地が野趣を残したままの公園となって整備されていたのです。

嬉しや。と、思いました。

竹の笹の音

芒の音

小倉山からの風

これさえあれば、あとは小督が弾く琴のみです。

中秋の名月に月を愛で、高倉帝を想い、つい琴を奏でた小督。

我が娘建礼門院の夫である高倉帝が寵愛する小督を陥れる平清盛。
その仕打ちに姿を眩ますわけですが、月を愛で、つい琴を奏でてしまう小督。

奏でる楽の音は、きっと笹の音、芒の音に交わり、さぞかし風情を感じたことでしょう。

「もののあはれ」を身近に感ずる日本人の感性は、ここにありと思うのです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河ドラマ平清盛

2012年11月26日 | 第2章 五感と体感
今年の大河ドラマ「平清盛」は、とてもとても面白い。

きっと、面白くないと思う方は、自分の持つ平清盛像に確固たる自信のある人(自分以外の解釈は信じたくない人)か、歴史に触れる機会の少なく話の流れに付いていけない人か、もしくは、「大河ドラマ清盛」は面白くないという噂を信じている人であるように思います。

清盛の生育史から晩年の清盛像を推察すると、このドラマのような人間像は在り得るでしょうし、理想を描くあまりに横の繋がりが見えなくなり、上へ上へを目指すことで、ますます現実吟味力を失い、天上人になるために希求し続ける抑圧された愛の孤独感が、迫力ある演出で構成されています。

白拍子の祗王や祗女、そして仏御前を登場させ、愛する者からどんどん自分(清盛)を隔絶させていく様子を解りやすく描いています。

その様子を重鎮である平盛国の無表情な演技に上手に投影させている演出は、テレビドラマを観ている者への感情移入をさら深くさせていきます。

昨日は、頼政の平等院での討死のシーンがありましたが、源氏か平氏かを悩み続け、自分のあるがままを通して悔いの無い死に方をしたプロセスは、能楽の「頼政」や「鵺」で描かれる頼政像と重なり、俳優の宇梶さんの格を上げたように思います。

今回の大河ドラマは、俳優の技量が大きく影響したように思いますが、これがドラマの面白さであるのです。

きっと、今回の大河ドラマに携わり、悔いなく仕事を出来た方々は、これからのお仕事にもきっと影響していくことでしょう。

ラストまで、身を糺して拝見させて頂きます。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現場に立ちたい

2012年11月25日 | 第2章 五感と体感
小説を読んだり、能を観たり、音楽を聴いたり、日々の生活の中で旅せずとも想いの中で旅をすることはしばしばです。

でも、そこで飽き足らず、結局旅支度している私がいます。

現場に立ちたい思いで旅の場所を決めてきたように思います。

来年は、今まで旅をしてきた持統天皇の足跡を辿るまとめのような年になりそうです。
持統天皇を学び、私が行き着いていない場所で大事なと場所が一つあります。それは吉野です。

持統天皇というよりも「うののさらら」という一人の女性が持統天皇になるまでの経過として、夫である天武天皇を支えてきた彼女の思考と行動に深く興味が注がれ、そこからの身に付けたカリスマを想像するには吉野の地を歩かなくては、私の体感に繋がってこないのです。、、、、と、思い込んでいます(笑)

現場に立たなくても想像を膨らますことはできるでしょうが、持統天皇の時代からおよそ1300年、古事記の歴史と共に語られ続けてきた持統天皇の足跡は、やっぱりフィールドワーク無しでは欠かすことはできません。

時間の経過はあっても、森羅万象は普遍です。

そろそろ来年の旅の計画を立てながら「うののさらら」という人を思索してゆきたいと思います。

その前に師走のあれこれが待ち受けておりますが、妄想という逃避でごまかしながら、年の瀬を乗り切ることになりそうですが、連休最後の日曜日は、薬師寺の香を焚き、我が家の待降節の設えも少しずつ愉しみながら、同時に身体も整えたいものです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すすんであかりをつけましょう

