五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

疲労の種類

2011年10月31日 | 第2章 五感と体感
昨日は、バザーの一日でした。仕事の都合で日曜日に教会に通う習慣が身についていないのが現状ですが、昨日はバザーが催され、毎回恒例のカレー作りに参加しました。

細々とお手伝いさせていただいているインド少数民族奨学金の会の恒例、キーマカレーです。
大豆を入れた、豚ひき肉のカレーは、年に数回のイベント毎に出店しますが、毎回好評です。

朝早くに集合し、大鍋に火を掛け、じっくりと刻んだ玉ねぎを炒めるところから始めます。
玉ねぎを刻む中、玉ねぎ成分で涙をポロポロ流し、お口は冗談を飛ばしながら笑いつつ、作業は流れていきます。

百数十人分のカレーを売りながら、私達も焼鳥やら本格的生春巻きを頬ばり、お役は終了。

普段、具体的に見えないものを対象にしながら労働する疲労感と、目に見える労働による疲労感は、明らかに違います。

目に見える労働をすると、肉体の疲労感がジワジワと自分に訪れるのを感じます。

同じ疲労でも、随分違います。

身体を使う疲労を癒していくと、自然と心身の正中線が整ってくるのです。

心の疲労と身体の疲労を意識化し、神経質にならない程度にそのバランスを取っていくことは、心身の健康を保つ初歩的なコツかもしれません。

楽しいメンバーと楽しく活動することが必須条件です。
嫌々やっていても楽しくありません。かえって心身のバランスを崩します。
自分の喜びは、他者に伝染していくのですから^^・・・



明日は、腰越勉強会です。

10月から新規で始まりました東急セミナーBE雪谷の講座は、好評につき^^//、来年一月期も延長となりました。感謝です。
暮らしの中で、学んだ生き甲斐の心理学を生かしていくことができますよう努力を続けてまいります。ご参加、お待ちしております。詳細はブログの左側「東急セミナー」をご覧ください。

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墓マイラー

2011年10月28日 | 第2章 五感と体感
今時の言葉を使えば、私も墓マイラー属に入ると思います。

旅行の際、国内外問わず、寺院は勿論、そして墓地も必ずチェックします。時間のある時は、必ず墓地を歩きます。

「葬り方」を見ると、その土地の人々の息づかいが見えてくるのです。
それは、生きている人を見ている以上のものです。
自分にとって大切な人をどのように「葬るか」という心尽くしは、言葉でやり取りするよりも、象徴的な表現を見ることによって浮き出してきます。

ここ数年は、古墳萌え~♪
と、いっても言い過ぎではないかもしれません。

7,8年前、北九州の宗像大社に向かう途中のタクシーの中で、「このあたり、なんだか古墳の匂いがする。。。」と、呟くと、運転手さんが、「おお、匂いますか。あそこも、こっちも、、あっちも、古墳ですよ」と…。

その土地の豪族の古墳が至る所にあることがわかったことで、魂は今も生き続けていて、その土地の空気には遺伝子が組み込まれているような思いが湧いてきました。

神仏習合から、廃仏毀釈に至るにあたって、多々ある古墳をこじ付けに利用したことは確かかもしれませんが、魂を鎮魂し、生きた人を手厚く葬ったことには間違いありません。もしかしたら、生きている人が、亡くなった人の怨霊を恐れ、古墳の位置を決めたりしたかもしれません。

先日、三輪山から二上山に沈む夕日を眺める機会を得ました。
二上山には、持統天皇の策略で命を奪われた大津皇子の墓があります。
三輪から昇る太陽の光は二上山にあたり、そして二上山の後ろに沈んでいきます。
凝縮された大和の歴史を丘の上から思い描き、大津皇子の鎮魂を祈りながら沈む夕日を眺めること1,400年あまり…。
民衆に慕われ、将来を嘱望された人の死を悼むことについて、いくら持統さんことウノノサララさんでも無視はできなかったことでしょう。
勝手な私の推測を妄想しながら、墓を巡る旅は、まだまだ続きそうです。

全く、場所は変わりますが、モナコの教会にグレースケリーのお墓があります。聖堂の背後に円を描くように床の下に人が葬られてあるわけですが、フラットなグレースケリーのお墓に一輪の赤い薔薇が手向けられていたのが印象的でした。人の人生が見えてくる、というのは、そういうこと、、、です。

墓話になると、俄然と元気が出てくる私。やはり、堂々と墓マイラーと宣言しても良いかも^^;;

