五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

琵琶法師

2008年07月31日 | 第8章 魂と聖霊
昔々その昔。学生の頃です。
従姉の親友(女性)が琵琶奏者で、語りと琵琶の音に惚れて、今はもうなくなってしまった渋谷のライブハウス「ジャンジャン」に通い詰めたことがあります。

何事も、はまるとそればかりの生活になる私。

カッコイイ女性でした。
彼女は、若くして病気で亡くなってしまいました。

それ以来、琵琶の音に触れることがなくなりました。

ところが、先月、ある場所で、たまたま居合わせた人が琵琶奏者でした。
以前から名前は伺っていたのですが、出会うチャンスが無く、数年が過ぎていました。
思っていたよりも意外と若い方でした。私よりも少しお兄さん。
奈良に住まい、鎌倉の建長寺で得度されたお坊さんです。

彼の奏でる琵琶もまた、素晴らしいものでした。謡も深い体内から湧き起こるようで、まさに言霊のように響いてきます。

何曲か聴かせて頂き、「敦盛」に入った頃には、心も体も魂も、実体のない空間に
いるような感覚になり、気づくと泣いていました。

私の中では、琵琶という楽器は、身近なものではありません。でも、ひとたび聴くと魂を揺さぶられるように、無意識の感性を呼び覚まされるのです。

自分にとって大切な音。

きっと、そうなんだと思います。

明日から鎌倉の勉強会です。自己の無意識の領域を源氏物語を通して、思索できればと考えています。

平家物語ではなく、源氏物語の明石の海を思いながら、明るい湘南の海を楽しんで参ります。

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夏休みの思い出

2008年07月30日 | 第2章 五感と体感
先日、カトリック茅ヶ崎教会の神父さんが私の所属する教会に来られました。そのときの説教で、私の放浪癖の一片がワラワラと蘇りました。

それは、私のこの性格は今に始まったことではない!証拠というべく夏休みの思い出です。

小学生の6年弱、私は茅ケ崎に住んでいました。

父の転勤先の福井から越してきたのが、1年生の夏休み。
9月に茅ヶ崎の小学校に転校しました。
そのころ、日差しの少ない北陸にいたせいで、肌の色が白く、茅ヶ崎というさんさんと陽の注ぐ場所に住む先生から見れば、私は虚弱体質と見えたらしい。

確かに、いつもどこか具合の悪い子供であったことは確かですが。

そんな私を心配した先生が、放課後私を誘い校庭を何周か走ってくださいました。

でも、環境は、私を変えてくれました。
そんな周囲の心配をよそに、私は見る見るうちに真っ黒になり、自転車をかっ飛ばして、海や山を巡り、心底楽しい茅ヶ崎ライフを過ごしました。

立派な松林の中にある茅ヶ崎図書館も私の遊び場の一つでした。自転車をこぎ、汗をかきながら図書館の中に入ると、窓を開け放した館内に、海の香りと夏の湿気が本の香りと混じり、なんともいえない好みの香りがぷぅーんと漂ってきます。静かな空間がとても神聖でした。
週に一度は必ず通い、涼を楽しんだものです。

そして、その図書館の前に、カトリック茅ヶ崎教会がありました。

私の概念に「行ってはいけない場所」というのがあったかどうか定かではありませんが、好奇心にかられ、誰もいない教会に入って、しばらく聖堂の隅に座り、ぼーっとすることもありました。

そんなある日、ふと目にとまった教会学校のサマーキャンプの手書きのポスター。

信徒でない私が、急に思い立ち、母に頼み、何故か参加する許可もおり、初めてのキャンプを体験したのです。
その時の内容は、あまり覚えていないのですが、バンガローに泊まり、夜は、カレーを作り、ハンゴウでお米を炊きました。
初めて会う人たちに混じり、なんの違和感もなく、すんなり楽しく過ごしました。

そうなのです。
茅ヶ崎教会の神父さんの説教は、まさしく毎年恒例の教会学校サマーキャンプの話題だったのです。
今年は例年になく、子供たちが信徒でない友達を連れてきたものだからいつもよりもはるかに多い参加者だったそうです。引率者はくたくただったそうですが、子供たちが口々に、友達が増えて楽しかった!と感想を述べたそうです。