2012年11月24日 | 第2章 五感と体感
暗いと不平をいうよりも

  すすんであかりをつけましょう

この言葉は、カトリックの信者でなくとも、どこかで聞いたことがあると思われる方が多いかもしれません。
関東ではラジオニッポン放送が長寿番組として平日毎朝5分間放送しています。
その放送は、今年一万五千回を超えました。

私が初めて聞いたのは中学生の頃でした。深夜放送を付けっ放しにして寝てしまうと、夢の中で心のともしびの音楽が聞こえ、上記の台詞が朗読され、「ああ、、、朝だ。。。」と気付くのです。

そして、昨日ハヤット神父さんが始められた「心のともしび運動」が60周年を迎え、東京カテドラルにおいてミサが取り行われました。

現在はハヤット神父さんは亡くなり、マクドナルド神父さんがこの運動を後継されていらっしゃいます。

心のともしびは京都河原町教会の裏手ある修道院が本拠地です。

毎月印刷している心のともしびの冊子、毎日のラジオ番組、そしてテレビ番組、そしてインターネットを使い、全国に配信しています。

もともとこのラジオ番組は、ハイアット神父さんが自らアイディアを出したわけではなく、京都で放送制作会社を設立したN社のMさんが、毎日毎日自転車で修道院を訪ね、日曜日のラジオ番組で「お話」をしてくれないか、と頼みに来たことが始まりだったそうです。教会は日曜日はミサがあり、日曜日はそちらのほうが大事なことなので、平日五分間だけの時間を使って毎日放送するならOKしてもよい、とハイアット神父さんがおっしゃり、この御長寿番組が始まったそうです。

当初はハイアット神父さんが原稿を書いていたのですが、徐々に同調する文化人が現れ、今のような形になったのです。

生き甲斐の心理学の師匠である植村高雄氏が同じく長きにわたりラジオ番組の原稿を書かれ、しかも今年はテレビの15分番組の出演のため京都に通う事となり、私自身も植村氏の後継者として収録現場に立ち合いたいと思い、4回ほど通わせて頂きました。結果、誰よりも容赦ない出演者様へのダメだしツッコミを言う事となりましたが…(笑いと冷や汗;)

「ほんとうに伝えたいこと」と「発する言葉」のギャップを大いに勉強させて頂いた一年間でした。

そして、マクドナルド神父さんを支えているスタッフの皆様のお人柄に触れさせていただいたと同時に、程好い力加減も勉強させて頂きました。

継続は力なり

気負うことなく、しかも信念に関して妥協を許さない心意気が、これからの私の働き方に大きな勇気を頂いたことは確かなようです。

昨日のカテドラルでのミサに与りながら、粛々と繋いでゆくことの行為を改めて意識した日でもありました。

背の高いマクドナルド神父さんが屈む様に私を見つめてくださる眼差しは、一生の宝物となりました。

お金には代えがたい財産が随分溜まりましたので、この財産の還元をしていくことができればきっと私自身悔いなき人生を送ることができるであろうと、天を仰いだ感謝祭の一日でありました。

心のともしび60周年を心からお祝い申し上げます。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

繋がっているもの

2012年11月22日 | 第2章 五感と体感
源氏物語の54帖の「胡蝶」「匂宮」に、広沢池や大沢池が登場します。

水面に舟を浮かべ観月を愉しむ風習は、9月に行われているようです。

源融(とおる)に由来するため、なるほど、風情、演出、華美は充分なりですが、やはり私のイメージは、池の畔をしんみりと自問自答する光源氏の姿なのです。
小説の中では、真摯に思索する光源氏の姿が描かれていますが、どうしても華美な催しを描いたもののほうが読者の印象に残りやすいかもしれません。でも、光源氏の物想いに耽る様子は、求めても求めても求めきれない理想の母が同時に意識せずともそのような行動を起こしている光源氏の行動に繋がっているようにも思います。