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学校に行けない、行きたくない

2011年10月27日 | 第2章 五感と体感
自分の成育史の中で植えつけられた考え方や環境の中で学んできたことは、いつしか自分の常識となり、「こうあらねばならない」という領域の中で、忠誠心となって、自分の行動や考え方を支配していくようです。

湧き出してくる感情も勝手に自分から湧き出してくるものの、やはり成育史がベースになっていることは間違いなさそうです。そこから思考と行動へと自己表現していくわけですから、「感情と思考と行動」は三つ巴だと思います。

例えば、「学校に行かなくてはならない」という、社会の仕組みに対する忠誠心は、どんなところから生まれてくるのでしょう。。。

学校に行きたくない感情が芽生え、お腹が痛くなったり、学校に向かおうと思っても、身体が動かなかったり、、、

そこで、学校に行けない子や行きたくない子に、「学校に行かなくてはなりません!」と叫んだところで、何も解決はしませんし、ましてや「学校に行かなくてよいのよ!」と言われれば、ますます言われたほうは混乱していきます。

ここが難しいところだと思います…

本当に行く必要が無いと考えているのであれば、心身になんらかの症状は出ないはずです。

今、自分に起こっている現象をそのまま心の中で反復してみることが、大事な一歩かもしれません。

自分は、今、苦しい。。。今、お腹が痛い。。。という、自分に起こっていることをそのまま心の中で反復していくことで、少しは落ち着いてくるようです。

学校に行くとか、行かないとか、なぜそうなったのか、、、等ということは、聞いても混乱を生むだけでしょう…

「今を受容する」ということは、案外難しいことに改めて気付かされます。

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「今」の生き方

2011年10月26日 | 第2章 五感と体感
自分の出来ることが、ある程度期限付きを意識せざる得ない年齢になってくると、「今この時をどのように生きていくか」という問いが、時々湧きあがってきます。

元気に動くことができる期間をあと20年だと信じてみると、充分に悔いなく行動できそうですが、それ以降は、今から考えても、その時にどんなことが思い浮かぶか想像できません。

自分が起こしたい行動に対する情動が、湧き出さなくなった時、自分は、その時何を考えるのかも、その時にならないと解りません。

でも、今やるべきことを自分がどう処理しているかで、将来の自分の解釈を左右していくことだけは想像がつきます。

今の積み重ねを、兎にも角にも大切にしながら生きていきたいものです。

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機嫌が悪い人と過ごすには・・・

2011年10月25日 | 第2章 五感と体感
ちょっと気に入らないことがあると、機嫌の悪くなる人がいます。

私も、このことについては、修業を積まなくてはならないと反省すること多しですが、多分、他者を貶めるほどの迷惑はかけていないはずです。

「ちょっとだけでも、気に入らないこと」とは一体何なのでしょう。

もし、周囲にそのような人がいて、自分がその人に対し、過大なストレスを感じているとしたら、どのように解決すれば良いのでしょうか?

いくら他者が悪いと思っても、相手を変えることはできません。機嫌の悪い相手に対して、機嫌の悪さを指摘したところで、火に油を注ぐものかもしれません。

そんなとき、「答えは自分の内にある」ことを意識することが、自分のストレスを解消できるきっかけになりそうです。

相手が変わらないのなら、自分の意識を変えてみる。。。

相手が変わらないのなら、自分が逃げてみる。。。

相手の機嫌の悪さは自分のせいだと自分を諌めていませんか?

機嫌の悪い人にしても、自分の状態をどうしていくかは、自分の内に答えがあるはずなのです…

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自分の怒りの矛先

2011年10月24日 | 第2章 五感と体感
職場の中の自分は、どんな傾向で行動しているのでしょう。

他者の行動のことは、自分のことを棚に上げて、しげしげと眺めることはできますが、さて、自分の事となると…

どんなときに、どんな感情が出やすいのか…

どんなときに、どんな考え方が生まれやすいか…

どんなときに、どんな行動をしているのか…

自分は、何に腹が立つのか…
自分は、何に怒っているのか…

自分の怒りは、その相手に本当に感じているものなのか?
もしかしたら、自分の問題が解決されおらず、そのことによる感情の表出ではなかろうか…?

ほんとうに怒りを感じている相手には、向き合う事ができず、似たような人に怒りを表していないだろうか…?

または、言いやすい人、感情を出せる相手とは、どんな人だろうか…?

職場や学校で、どんな人に自分が八つ当たりしているか…?