かれらも、私のように、いつの日か、大人になって、また、ふと教会に足を運ぶかもしれません。

夏休みの思い出は、将来の道しるべ。

知らない場所、知らない人、知らない環境での出合いは、自分の持つ小さな世界からさらに広がる、何かのきっかけとなっていきます。

その時、気づかなくても、むしろあとになって、その意味に気づくことのほうが大きいように思います。

茅ヶ崎の神父さんは、去年天国に逝った神父さんと親しい間柄。
思わず、ミサ後に、神父さんにそのお話をさせていただきました。

「I神父さんが、引き合わせたんでしょうね。彼らしい。」

さらに、頂いたこのコメントに、ますます出会いの意味を感じずにはいられませんでした。

36年くらい前の出来事が、「今」に引き寄せられた一日の出来事。

人生、これだから楽しい。

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その人を想いしつらえる

2008年07月29日 | 悔いのない人生とは?
その昔、日本料理の基本を徹底的に習ったことがあります。
月に一度、土曜日の午後から先生のお宅に伺い、昭和の香りを残す木造の家。
動きやすいキッチンに改築し、そこで、お喋りを楽しみながら、右往左往。
できあがった料理を頂き、夜中まで話し込む。
先生は、器を壊されるのを恐れ、私たちに器を絶対に洗わせませんでした。

タイ料理も二人の先生につきました。お一人は、亡くなられましたが、タイ人の方。ご主人がアメリカ人で、お二人とも日本の骨董が趣味。某女性雑誌や、インテリアの本などに、よく登場するくらいの、素晴らしい邸宅でした。
そこでは、タイの宮廷料理を教えて頂きました。
もう一人の先生は、タイ料理の研究家で、そのタイ人の先生のお弟子さん。とはいっても、個性豊かな実力派です。

タイ料理に関しては、頂きたい一心での習い事でしたので、身にはついていません。

どの料理も、先生も、共通していたものがあります。
食を通して文化を知り、よい器と調度品のしつらえを学び、いづれも会話の内容はとても豊かなものでした。

自己表現。

料理は、何気ない自己表現にもってこいのツールでもあります。

料理は、胃の中に入ってしまえは、形に残りません。
残るのは、美味しい記憶と楽しい会話です。

食材に触れ、見てたのしみ、香りと味に舌鼓を打ち、会話がはずむ。
これらは、すべて五感の体感。

これで、充分です。

話は、長くなってしまいましたが、このことも源氏物語の一節で思い出したことです。
正月に、光源氏が、各々の女性に、それぞれの好みに合わせ、着物をプレゼントします。
その中で、明石の君が、一番、彼のしつらえに答えてくれた女性でした。
彼女も、自分の好みを合わせ、光源氏の来訪を待ち望み、いつ訪れても良いように部屋の中を好みの香で満たし、墨をすり、文を書く。
彼女の普段の生活が、いかにも光源氏の好みで満たされているかのように、しつらえるのです。
それが、鼻につく人もいるかもしれませんが、私は、偶然を装いながら、しつらえを怠らない明石の君が好きです。

茶道も同じく。

自分の喜びは、まず人を喜ばせることから、と改めて思うのでした。

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美しい

2008年07月28日 | 第2章 五感と体感
源氏物語を読んで、具体的な情景の想像を巡らすことができるのは、日本人としてのアイデンティティを持ち、日本の風土・環境に生まれ、育ったたからです。

折りあるごとに歴史に触れ、本を読み、日常の習慣の中に織り込まれた文化は私たちの身体に蓄積されしみ込んでいます。

豊臣秀吉が平安のまつりごとの中心である神泉苑の大きな大きな池を封じてしまい、今では少しばかりの名残を残すばかり。
それでも、神泉苑の前に立つと、楽の音と漂う舟が目に浮かびます。