先日、宮島・厳島神社の弥山を登った際、空海が灯したともしびが代々受け継がれ、千年以上灯され続けている灯に手を合わせました。
不思議なご縁ですが、本日はニッポン放送で60年続いてきた「心のともしび」という番組の60周年記念ミサに与ってきます。
中学生の頃、深夜番組を付けっ放しにして寝てしまうと、早朝5時過ぎにこの番組の音楽で起されたことが度々ありました。この番組の独特な音楽と語り口は、未だ変わりません。普遍的なカタチとして心に強く印象に残っていました。
その「心のともしび」に御縁を持つことができた事自体が、私の繋げてきたもの、つまり大事にしてきたものと重なるのです。

さて、大沢池は、嵯峨天皇の大覚寺の境内にあります。嵯峨天皇は若き空海を大切にされた天皇でもあります。

「何を大切にし、繋げていくか」ということは、大切にしているものを大切にしている限り、意識せずとも、御縁となり繋がっていくものでもあるかもしれません。

自分が大切にしているものは、自分という個性に含まれているものであり、その個性の美が、繋がりを求めているとすると、一貫した個性を信じる自分自身は、自ずから慈しみ深いものであることに気付くことにも繋がるのではないでしょうか。

先週紅葉狩りをした嵯峨野の風景を想いながら…。源氏物語の場面にようやく納得しつつあります。←納得したのは三日前のブログに書いたことです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

突然やってくる感情

2012年11月21日 | 第2章 五感と体感
昨日は四ツ谷の勉強会でした。

なぜかしら抑圧していたことから解放されたような勉強会でもありました。

何かの雰囲気がそうさせたのかもしれませんが、ふさがっていたものが気持よく放出されたような、そんな勉強会でした。

突然やってくる自分の感情の取り扱いについては、人によってそれぞれですが、特に罪悪感や恐怖感、悲壮感については、その湧き出す感情に苛まれるあの感覚は、多分似たようなものかもしれません。

ストレスに陥る感情の大きさもそれぞれでしょうが、不思議なことに、この感情が湧き出してくる時は、何故か突然やってくるから不思議です。

自分の中で突然やってくる感情の取り扱いについて、自分がどのように取り扱っているかを意識化できていれば、他者を傷つけることは回避できるかもしれませんが、自分の取り扱い方が意識できていないと、他者をどんどん巻き込んでいくのです。

まず、突然やってくる感情が、他者から与えられているせいだと思っている内は、湧き出す感情を自分自身で取り扱うことは難しいかもしれませんが、自分の内から湧き出してくる感情が自分自身のものであることを気付くと、ふさがっていた毛穴が開いていい空気が体内に廻るような感覚になるのです。

自分の感情の取り扱いをどのように自分で処理しているか。。。その傾向を意識出来たら、きっと解き放たれた体感も同時にやってくるように思います。

感情を体感で感じ取ること。
体感を感情で感じ取ること。

今、ここでの感情を大切に取り扱っていくことを続けていくと、突然やってくる取り扱い不能な感情の扱い方が見えてくる日がやってくると私は信じています。

否定も肯定もせず、聴いてくれる誰かの存在を大切にしたいものです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源氏物語の大沢の池

2012年11月20日 | 悔いのない人生とは?
朝から源氏物語の本を積み上げ、探し物をしています。

記憶の彼方から大沢の池もしくは広沢の池で、光源氏が桐壷帝と語らうシーンがあったはず。。。と、その個所を探すべく、膨大なページをパラパラパラパラ。。。。。結局見つからず…。

いや、私の思い違いか、いつもの妄想癖による想像過多か、、、、

どの章かお解りになる方、どなたか、お教えくださいませ。

さて、

大覚寺&大沢の池は、嵯峨野側の北に位置しているので、なかなか行き着くことが出来ない場所でした。
私の心の内では、父と息子がしんみりと語り合うシーンが、印象的で(勝手な妄想だったらすみません!)、いつか静かな季節に佇みたいと願っていました。
久しぶりに嵯峨野を訪れ、嵯峨野と言えば小督の局、六条御息所の野宮、祇王に仏御前の祇王寺、西行、藤原定家がぱっと思い浮かぶわけですが、大沢の池の畔に佇む光源氏の姿は、私としては結構大きな心情構成になっているのです。