やられている人は、たまったものではありませんよね。

自分の怒りを、誰かにぶつけているとしたら、ほんとうにぶつけたい相手と、自分は向き合っているのか。。。

週の初めは、新たな気分でちょっと立ち止まって、心を糺してみると、きっと爽やかな一週間を過ごすことができるかもしれません^^

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ヨコハマトリエンナーレを観た感想

2011年10月21日 | 第2章 五感と体感
11月6日まで行われているヨコハマトリエンナーレを観てきました。

この展覧会が何年前から始まったか記憶が定かではありませんが、第一回を鑑賞して以来、二度目です。

経済の元気さがどうしても開催に比例してしまうことは仕方のない事かもしれませんが、久しぶりに現代作家の作品まとめてを観て感じたことは、「ノスタルジー」です。

「現在に生きていて、現在であらず」

ヨーコ・オノの電話ブースでは、いつ鳴るかわからない電話を期待し、無言で並ぶ人々を遠目から眺めた時に、現代人の「今」が、とても曖昧に見えてきました。突然、電話が鳴り、電話の向こうのヨーコオノと話す人は、どんなリアクションで、どんな会話を交わすのだろう…、そんなことを思いながら、でも、ほとんどの人は、そんなことはありえないだろう、という気持ちで、このブースに入っていくことに、想定外が起こり得ないことを想定内で自己の意識を納めている人の性質を感じました。

横浜美術館から日本郵船の会場までの一キロくらいを、ぶらぶら歩きつつ、情報に依存し、三次元的ではない形状に翻弄されていくと、1キロ以上離れた点と点を結ばせる意味を鑑賞者に持たせない現象をつくり上げてしまうのかな、と、感じたり…

現象という瞬間を捉えたものを作品として永続させようとすることよりも、瞬間を連鎖し、それに伴う人の営みがいつの日か傾向を持った表現になり、そこから見えてくる普遍性を感じ取る生活が私には合っているし、半世紀生きてきた自分の相応しい表現方法かもしれません。

横浜美術館所蔵のノグチイサムの彫刻が、今回の展覧会の作品の一つとして展示されていました。これこそ、今の私にピタリとくるものです。

輪唱するように横浜そごう美術館で柳宗悦の展覧会が始まりました。

ひょっとしたら、同じような事象が、ただ繰り返されていて、私達は、その錯覚の中で一喜一憂して生きているように思います。
現在を映し出しているにも関わらず、現在でないようなあるような、そんな作品傾向が、私にそんな思いを湧き立たせました。

次回のトリエンナーレは、離れた展示会の点と点をどのように結んでいくか。シャトルバスをあてにするのではなく、鑑賞者にゲーム性を持たせることも必要かと…。私は会場から会場までを歩いてみましたが、無味乾燥な道筋を辿り、いつものように歩くだけでした。
企画者にとっては意味のある展示場所の設定を根本から考え直してみるのも良いかもしれません。

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嗜好と現実吟味力

2011年10月20日 | 第2章 五感と体感
他者の嗜好を押し付けられるほど、ゾッとすることはありません。

自分の感じた喜びを他者に伝えても、自分の嗜好を他者に勧めることは慎むことは人間関係を上手遂行していくコツのように思います。

自分の嗜好を拒否されたとしても、自分は自分なのだから、自分の嗜好を大切にすればよいだけの話です。
もし、自分が他者に拒否されたことに対して、あるいは無関心であったとき、そこから湧き出す感情があるとしたら、それは、自分の中のどのような防衛機制なのか、吟味してみると良いかもしれません。

自分に内在している不安感は、もしかしたらそこにあるかも…

同じ目的を持っていても、個性はそれぞれです。

そのそれぞれの個性を受容するということは、それになびくこととは違います。相手が求めることに賛同することでもありません。
そのためには、理解することと賛同することの違いを意識化しておく必要があります。
このことは、世に言う「傾聴」の大事な条件の一つです。

自己の意識化というのは、自分と他者との関係性から湧き出してくる感情や感覚があって初めて、具体的にできていくもののように思います。

自分の身体と心だけを意識するあまり、自己の嗜好に没入するあまり、気がついたら、独りぼっちにならないよう、私自身、気をつけなくては…

他者の個性の美を受容していくことは、自己分析の訓練の一つだと思います。

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言霊という呪縛

2011年10月19日 | 第2章 五感と体感
カウンセリングにおける、クライエントとカウンセラーは、最低限、同じ言語の日同士が良いようで、突き詰めて言うならば、同郷の言語同士が理想的だそうです。

語る言葉、吐きだす言葉は、人の成育史をすべて裏打ちしています。態度にしても同じです。

なぜ、このような言葉を使うのか?
何を伝えたいのか?