光景が目に浮かぶ。不思議です。

たしなみ。
はからい。
しつらえ。

お行儀が良い私ではありませんが、真夏に聞くと、少しばかり、背筋が伸び、ひんやりします。

光源氏が、こよなく愛した紫上。
彼女が自らの命の限りを予感し、生きて出家できなかった代わりに、大規模な法会を催します。
愛するが故に出家を許さなかった光源氏は、法会の準備をし、最後まで仕切った紫上に、驚き、彼女の力量と能力にますます魅了されるのです。

見た目に美しいだけでは、魅力的ではありません。
理想を持つことで、それに追いついていく能力があるようです。
紫上は、「いい人」の代表のような女性。
でも、彼女は「いい人」を演じているのではなく、自分のそのような個性を人を愛するが故に美しく解釈していくのです。

源氏物語の女性達は、結局、自分自身のために生き抜きます。

そのような視点からみると、やはり女性である紫式部が、源氏物語を書いたことに納得するのです。

光源氏を通して見えた登場人物の姿を私なりの解釈で、これからも少しばかりネタに使わせていただきます。

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頭の中の大掃除

2008年07月27日 | 悔いのない人生とは?
ここ数年間、この7、8年、がむしゃらにやってきた事柄。

ブログを立ち上げたきっかけとなった、「生き甲斐の心理学」関連の学習と仕事です。

改めてそんなにやってきたんだ、、、と思ったわけですが、
いまだに初心者気分で、学ぶことが次から次へとやってきます。

NPOの活動を広げるべく、色々と行動を起こしてきました。が、心の問題を見えないインフラ事業として、整備・提供していくことは、なかなか難しいことも、よく見えてきました。

先日、打ち合わせでお会いした方が、「私たちの仕事は無形(ムケイ)ですから」と笑っておっしゃいました。なるほど、無形文化財もそうですし、人間国宝だって、無形です。そんな言葉に、単純な私は、とてもうれしく思いました。
とにかく、今、出来ることをコツコツと還元していくのみです。

特にここ3年、設立したNPOのパターン作りに爆走・奔走していたわけですが、それもだんだん自分のペースの中に馴染んできたと思えあたりで、急にスコーンと体が抜け落ちたような気分になり、2週間、何にも考えずに、好きなことをして、ひたすら漫画を読んでいました。

これが、よかった。

そして、漫画は先ほど、完読。

何を読んだかといいますと、
源氏物語を漫画にした「あさきゆめみし」です。
文庫本になっているものなので、一冊読むのに、2日かかりました。
全7巻。
私たちの世代の人なら誰でも知っている大和和紀さんが書いたものです。
これは、漫画を「描く」というより「書く」という表現のほうが相応しいように思います。

比較宗教学、文化人類学、民俗学、生物学、量子力学から宗教学、美術、音楽、哲学、、、
これらのエッセンスを貪り読み、心理学の学びを続けている私たち。
常に、広く知ることを意識し、人との関わりを大切にししているつもりです。

漫画という手法で描かれた源氏物語には、古典と能楽で親しんだ今までの源氏物語とはまったく異なり、人間としての装いと現代に生きる私がそのまま映し出されるかのごとく、描かれていました。

もっと早くに読んでおけばよかった。。。

人の心の曼陀羅は、いつの世も同じものです。
憂いと悲しみと憎しみの感情の曼陀羅
そして、相対する幸福感は、喜び満ちるもの。

時代は変化しても、心には、魂が宿り、身体にも魂が宿っています。

そして、私の身体の細胞に、何万年もの記憶が宿り、それが、今の私の言葉と行動に表現されるのです。

それらを自然と体感できるのは、自分の無意識の領域に柔らかく触れることかもしれません。
針で刺したり、無理にこじ開けたり、叩いたりするのではなく、あくまでも柔らかく無意識に触れる、ことのように思います。

眠った細胞をすこし意識してみると、壮大なストーリーに出会えるきっかけとなるかもしれません。

さてさて、そろそろ平成の時代に戻るとしましょう。。。

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解釈によって変わること

2008年07月26日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
人はそれぞれ、自分というセルフイメージを持ちながら日々生活しています。