なのに、どの場面だったかが全く思い出せず、今回の嵯峨野訪問のメインの徒然がなかなか書き出せないでいました。

光源氏が須磨に流される直前に、父である桐壷帝の御陵(源氏物語では)の下賀茂神社を日が暮れた夕刻に牛車を止め弔う箇所もとても印象的で好きな場面です。
糺の森の暗がりの奥にある御陵をじっと見つめる光源氏の想いが、ひしひしと伝わる場面なのです。

実母を追い求めるあまりに多くの女性を愛していく光源氏ではあるのですが、男として成長していく場面においては、とても思慮深く政治の似合う男として描かれているのです。

光源氏の愛する女性は、本来の自己と向き合う事をほんとうに真剣に考えようとした女性ばかりです。
ただ一人、女三宮だけは、それが出来ないがゆえに、光源氏との間に大きな溝を作っていきます。

紫式部の生き抜こうとするシュミレーションとしても解釈できると私は解釈しているのですが、自己投影しながら描き続けた源氏物語の本当の主人公は、紫式部自身だったのだと思うのです。

話がずれてしまいましたが、大沢の池。。。もしくは、広沢の池(ここは、現在はお魚の養殖もしているようですね)に佇む桐壷帝「父」と光源氏「子」の会話を探し当てましたら?もしくは私の勘違いに気付きましたら、改めて大覚寺訪問について書かせて頂きます。

大沢の池のほとりで頂いた菊嵯峨野うどんのお陰で、北風に冷やされた散策に温もりを頂きました。

感謝。

合掌。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰と陽

2012年11月19日 | 第2章 五感と体感
改めて言う事でもありませんが、森羅万象は陰と陽で成っています。

陰の気が勝っている時の五感や体感

陽の気が勝っている時の五感や体感

陰と陽の気が好い具合に交わっている時の五感や体感

それぞれの時の自分の五感や体感を否定もせず肯定もせず受容出来きていると、少なくとも五感と体感を通して意識できていると、陰陽の気が交わる体感へと近づいてきまず。つまり、意識できていると自分自身のバランスが取れている本来の状態に治まっていくのです。

昨日訪れた能楽堂では、いつもなら見所(ケンジョ)に入ると凪いだような平坦さを感じ、陰と陽をばたつかせてきた自分自身が鎮まっていくのですが、ちょっと違いました。
静かな場所であるはずの見所で怒りの感情をぶちまけている人が数人いたのです。ちょっとしたことなのですが、きっと平素の暮らしの中で何かのストレスがおありなのでしょう。
ツイッターやfacebookなどで「怒りの感情を言葉にしている」のを読むことと同じような心の荒れを覚え、思わず外に出ました。

つまり、思わぬ所で陰の気が突然襲いかかってきたという体感です。

そんなときは逃げるに限ります。というわけで、レストランに入りました。ところがです。ここでもまた、従業員に文句を言っているご婦人が。。。

ありゃありゃ…。

能楽堂でこんな体験をするのは初めてなので、そのご婦人のお顔をちらりと眺めると、やっぱりきっと何かの感情転移が起きているのでしょう。。。というような表情をされています。

淡々と山菜そばを頂き、退散しました。

昨日のいつもとは違う奇妙な空気は、どうも私だけが感じたわけではなかったようです。

そんな始まりの鑑能でしたが、結界の先の舞台は素晴らしく、天女の羽衣が富士の上を舞う心地で勉強させて頂き、ひたすらに愉しませていただきました。交わりの美しさを感じました。私も結界の向こうに連れてって~~♪(笑)という願いが、叶ったような至福感を頂きました。

自分の中の陰と陽を意識しようと心がけていると、私なりの回避を思い立ちます。
回避のタイミングを逃すといつまでも陰の気に引きずられます。

自分の中にある陰と陽を五感を通して体感で感じることがそれなりにできるようになると、自分自身の荒立った心に平穏感がやってくるのが早くなってくるようです。

修行を続けることは死に逝く時まで、ということですね…

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっていることは見られている

2012年11月18日 | 第1章 意識と知覚
他者の行動を見てその他者を判断している私。
それと同じように、
他者は私の行動を見て私という個性あれこれと判断しているわけです。