私自身が習慣として使っている何気ない言葉の中にも、自分だけが納得した体感の中で使っている言葉が多くあるようです。
それは、ほぼ、意識せず使っているはずです。
ですから、自分の使っている言葉を再認識しようとするならば、違う土地で生まれ育った人々と交わってみると、意識化できる可能性が高くなってきます。

自分が当たり前だと思っていた言葉は、実は、他者にとって奇異に聞こえるかもしれません。

それが、自分のどこから習慣化してきたのか。。。

それが、言霊の呪縛とタイトルに付けてた理由です。呪いのお話ではありません。^^;

言葉にしても、態度にしても、ちょっとした所作にしても…

「お里が知れる」・・・という言霊も、その中の一つかもしれません。

自分の中に根付いて、それが自分の自由の足かせになっている「言葉」は何でしょう…

昨日の四谷勉強会は、この「言霊」をテーマに、大いに盛り上がりました。
自分の中にある扉が、また一つ開いたような、そんな勉強会となりました。

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アイデンティティの統合

2011年10月18日 | 第2章 五感と体感
人生、自分に都合のよいことばかり。。。とは、いえません。

でも、どんなに辛く、苦しい経験をしても、必ず自分の内に答えがあり、時間の経過と共に自分の中に内在している解決力が、自分自身のことを解決していくようです。

では、解決しようとする意志は、どこから生まれてくるのでしょう。

自分を成り立たせている一本の柱って、なんでしょう。

自己を統一させるものって、なんでしょう。

・・・昨日は、某校保護者勉強会で、このテーマに挑みました。

このテーマに初めて触れた方には、たぶん、何かのきっかけになったかもしれません。もしかしたら、これからの自分のテーマになるかもしれません。

私の場合、特に奈良の旅が自分のアイデンティティの統合に大きく関係しています。
自分の遠い祖先が、必ずここを歩いたであろう、住んでいたのだろう、という確信が、魂を震えさせることで、統合されていくのです。場所に立つとフレキシブルな自分になり、柱がスンとするのです。

そして、魂を信じることです。信じていることです。

人によって、それぞれの言葉が紡がれるはずです。

自分のアイデンティティの統合…、如何でしょう?

来週の保護者勉強会も、その延長で「現実吟味力」に入っていきます。
皆様、お疲れ様でした。

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不安と自然治癒力

2011年10月17日 | 第2章 五感と体感
湧き上がる不安感を自分自身で認められず、湧き出す不安感にうろたえているだけの時を過ごしていると、自分の核からどんどんと問題が離れていくように思います。

「自分が、なぜ不安なのか」

このことをしっかりと自分の胸の中で意識化できていると、自分の奥底に潜んでいる自然治癒力が、じわじわと効果を表していくのが不思議です。

自分の不安の核を自分が認めると、いままでフラフラしていた自分のアイデンティティに統御感がもたらされます。
常に統御感があるというわけではありませんが、その体感を得てみると、フラフラしていた自分に柱が備わったような感覚になっていくのです。
これは、私の体験での体感ですから、人によって表現の違いはあると思いますが…。

他者に答えはありません。

「自分の中に答えがある」という所以は、この体感を経験してみると理解できるものかもしれません。

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めりはりつける

2011年10月16日 | 第2章 五感と体感
奈良の旅も遊びといえば遊びだし、仕事といえば仕事だし、勉強だといえば勉強ともいえるし・・・

私の日々の生活は、仕事なのか遊びなのか学習なのか、判別のつかないものが多いの現状です。

講座やカウンセリングルームの場所に居る時は、仕事としての意識が強く働きますが、旅をしたり歴史や文化関係の本を読んだり、習い事の時間は、いつも中間の場所に居るように思います。
家事をすることも、仕事のうちに入るかもしれません^^;

私の場合、この境目をきちっとしたいと思ったら、仕事も遊びもできないと思います。

互いの関係性が自分を成り立たせているからです。

かといって、ここのところ、ずっと中間を漂いながら仕事をしていることが多かったので、昨日はサッカー観戦に没入する時間を持ちました。好きなサッカーを観戦すると、すっきりと頭が切り替わるようです。スタジアムのサポーター席を避け、隅っこで気ままに一喜一憂すると、ストレス発散になるようです。応援しているチームがゴールを決めれば嬉しいし、勝てばもっと嬉しいわけですが…

少しの時間でも、まったく違う環境に身を置くことも、脳みそを休める一つの方法ですが、ほどほどにやってみると、頭がすっきりするようです。

ほどほどにめりはりつけてみると、気分転換を意識化できそうです。

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体調を整える週末

2011年10月15日 | 第2章 五感と体感
真夏の暑さが落ち着きだして一カ月ほどが経ちました。

気温や湿度の変化で、身体は思ったよりも疲れているはずです。

気候の環境の変化で体調を崩しているのか?
それとも、身辺に起きている何かで心のバランスを過剰にとっているから疲れているのか?

少し立ち止まり、この二つを吟味する週末にしたいものです。

私の場合、気温の変化が、身体を疲労させ、真夏にやるべきことが重なったことが理由で最近になり緊張感も解けたらしく、やたらと眠たいのです。これから忙しくなるのに、これではいけない、という感情が集中力を欠かせている、という状態です。

自分の疲れの元は何なのでしょう?

身体なのか?
心なのか?

出来ることとと出来ないことを分け、自分の役割遂行を組み立て直すことも必要です。

「身体or心」に焦点を当てて、整理してみると、週末の過ごし方が見えてくるかもしれません。

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山の辺の道

2011年10月14日 | 第2章 五感と体感
10月9日はお天気も良く、長時間歩くには最適な天候でした。

いずれは歩きたいと願いながらもなかなか叶わず、ようやく実現した「山の辺の道」ハイキング。

天理の石上神宮から歩き始め、大神神社までのおよそ11キロ。昔はあぜ道だったところがほぼ整備され歩きやすいため、老若男女が気楽に歩くことができます。名残あるあぜ道はわずかとなってしまいましたが、田畑の間にぽつりぽつりと古墳、明治の廃仏毀釈で取り壊された寺跡、小さな神社、大きな神社、道端の石仏等を辿りながら、ゆっくりのんびり実りの季節を楽しみました。

いにしえの人々の様々な想いを知っている山の辺の道は、人の歴史と共に歩んでくれている道なのかもしれません。

9月の台風が田畑を荒らしたらしく、なぎ倒された稲田も見かけました。それでも金色の穂を揺らし、秋の陽を懸命に吸収しているように見受けられ、心強くも感じたり、たわわに実る柿の実に豊かな温かみを感じたり…

木陰を求めて神社の境内でお弁当を広げる人々が、愛おしくも感じたり…

目的の大神神社に着くころはすっかり日も暮れ、参道の燈明を頼りに三輪駅へ。

ほんわりと達成感が湧き出して、奈良の居酒屋で、女5人は俳句に夢中となり、生ビール片手に言葉が溢れ出し、いつしか宴は俳句の会へと…^^

というわけで、一句、

三輪山の 東立つ月 橙(ダイ)のそら

・・・お粗末さまでした~

奈良の旅編 3


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境目はいつの世ももファジー

2011年10月13日 | 悔いのない人生とは?
源氏物語の光源氏が亡くなる章は「雲隠れ」ですが、その章は、空白です。タイトルしかありません。この世とあの世の境目を考えるとき、この「雲隠れ」が思い浮かびます。

奈良時代、中国に習い律令国家を目指します。杓子定規で測ることは簡単でしょうが、働いて税を納める義務を果たすことのできない人々は、隔離されていきます。

奈良豆比古神社が建てられた奈良坂は、平城京の外れであり、他の都市を結ぶ道の分岐点に位置しています。
奈良坂には多くの芸能者が育ち、集まり、そこから日本全国へと散らばっていき、取りまとめの組織も生まれたようです。

神社に祀られた志貴皇子は、万葉歌人であり、多くの歌を残していますが、政治を司ることには興味がなかったようです。その息子も芸能を愛します。奈良時代の血なまぐさい戦乱から一歩距離を置き、芸術に親しんだことで生き延び、桓武天皇を生むこととなります。
奈良坂の歴史を知るにつれ、境界線の存在は、日本人のアイデンティティを育んできたと言っても言い過ぎではないように思います。

光源氏の「雲隠れ」すなわち「曖昧」の中に、自分の心を糺し、真理を心の奥底に鎮座させる力が備わっているようにも思います。
奈良坂で見た境界線の曖昧さには、西洋で生まれた心理学の用語には該当しない日本人としての私の統御感の素地が隠れているようです。まだ、言葉は見つかりませんが、自分の腑に落ちる相応しい言葉を探しながら、言語化していくのが私の修業のようです。

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