「自分を見つめて、見えてくる自分の傾向」は、

案外、「人からどう思われたいか?みられたいか?」から生まれてくるような気がしています。

最近「せっかち?」と問われることが立て続けに起こり、「なぁるほど、せっかち、、うんうん」と、「さもありなん」という気持ちがわき上がり、改めて、自分を見つめなおすきっかけとなっています。

だいたい、私の母が私から見ると、ある部分で「せっかち」です。
対して、父は、「よきにはからえ」、と私には映ります。

でも、そのせっかちさは、ある部分に有効であり、ある部分では、まったく有効ではありません。

どの部分でせっかちに見えるかというと「食と住まう」に関してです。
でも、本人は気配りだと思っているようです。
「よきにはからえ」の父は、気配りしてくれることが当たり前のようです。
(ロジャーズ的にいえば、あることの繰り返しが習慣化し、分化し、その人の個性となる)

長年の関係性から生まれた「良き按配」といえば、そうです。

自分の傾向は「一日にして成らず」と云えるようです。

私自身、何かに夢中になると、一直線。なりふり構わず、生活がそれ一色になっていきます。あれもこれも、という器用さはありません。
興味のあることに関しては、脳味噌がピピッと働き、そうでないものに関しては、まったくもって眠った状態のようです。その差が激しいとも云えそうです。

ということは、「せっかち」は、私の興味の領域に達した時に現れる自分の現象なのかもしれません。
私の好きな領域における精神情動であると解釈すると「せっかち」は、より一層納得できます。

・・・それと、はやとちり、というおっちょこちょいさも、自分の傾向として付け加えておきます。これも「せっかち」にはいるかも・・・


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真夏の読書

2008年07月24日 | 第1章 意識と知覚
真夏の昼下がり、涼しい部屋で読書する時間が確保できると、もう文句無し、至福の喜びです。

外は、汗も蒸発してしまうくらいジリジリと暑く、できることなら外出せず家に籠っていたいのが正直な私の真夏の過ごし方。

そうはいっても、そんな都合のよい暮らし方は、なかなか難しい。

ありがたいことに、本日は午後は何も予定無し。午前中にやるべきことをすべて終わらせ、二時から読書開始。

・・・・・・

30分は、字を追っていた記憶はあります。

ふと目覚めると、なんと4時半。
よく寝たもんだ。。。

真夏の昼下がりの読書。
なまじ時間があると、こんなものかもしれません。

まだまだ夏は始まったばかり。積読の本の山にさらに本が積み上がる気配を感じています。ともかく暑さを凌ぎながら、ページを捲る時間を大切にしたいものです。

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大暑

2008年07月22日 | 第2章 五感と体感
今日は24節季の大暑。

「暑気が極みに達する」頃だそうです。

確かに暑い一日でした。

太陽の日が痛いほど身体を射し、歩いていても汗が蒸発し、梅雨の頃のじとじとした体感とは明らかに違います。

近所にある公園の池の蓮も咲きはじめ、真夏の宴が始まりつつあります。

春から練習を重ねていた鶯は早朝にみごとな鳴き声でで私を起こし、きっとその鳴き声が聴こえなくなったころに、蝉がジンジンと鳴き出すのでしょうか?それとも鶯が季節を間違えて歌声を披露しているのでしょうか?