昨日は年に一度の表装の会「表導会」の最終日でした。

表装という技術を学ぶ人
表装の技術を伝達する人

伝達することは技術を学び続けることでもあり、技術を学ぶことは伝達することでもある、ということをしみじみ感じた最終日となりました。このことを感じさせてくださる師匠に心から感謝しています。

大量生産をすることで、求めやすさや便利さ、快適さを求め続けてきた結果、私達がほんとうに求めているものから徐々にずれてきて、ここ数年、このずれを交わせることが不可能な所まできてしまったように思います。

今や、「さざえさん」の住んでいる磯野家のような家は、希少価値のある豊かな一軒家となってしまいました。床の間の設えを季節ごとに入れ替える掛け軸や壺、食卓の窓から見えるところに植えてある花はいつも季節に見合っていて、敷地は、垣根で囲まれ玄関先は風情のある広さ…。

特別な場所に行かない限り、このような家には巡り合わなくなったように思います。

しかし、長年かけて、気負うことなく正麩糊を使い、なるべく手すきの和紙を使い、時間をかけて表装することをし続け、発表し続けてきたことで、これからの時代にとても役立つような存在に成ってきたのでは、と思います。

日本の文化を継承することは、実直さや忍耐力を好む日本人ならではのアイデンティティと深く結び付いているのです。

手先の細かい作業や手間暇かけて制作する姿のありのままを見せてこそ、他者は解るきっかけをもつはずです。

何事も自分がやっていることは見られている、ということです。

しみじみと人の身体は神様の神殿であるな、と思った一日でありました。

じぃーっとして、他者から見てもらうのを待っていても誰も五感で感じてはくれません。

自分の信じていることが普遍的なことに繋がっていればいるほど、他者は感じてくれるはずです。

今年も二足のわらじで頑張ってきた表装ですが、来年に向けて益々作業をしなくてなならなくなりました。
腰を痛めず手が動き目が効く内は、表装を粛々やり続けることとなりそうです。

日本文化の誇れる技術を一つ修業し続けていることは、私の生き甲斐に繋がるのです。

やっていることを見ていただくことは、伝承と伝達という使命も担っています。

見ていただきながら、あれこれと助けられ、継承していくことができれば幸いです。

ともかく、やっていることを見ていただきましょう…^^

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祇王寺のまろちゃん

2012年11月17日 | 第2章 五感と体感
前回祇王寺を訪れた時刻は、閉館間際でした。西にそびえる(そびえるほど標高はありませんが)小倉山の袂にあるため京都市街よりも早くに日が沈みます。そのようなわけで、苔むした庭の境内は薄暗く、じめじめとした感覚が記憶に残っていました。そこに住む白く太った猫が「にゃあ…」と鳴くと、平清盛に寵愛された祇王と仏御前の哀しみの吐息のように聴こえ、抑圧的な気分になったことを覚えています。

今回8年ぶりの祇王寺は、正午あたりに到着。

あの暗くじめじめしたイメージが離れず、しぶしぶ境内に入りましたが、再訪して安堵しました。

以前よりも庭が整備され、朽ちたイメージが払拭されました。朽ちていたほうが臨場感があるとは思いますが、祇王の憂鬱を背負うほど私の心は広くなく、意外にもすんなりと境内を歩くことができました。

紅葉シーズンのため、家族旅行に嫌々付いてきたお父さんが拗ねてわがまま言っていたり、楽しそうなカップルの会話が、境内の空気を軽くしたのかもしれませんが…(笑)

そして、白い猫に再会。丸々と太っていた猫はやせ細り、歩くのがやっとというような姿となっていました。
お寺の方に聞くと、三年前に肝臓を悪くしたそうで、そこから一気に痩せてしまったそうです。