家の中にカマキリの子供が一匹、うろうろしています。暑さを凌いでいるうちに閉じ込められてしまったようです。

我が家恒例の伸び放題の伸び伸びした萩も、日中の熱風から解放され、さらさらと
夕涼みを始めています。
萩の枝を眺めることで、涼風を感じます。

大暑。暦通りの暑さの極み。

日中に出しそびれた暑中見舞いのはがきをポストに入れに、蓮を見がてら夕涼み。

ちょっと出かけてきます。



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考える力

2008年07月20日 | 第3章 無意識の世界
教科書的な言い方かもしれませんが、「考える力」を養う時期は、相応にしてあるのだしみじみ感じています。

この「相応」というのは、考える内容によって個人的な成長の度合、もしくは個性によって全く違ってきます。

子供のころ、思いもよばなかったことが大人になると理解できるようになり、大人になると忘れてしまう感情もあります。

でも、

「私」という容れ物は、私以外に所有者はいません。

「私」が「私」を放棄してしまったら「私」はどうなってしまうのでしょう。

「考える力」は「生きる力」です。

親のせい。
社会のせい。
先生のせい。
友達のせい。
兄弟のせい。
環境のせい。

○○のせいにばかりしていると、鏡に映る自分の顔、悲しげな顔や無表情になっているかもしれません。

「今、湧き上がる感情」を感情のままに表現することは、とても大切なことですが、表現する前に、表現してみたあとの「結果」を想像してみることも大切なことだと思うのです。

考える力は個人の中に必ず宿っています。そして、答えは「私」の内にかならずあるはずです。

答えを導くのは本人です。でも、考える時間を提供することは、他人でもできます。
「身近な人の配慮」、社会がきちんと考える時期にきているような気がしてなりません。

夏休み。

親子の穏やかな対話。
試みてみませんか?

最近起こる事件の数々。気になります。

私たちNPOが教育活動できることは、「もやもやした言語化できない何か」を、時間をかけて自問自答していくことです。時間をかけてのんびりと勉強会を通して共に学び合っていきます。

「生き甲斐の心理学」
NPO法人CULLカリタス カウンセリング学会は、そんな地道な活動をしています。

10月17日狛江市エコルマホールにて講演会を行います。
詳しくはHPにて、ご覧ください。

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アウトサイダーアート

2008年07月17日 | 第2章 五感と体感
松下電工 汐留ミュージアムに行ってきました。

昨日はアボリジニのアーティストの作品に魂そのものを感じ、本日も興味深い展覧会に行ってきました。

ある個性をもった人々のアート。

ボーダーレスアートとも云うのだそうです。そもそもスタイルに名称をつけることに意味はないとは思いますが、区別しないもの、境のないものということを考えると、アウトサイダーよりもボーダーレスのほうが腑に落ちるかもしれません。

量子や分子の集まりによる成り立ち。

一つのことに執着し出すと、それを無限に描きたくなったり、漢字という形に興味を示すことで、まるで原子記号のように「漢字」という記号を細かく描いたり、言語表現には興味はないが、言語を図象に置き換えて描いたり、実際に上から見たかのように街の風景を描いたり、ひたすら電車の正面だけを小さく並べて描いてみたり。。。

昨日のエミリーの絵画も同じく、内在する生命の原風景を思い起こすような、不思議な感覚が絵から湧き上がってくるのです。

心地よいものもあれば、見ているうちに気持ち悪くなる作品もあります。

統合失調症を公言している世界的に有名な草間弥生さんの作品も、鑑賞しているうちに心地よくなるものもあれば、悪くなるものがあります。

それは、「開放性と閉塞性」の違いかもしれない、と昨日、今日の美術館巡りで感じました。

枠の中に収めるために意識している作品と、枠を意識せずに無限大へ延長を期待できる作品が、同じような作風であっても、観る者にも感じ取ることができるようです。

感じ取る体感は、五感の集積。

もう少し、感じ取る訓練を積んでいきたいな、と思います。

アウトサイダーアートもしくはボーダーレスアートは、美術界の領域から離されていることを初めて知りました。
何故でしょう。

福祉と美術がなぜ共存できないのか?
もっともっとボーダーレスにできないものか?

作品のウンチク抜きに、湧き出す感情を語り合う、鑑賞者中心の絵画鑑賞療法が、美術館の展示室で囚われなくできる日がいつかきますように。

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アボリジニの見神欲

2008年07月17日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
エミリー ウングワレー展
7月28日ま・国立新美術館にて

かなり期待して行きました。
そして、久しぶりに期待に応えてくれた展覧会を観ました。

「人が描く」行為、というのは、魂の情動だと常々思います。

自己の魂を顕わにし、それを自分の表現にどう表すか。
難しい言い方かもしれませんが、簡単にいえば、「湧き出す情動」は、誰にも止めることはできません、ということでしょうか・・・

生きる「しるし」を表層の世界に表すことは、現在、芸術という言葉で区切られてしまっていますが、本来、区切るべきものではないと考えています。

区切りは無いのです。人が勝手に区切っただけの話。

顕わにしたい魂の情動を、規則的に表現したくなった時に、表現のためのルールをつくり、そこに音楽とか美術という区別ができ、それぞれの分野でさらにルールができ、技術をもち、工芸的になっていくのが、知性ある人間の技であるとも云えます。

でも、時々、そんな概念を吹き飛ばしてしまう表現者が現われてくることも事実ですし、その表現を商業にしたいと行動する人間が出てくることもよくある話です。

「ベルリンの壁」以前の20数年前、ニューヨークで出会ったドイツ人の現代美術家・キーファー氏のアトリエで衝撃を受けたことが私が絵を描くのをすんなりやめたきっかけとなりました。
彼の持つ激しい闘志と平穏でありたい心の葛藤がコールタールという材料で画面いっぱいに表現され、その表現力に打ちのめされたと同時に、描くことの意味が瞬時に私の内在していた想いと一致したのです。

エミリーの絵は、その時の私の体感を包み込んでくれるようなものでした。
大地の母は、普遍的で、アボリジニという民族を超越した魂の融合を得たように感じました。
描くエミリーは、誰よりも表現力のある人かもしれません。もしかしたらシャーマンかもしれません。でも、そんなことはどうでもよく、湧き上がる情動が彼女の手を動かしているに過ぎないことを目の当たりにしたときに、人の持っているといわれている「見神欲」という言葉が私の頭に浮かんできました。

人は見えないものを見、そこに普遍性を見出し、真善美を求めていく。
感謝と喜びは、普遍性の中に留まり、それを巡って螺旋状に天に昇っていくのだと
確信しつつも、いつもそのことを確認したい自分がいるのです。

エミリーの描いたしるしは、私たち人間の代弁者であるといっても過言ではないと思いました。

時満ちて出合うものとは、このことかもしれません。

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夏の匂い

2008年07月15日 | 第2章 五感と体感
そろそろ夏休みです。

近くの高校もナイターで高校野球に向けて練習を重ねているようです。
遅い時間まで、掛け声が響いてきます。

期末試験も終わり、あとは夏休みを待つだけ。

受験生にとっては厳しい夏。

皆さん、それぞれの夏休みを過ごされることでしょう。

私が小学生の頃は、夏休みの土曜日の夜、約束しているというわけではなかったのに、近所の子供たちが三々五々花火を持って集まり、賑やかに花火を楽しんだものです。
日頃、親の監視の下に暮らす子供にとって、その時だけは何故か親の姿が無く、日の暮れた時間に子供たちだけで楽しむ特別なひとときでした。

誰かがバケツに水を入れて持ってくる。
ろうそくに火を灯し、小さな子の面倒を見るお兄さんやお姉さん。
最初は、蛇花火から始まり、クライマックスにはねずみ花火や大型の花火が登場。
締めは必ず線香花火の耐久レース。
自然と組まれたプログラムです。

火薬の匂いは、その時の思い出が蘇り、懐かしい光景が浮かびあがります。

花火と蚊取り線香。プールの水のカルキ臭さ・・・潮風の松並木。扉を開くと同時に香ってくる図書館の本の香り。
どれもこれも懐かしい夏の匂いです。

考えてみると、クーラーをつけて一日過ごす夏の過ごし方では、この香りは体験できません。
窓を開けて扇風機を回し、暑さを凌ぎながら過ごすと、簡単に夏の香りの生活が蘇るのです。

快適な空間は、五感を遠ざけるように思います。

ひたすら暑さを耐える生活はできそうもありませんが、ちょっぴりクーラーを我慢して、夏の匂いを楽しむ生活を意識してみましょうか・・・


匂いは、記憶を鮮かにします。
季節の恵みから、五感を感じ取り、体感することを大事にしたいものです。

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喜怒哀楽

2008年07月13日 | 第9章 愛
悲しい時には、悲しい感情になります。

嬉しい時には、嬉しい感情になります。

心の問題は、個人にしかわからないスケールがあります。

どんなことをいえば、笑うのか?、喜ぶのか?、怒るのか?
それも人それぞれです。

でも、そのスケールが個人個人違っても、「悲しい時には悲しくて、嬉しい時には嬉しい」のです。

自分の心の中のどこが分岐点になるのかを意識化できていると、生活がより楽しくなり、そして怒りや悲しみの感情を回避することもできるはずです。。

自分の湧き出す「感情」を大切にすることが、心の健康の第一歩。

心の健康は、身体の健康と同じく、自分自身でなんらかの対処をすれば、必ず健康を取り戻すはずです。

そのためには、知識が必要です。

心の問題は、個人的なこととはいえ、喜怒哀楽は人が持つ普遍的な感情です。

家族の話をどう聞けばよいのか?子供の問題を親である自分がどう関わればよいのか?ふさぎこんでいる友人の話をどのように傾聴すればよいのか?自分の生きがいとは何なのか?

健康であればこそ、勉強は自分の頭に沁み込みます。

身近な人の話を聴くための学びは、必ず自分自身の自問自答の仕方にも繋がります。

宗教の違いも民族の違いも思想の違いもないはずの心に、自己概念という仕切りをつけることから、何かの感情が生まれます。

「湧き出す感情を大切にする。」

いつの日か、固く仕切られた境界線が、自分の内から消え去ることを願いながら、
学びを続けて生きたいものです。

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井戸端会議

2008年07月10日 | 悔いのない人生とは?
最近は、用事があればメールでのやりとりが普通で、電話での会話がめっきり少なくなってきました。

つい最近までは、電話での用事もそこそこに、だらだらと長話、ということが少なくありませんでした。
でも、これが、結構毒出しの効用で、話した後はすっきりします。ただし、話の内容が前向きな場合、です。これに笑いが加われば、相乗効果抜群です。

井戸端会議も同じです。水を求めて集う人々から生まれる会話は、いつの世も変わらない内容なのだと思います。

このところ、連絡はすべてメール。そのほうが効率は良いはずですが、意志疎通、微妙な言い回しに喜怒哀楽の伝達等は、やはり五感を使って繰り広げられたほうが親密性が深まるはずです。

今日は、実に珍しく、長電話と井戸端会議に恵まれました。

梅雨明けしたら、真夏の太陽。
夕涼みしながら、ゆったりと会話できる余裕を持つこと。
この夏の目標としますか・・・

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心の健康

2008年07月07日 | 第1章 意識と知覚
日々暮らすなか、今日、そして明日、何が起こるかわかりません。
自分は健康でいても、家族や身近な人が健康でなかったら、どう対処すればよいのでしょう。悩んだ人の話をどのように聞いたらよいのでしょう。

心の健康は、自分が健康だ、と思える時は、よき学ぶ機会なのだと思います。
心に不安を抱えたときに、この学びが役立ちます。

自身が何かの問題を抱えていたり、不安や悲しみの中にいるときは、現実吟味力も低下し、情報を得たり、知識を得たりする余裕などありません。

負の感情はは更なる負の感情を生み、益々問題解決から遠のいていく可能性もあります。

心理療法の基礎知識は、自分への問いかけから始まります。

答えは必ず自分の内に宿っており、その答えを導き出すのも自分自身です。

不安感を持っていることを意識化できていることのほうが、健全であるように思います。

自分の心に大きな不安が生じたとき、大きな悲しみが生じたときに、少しでも学んだことが頭によぎれば、早期に回復する可能性があります。または、心の病を回避することもできるはずです。

私たちの活動は、そのような予防医学的な見地から必要性を感じて生まれました。

自分の心の健康は、家族の心の健康に繋がります。
何かが心の中で生じたとき、その知識が必ず役に立ちます。

NPO法人CULLカリタス カウンセリング学会の教育活動をぜひご利用ください。

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