それでも祇王寺のアイドルは健在と言ってもよいくらいの人気者。名前はまろみ。通称まろちゃん。

観光客に写真を撮られてはいても、別に気遣いする風でもなく庵のあたりでよたよたうろうろ。
乾いた喉を潤す姿は生命力に溢れていました。とはいえ、きっと、次回に訪れるときには会えないだろうな。。。と、寂寞な思いを重ねながら、祇王と祇王の母、そして仏御前、清盛供養塔に手を合わせて参りました。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小倉山から落つる風

2012年11月16日 | 第2章 五感と体感
嵯峨野の二尊院。前回訪れたのは8年前の9月末でした。

秋とはいえまだ残暑が残る季節で萩の花が咲いていました。
紅葉狩りにはまだ早いので観光客もまばらで、繁る葉からの木漏れ日の参道を歩いたのを覚えています。
参道の苔は水をたっぷり含んだ映えた緑色で、手で触れた苔の感触の記憶はまるで昨日のことのようです。

さて、今回の嵯峨野は紅葉狩りには程好い頃でした。程好いがゆえに観光する人も多いわけです。観光客に溢れているとはいっても、観光している人々の表情には嬉しさがあり、イタリア人の団体が竹の道をふさいで大騒ぎで記念写真を撮っていたり、修学旅行の中高生のエネルギーを頂いたり、疲れ果てたお父さんが癇癪を起していたりと、人の生の姿も楽しむことを含めた散策となりました。

久しぶりに訪れた二尊院の本堂はちょっとだけ増築されていました。、小倉山の斜面が裏手にあるので、その斜面を観光する人が見ることができるよう配慮され、裏庭も整えられ、私としては、野趣が消えてしまった事を哀しく思いました。あちらこちらに新しい小さなお地蔵様が設えられ、まぁ、このお地蔵様もあと30年もすれば、雨風にさらされ朽ちて趣がでてくるでしょう。。。と、諦め半分。。。

前回訪れた時は、小倉山から落ちてくる風を特別に感じました。本堂の脇の縁側に座りながらひんやりと落ちてくる風に包まれる体感は得も知れぬものでしたが、今回は残念ながらそういう余裕も無く、それでも過去の体感を蘇らせることができたことは私にとっては有難い来訪となりました。

二尊院は、私にとっては色々な意味でスタート地点だと解釈しているのです。始まりである出来事であり体感が小倉山から落ちてくる風であることを改めて意識化することができたわけです。

お二人仲良く並ばれている阿弥陀様に手を合わせ、3回目に訪れる日まで、また温かく見守ってくださるようお願いしました。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりに嵯峨野

2012年11月15日 | 第2章 五感と体感
京都も奈良も、訪れても訪れても訪れきれません。
今年も仕事がある度に一日余裕を持ち歩きました。今年は仕事の関係でちょっと多めに京都を歩くことができましたが、それでも行き足りないのが本音です。

「ここも行っていない、あそこも行っていない、、、ああ行き足りない」と言いながら、再度訪れたいと思う場所も多いわけです。

今回は、西行が高野山を降り、庵を構えた嵯峨野を歩きたく、8年ぶりに野宮神社から常寂光寺、二尊院、祗王寺、あだしの念仏堂そして、北の山々を眺めながら大覚寺を目指し、今まで訪れる機会が無かった大沢池に初めて立つことが出来ました。

良いタイミングで強い寒気がやってきたので小倉山から吹き落ちる風は一層冷たく、有難い体感を頂き、北嵯峨野の里山風景を楽しみました。

正月戎の日、えべっさんから始まった今年の京都の旅は、嵯峨野の大文字、鳥居の山をはじめ、高雄に繋がる北の山々を眺め、のんびりすることができ満足に〆ることができました。

改めて嵯峨野のお話はブログに書こうと思います。

あれこれと気になる仕事の一部がすっきりしたので、一旦初期化したような感じで清々しい気分です。

師走に入ると一気に時が過ぎそうですね。心と身体を整えて過ごしていきたいものです。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする