五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

かまってもらいたい心情

2012年05月31日 | 第2章 五感と体感
無意識にやってしまう自分の行動

無意識に発している自分の言葉

勝手に湧き出してしまういつものパターンの感情

「あれあれ…またやってしまった」と反省することもあれば、やってしまったことの罪深さにも気付かず他者に不快な思いをさせていることは、多々あることです。

「自分は他者から不快な思いを受けたことは度々あるが、他者を不快にさせたことはない」
と、言い切っている人が身近にいたとしたら、警戒したくなります。

自分の思考と感情と行動について考える時、
自分は、どんな時に、どんな風に構ってもらいたいのかを…頭に巡らせてみるのも一つの意識化の方法かもしれません。

他者の「構ってもらいたい傾向」は見えても、自分が構ってもらいたいと時の傾向は、なかなか見えるものではありません。

例えば、
学校でのトラブルの話をするときに限って、お母さんが身を乗り出して聞いてくれる…とか、

具合が悪いと、お母さんが自分を心配してくれる…とか、

世間の事象について、文句を言ったり、けちをつけたり、批判したりすることで、自分の言葉に乗っかってくれる人を期待したり…など、、、

自分がどんなことをしたら、構ってもらいたい人に構ってもらえるのでしょう。

カウンセリングの勉強を続けていると、時々、自分自身について衝撃的な気付きがあったりします。
意識せずに求めているものを要求している自分に気付くと、穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなることもあります。

「自分はいじられキャラだ!」と言い放っていたとしても、ほんとうは、どうなんだろう?
本当はどんなふうに構ってもらいたいのだろう?

はてさて、どんな風に構ってもらったら、自分は満足するのでしょう?

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アドバイスとカウンセリングは違う

2012年05月30日 | 第2章 五感と体感
何故カウンセリングの最中、カウンセラーはクライアントにアドバイスをしてはいけないのでしょう。
よく△△カウンセラーがあなたのことをアドバイスします、というふれこみの広告などを見たり聞いたりしますが、それはカウンセリングではなく、何らかのプロフェッショナルのアドバイスです。

そもそもアドバイスとは何のためにするのでしょう。

自分が思っても見ないことをツラツラとアドバイスされたら腹が立ちます。
自分が反省すべき点をわかっているのに、相手からアドバイスされても腹が立ちます。

いくら何を言われても平気でいられる相手でも、自分が納得しない限り、相手のアドバイスは自分の耳に入ってはこないでしょう。

まず、自分がアドバイスをしたくなる時を思い出してみてください。

私自身、自分自身の理想と現実のギャップが自分を苛立たせたり、不安にさせたりするから相手に言いたくなるのです。

~すべきだ。
~が、常識だ。

と、思っている自分自身は、なんで「~すべきだ」と思うのでしょう。

自分が勝手に思い込んでいる「~すべきだ」を、相手に伝える事は、相手をどういう気分にさせるでしょうか?

逆に、他者から何かを指摘された時に、自分がどんな気分になるかを想像してみましょう。


カウンセリングは、相手に何かを指摘するわけでもなく、注意するわけでもなく、説教するわけでもなく、「傾聴」という技法を使い、自ずから気付きをもたらすことを目的とします。
傾聴するためには、多くの学びと訓練が必要です。
自己受容・他者受容の状態が傾聴者の条件であり、
特に自分自身の傾向と考え方を自分自身が受容できるようになることを修業し続ける覚悟が必要だと思っています。

カウンセリングでは、
好い加減で、ゆらりゆらりと聴きながらも、自分の感情や見識を相手に伝えることも必要になってきます。
ただ、聴くだけでは、同じことが繰り返されていくだけになる恐れがあります。少しでも光の方向に向かっていくには、カウンセラーのクライアントへの「設問」が、大事な分岐点となるようです。

NPOでの「生き甲斐の心理学」教育普及は、暮らしの中で自分自身が活き活きと生きていくための学びとして活動しています。

自分自身で見い出す答えが、自分の答えです。

各々の教室で共に学び合っている皆様と喜怒哀楽を共にし、私自身も一緒に修業を続けて参ります。

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不安感を意識化する

2012年05月29日 | 第2章 五感と体感
昨日は、保護者勉強会でした。皆様お疲れ様でした。

2週続けての勉強会でしたので、学びを積み重ねることができたのではないでしょうか?
4年目を迎え、着々と3年間学び続けられた方は、立派にこの勉強会をリードくださっており、初回の段階から温かい雰囲気で初めて参加される方々を迎えてくださっていることを有難く思いました。

一年目、二年目、三年目、四年目、それぞれの方が、それぞれの解釈と気付きをされながら学んでくださっているはずです。

第二回目のテーマは、第一回目に続き、「不安感について」でした。

湧き出す感情には、必ず意味があります。
同じ事象を見たり体験しているのに、自分自身から湧き出す感情や考え方は他者とは違います。

「私は私である」ことを意識することで、導き出せる答えもあるように思います。

「私の不安感」と「他者の不安感」は別であることと「答えは自分の内にある」こと、そして「自分が湧き出す感情には必ず意味がある」ことを中心に、不安感について濃厚な勉強ができたように思います。

来月の勉強会も益々おおらかに楽しくできそうです。
植村先生と私の珍?迷?いやいや名コンビ??で、今年度も進行していきますので、皆様よろしくお願いいたします。

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保元の乱

2012年05月28日 | 第2章 五感と体感
大河ドラマ清盛は、ドラマの大きな山場である後白河VS崇徳の戦い「保元の乱」でした。ドラマでは血の繋がった者同士が自分の威信に賭けて戦うシーンを中心に演出していました。演出家が昨日のドラマで表現したかったテーマだったようです。

この戦いの面白いところは、源氏と平氏が混然となり、清盛と頼朝の父である義朝は共に後白河側に付きます。
そして、藤原摂関家の兄弟の戦いであり、父の苦悩がドラマではデリケートに描かれていました。

戦いに負けた崇徳は四国に流されます。そこから生まれる怨霊伝説も興味深いところです。

武士の世の始まり。

保元の乱の次は、平治の乱。

ドラマは源氏と平氏に焦点が合わさっていくことでしょう。

歴史を知ることで、自分の遺伝子に組み込まれている何かが疼きだします。
きっとその疼きは、遠い記憶が呼び起こされているからに違いない、、、と、思ったりします。

昨日のドラマの中で、得子が労わっていた守仁親王は、後に経正を寵愛し、青山(せいざん)という琵琶を彼に託します。

物語を知れば知るほど、味が沁み出てくる平家物語。

日曜日の清盛を観ることで、一週間を勢いよく過ごすことができてしまうのが私のオメデタイところです。
一週間の始まり。できることなら愉しんで過ごしたいものです。

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本音と向き合う時のおまじない

2012年05月27日 | 第2章 五感と体感
会う相手と初対面であるとき、会った瞬間の互いの印象がとても大事です。

どんなに「イイ人だよ」と前評判を聞いていても、私に対する態度や言動、表情が、私にとって「嫌」なものであれば、私の印象は悪くなります。
勿論、逆も言えます。
私のことだって、当然、他者は見ているわけです。

第一印象がそうとう悪くても、付き合っていくうちにその方の本性にどんどん魅せられていくことも経験したことがあります。
その人は、もうこの世にはおりませんが、亡くなってから5年経っても私の心の中に住んでいて、時々私を叱咤激励してくれます。呆れるくらい短気で感情丸出しで、瞬間湯沸かし器とあだ名も付けられていた人ですが、沸騰から覚めると心底楽しく付き合える人でした。
私自身、何かに迷った時、「Hさんだったらどうするかな…?」と胸の内に問いかける事が癖になっています。
本音が先に出て、それがアダとなり反省したり居直ったりすることの多かったHさんの様子を思いうかべ、「ま。いいかっ!、そんなHさんが好きだったんだから、私から湧きあがる思いをまずは大切にしよう」と思えるのも、心の中にHさんが歳を取らずに生きているからかもしれません。

後からいくらでも軌道修正が出来るのです。
今を大切にしなくては、軌道修正もできません。

そんなことをHさんから呆れつつ学んだわけです。

「きっと、天国に逝ってしまってから、自分のことを反省しているんだろうな…。ま、そでれも遅くは無いかな。。。さすがに時が経ち、Hさんには似合わないけどきっと落ち着いて偉そうに私を眺めているんだろうな」思いながら頭(こうべ)を上げ、天を見上げることもあります。

これが私の「おまじない」といっても良いかもしれません。
心の中に住むHさんと、天からみているHさんを同時に感じると、何か落ち着く自分が居ます。

本日は、キリスト教の「聖霊降臨」。復活祭から50日経った日曜日です。なんとなく仏教の四十九日と重なる感覚なのですが、兎にも角にも神々しい日曜日です。
今日のために東大寺横の手向山八幡宮の鳩笛を飾り、ドクダミの花を一輪、友人が焼いた花器に飾り、心静かに天を仰ぐ一日を過ごしたいと思います。

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答えは自分で探す

2012年05月26日 | 第2章 五感と体感
答えは自分の内にあります。

昨日のたまプラーザでは、「今ここでの不安感」を自分自身で整理してみました。

他者へのアドバイスとカウンセリングは別です。
自分自身が他者をある形で解釈していても、それは自分自身が勝手に推測していることであり、他者の事を自分流に推察しているに過ぎません。

「自分から見える他者」にも自分の思い込みの傾向がありそうです。

「あなたは、○○よね。」と、決め込む前に、自分自身が何らかのフィルターを通して他者を見ていることを時々思い出してみることも、自分を顧みる一つの方法かもしれません。

答えは自分の内にあります。

「自分の内にある」ことで、何となく孤独感を感じるかもしれません。
でも、一緒に歩いてくれる人はいるはずです。

「生き甲斐の心理学の教育普及講座」を東急セミナーBEで始め八カ月が経ちました。

「生き甲斐」という言葉に目が入り、講座を申し込まれる方が意外にも多かったことに、私自身もこの勉強会の意味を改めて感じ始めています。

学校や通信講座のワークショップだけでなく、社会に飛び出し、NPOで教育活動のできる場が少しずつでも増えていくことに希望を持ちつつ、私自身皆様と学び合いを深めていきたいと思います。

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不安感の中に隠れている不安感

2012年05月25日 | 第2章 五感と体感
理想と現実のギャップが不安感を生み出します。
昨日のブログのように、感情の整理を簡単にできればよいのですが、そうそう簡単にいかないのが、自分の中に隠れている不安感をあぶり出す事のようです。

表面上、表出される不安感に潜んでいる自分の不安感を、ありのままに受け止める事ができたら、自分の心身が軽やかになっていくことでしょう。
無意識の中で、認めたくなかったり、意識化されていても、これを認めたら自分で無くなるような気がしたり…
つまり、諸々な防衛機制が、自分の中に隠れている不安感を外に出るのを抑えているのです。

でも、

「不安感を抑えていること自体」にも意味があるのです。
むりやり、表出することは、自分の身を削ることと同じです。

ですから、「今、ここで感じる感情」を大切に、自分の身体と心と魂を大切にしながら、自分のペースで意識化することを重ねていくことが大事なようです。
このことが自己受容のプロセスになるようです。

本日は、東急セミナーBEたまプラーザでの勉強会です。
今日は、先月に続き、「不安感」をテーマにしながら、「思考と感情と行動」について、もう少し深めていきたいと思います。今日の勉強会も朗らかに和やかに進行させていただきます。

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不安感を整理してみる

2012年05月24日 | 第2章 五感と体感
他者の不安感をよくよく話を聞いているうちに、はたと気づくことが時々あります。

「あれ?これって、本人の不安?それとも子供のことを心配するあまり、自分の不安と子供の不安がごちゃごちゃになっているんじゃない??」

母親である私自身上記の事を反省することはよくあります。母と子がくっつき合っていることを珍現象と言いたいところですが、案外珍現象では無く、当たり前の現象であるようです。「私はそんなことは無い!」と言いきっている人ほど、怪しいかもしれません(笑)。

私自身、母の不安感の転移を受けながら生育してきました。
母が不安定になると、私のせいになっていたことは、心理学の勉強をするまで意識したことはありませんでした。
でも母子一体があるからこそ、子が一貫したアイデンティティを持ち備えるようにも思います。

自分が幸福感に満たされていたり、自分の問題を自分のものとして捉えていると、子供の問題、夫婦の問題、親の問題、職場の問題を分けて捉える事ができるのですが、自分の傷口がシクシク痛んでいると、自分の問題も他者の問題もごちゃまぜになっていきます。

つまり、

今抱えている問題は、自分自身の問題なのか?
他者(自分以外)の問題なのか?

もし、そのことを整理することできたら、自分の解決策が自分自身の心に浮かんでくるかもしれません。

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不安感をどこで発散してる?

2012年05月23日 | 第2章 五感と体感


慢性的なストレスを抱えていると、自分がストレスを抱えていることに気付かず、自分自身の行動においてそのストレスを何らかの防衛機制を使って発散したり、逃避したり、解消したりしているようです。

例えば、
最近はソーシャルネットワークなるものが普及し、それを使って自分の憂さを発散している人もいるようです。
世間の事象にケチをつけたり、ひがんだ発言をしたりする人も、きっと自分の不安感の処理の仕方の一つなのだな、、、と、思ったりします。防衛機制に当てはめてみると「感情転移」に当たります。
読む側は嫌悪感を感じますが、書いている本人は、見えない相手が不快に思っていることなどさらさら思いません。私の場合は、ネットワーク上だけのお付き合いであれば、さっさとフォロワーさんから消してしまいます。
それも私の不安感の解消の仕方の一つであります。つまり「逃避」するわけです。逃げるが勝ち!というわけです。

「この人の発言、毎回、嫌だなぁ~~なんだか、八つ当たりだよね~~」
と、思ったら、さっさと逃げるべし、と、簡単に言いたいところですが、
会った事も無い人なのに、今更フォロアワーから消すのは申し訳ないという「罪悪感」を感じるのであれば、自分が何故、罪悪感を感じるのか、心で巡らしてみるのも良いかもしれません。
そうすると、平素、自分が不安に思う時の傾向(パターン)が見えてくるはずです。

自分の不安感が、自分自身にどのような現象で現れるか。
そして、自分の不安感を自分はどのように扱っているか。

その傾向を意識することができたら、もしかしたら自己受容に一歩近づいたことになるかもしれません。

自分の内にある答えを相手に求めようとしても、それでは答えは見い出せません。

自分自身の不安感の取り扱い方を探ることは、自己受容に繋がるように思います。

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不安感の取り扱い方

2012年05月22日 | 第2章 五感と体感
昨日は、今年度第一回目の保護者勉強会でした。

4年目ということもあり、リピーターの皆様の落ち着いた物腰が柔らかい空気を作り、初回から温かい雰囲気の中で勉強会を進める事ができたことを心から感謝致します。

3年間、参加者の皆様と育んできた「空気感&信頼感」を多少の余裕をもって利用できるようになったことも、私自身の成長でもあるように思います。

植村先生との珍(名?いやいや迷)コンビ度は、今年度も発揮できそうです。

第一回目のテーマは、「不安感の取り扱い方」でした。

こうありたい、~せねばならない、という「理想」と湧き上がる感情、つまり自分自身経験している感情「現実」のギャップが「不安感」を生みます。
この定義をまず心に留めていただきたい、ということから勉強会が始まりました。

そのためには、自分が今、現在経験している感情は何なのか、意識化する必要があります。

この意識化は、「今」に焦点を当てることに意味があります。
過去がどうだったとか、将来がどうだどかではなく「今ここでの自分」
自分以外のことではなく、自分自身の心に焦点を当ててみます。

親でもなく、子供でもなく、伴侶でもなく、自分自身の不安感を意識化してみます。
そして、自分が湧き出ている不安感を自分はどのように取り扱っているのでしょう…。きっと傾向があるはずです。

今回、勉強会に出席して初めて「自分自身の今ここでの感情」を意識してみる経験をした方のほうが多いかもしれません。

言語化できなくても、理解できなくても、とりあえず、「自分自身の今ここでの感情」そして「自分自身の不安感」という言葉を記憶していただくだけでも、平素の生活で何かを感じるきっかけになると思います。

まずは、そこからスタートしていただき、勉強会を愉しんで頂きたいと思います。

一年間、よろしくお願いいたします。

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三社祭700年

2012年05月20日 | 第2章 五感と体感
毎年あるはずの祭事が無いと、間が抜けた感じになります。
昨年は、震災、原発事故の影響で三社祭は行われませんでした。

特に我が家は、主人が江戸っ子で、しかも御輿が生き甲斐ときているから本当に間の抜けた時期を過ごしました。
家族に間抜けがいると、何となく家族全体が間抜けた感じになるのです。

今年は三社祭700年。

昨日は、丁度表具フェスティバルが隅田川のリバーサイドギャラリーにて会期中なので、行ってきました。
浅草の駅徒歩二分の隅田川沿いにある大きなギャラリーではあるのですが、外の喧騒から比べるとひっそり…。でも、中で飛び交う江戸弁の響きは、亡くなった義母を想い返し懐かしさに包まれました。
江戸っ子の喋り方は、「てやんでー!」というような歯切れが良い「飛んだような抑揚」だけではありません。
どちらかというと、山の手の言葉が入り混じった丁寧な抑揚のほうが江戸らしさを感じますし、未だに受け継がれている話し方としてはそちらのほうが残っているかもしれません。言葉の最後が丁寧な今で言う「お姉言葉」を男性が喋ると、江戸情緒を感じます。

表具屋の旦那がハッピを着て、ギャラリーの中で動き回る様子も良い感じでしたし、
声を掛けてくださる師匠方の優しい言い回しが、何とも嬉しく、三社祭のお陰で江戸風情が蘇った経師屋集団に大いに誇りを感じました。
修業中の小僧には、日常そんな優しい言葉掛けばかりではありませんが、言葉から溢れ出る人情は、こんなお祭りの時に大いに発揮されるのかもしれません。

以前住んでいたお隣の花柳流のおっしょさん宅のお嬢さんに「ねえさん」と呼ばれていた私。お隣から三味線の音が聴こえてくる度に江戸情緒を愉しんでいたことを、ふと思い出しました。そういえば、私は彼女の事を「お嬢ちゃん」と呼んでおりました。

スカイツリー開業ということもあり、浅草の街は観光客で賑わっています。

本日は朝の6時には御輿が浅草寺境内に勢ぞろいし、粋な旦那と兄さん姉さんが集まり、大盛り上がりであることでしょう。
今年のお正月に京都の戎さんに行った時にすれ違った旦那衆とは、やっぱり違いを感じます。
何が違うか、敢えて表現してみると、京都の旦那衆は腰で歩き、江戸の旦那衆は肩で歩いている、という感じでしょうか。
どちらも、粋なんです^^が…。これは、私の勝手な所見ですので、あしからず^^

できることなら何があろうとどんな形でも灯を消すことなく執り行うことが継続のための極意であるかもしれません。
二月堂の修二会のように、千年も二千年も世々に続いてほしいものです。

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カラスのセットプレー

2012年05月18日 | 第2章 五感と体感
我が家の玄関先に水鉢を置き、毎年涼を愉しんでいます。
今年も5月の連休あたりから、水鉢に水を張り、庭を夏向けに手を入れ始めました。玄関の前は一坪くらいのスペースしかありませんが、和洋折衷の坪庭風に設え、大きくなった沙羅双樹も7月前後の開花に向けて蕾も少しずつ膨らんできました。

大きな庭ではないから返って目が行き届き、ちょっとした時間に手入れができるのが利点です。

しかし、そんな私の小さな愉しみをよそに、いよいよカラスが行動を開始したのです。

事の発端は、水鉢です。
我が家の玄関先の階段を下りると駐車スペースがあり、そこには大きめの水鉢を置いています。メダカと金魚が元気に冬を越し、ほったらかしにしたままビオトープにしてあります。ほったらかしなので、カラスが水辺を求めてやってきます。これ幸いとメダカや金魚を食べてしまうので、工夫を凝らしカラスが大きな水鉢のヘリに止まれないようにしました。でも、何となく毎日やってくるカラスには親しみを感じていたので、玄関先にある水鉢の水はカラスに提供しようとおおらかに構えていました。
ところがです。
ただ、水を飲むなら許せるのですが、獲ってきた獲物や食べ物をその水鉢で洗うようになったのです。つまり、洗って食べて、しかも貯蔵庫として利用し出したのです。

カラスと契約調停を結んだわけではないので、掟破りだとも訴えられません。

そこで、水鉢の水を抜きました。

すると、翌日、毎日やってくるカラスが家の門柱に止まり、じぃ~っと私の行動を覗いているのです。家庭ごみを出すために外に出ても、カラスは動きません。変わらずじぃ~っと見ているのです。暫く見つめ合いが続き、そのカラスは飛び立っていきました。その瞬間です。上から別のカラスが急降下してきたのです。私の頭上一メートルくらいまで来て、大きな羽をばたつかせました。

ひぇぇぇ~~!
と叫びながら、家に飛び込みました。

あれから3日。

カラスは満足したのでしょうか…

隣の家のアンテナに止まり、遠巻きに私を見ているようです。
ストーカー被害には遭った事ありませんが、まさかカラスに監視されるとは思いもよらず…

それにしても、夫婦のカラスのセットプレーには驚きました。

今日も、マリノス応援用の傘を振り回しながら、ゴミ捨て完了。くわばらくわばら××;

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自分の感情と自分の眼差し

2012年05月16日 | 第2章 五感と体感
湧き出す感情が、そのまま出て、相手を混乱させたり不快な思いをさせてしまう経験は誰でもあるはずです。

湧き出す感情を静かに自分の胸の内で考察し吟味できてくると、「あーーー、またやっちゃった!」という自分の反省が半減してくるようです。
「わかっちゃいるけど、湧き出した感情を素直に外に出さないと気がすまない!」と居直ることも、或る程度必要なことかもしれません。

つまり、「自分がどうしてこのような感情が湧き出すのか」自己分析できていれば、いつも同じパターンで人にストレスを与えたり、自己嫌悪に陥ることを回避できるのです。

「自分の考え方、解釈の仕方、捉え方が、どうしてこのようなパターンになっているか…」と気付くだけでも大きな進展です。
自己嫌悪は、自分の生き延びる力でもあると思いますが、適度で適当な自己嫌悪に留めておきたいものです。

自分の感情を自分自身が捉えきれていない時、自分が見えている現象が、彼方のものをみているような遠い距離に自分が居るような感覚になったり、眼差しに表情が無くなるのを感じます。

現象に対しての、自分の感情を最低限でも捉えられると、だんだんと具体的な感情が見えてくるかもしれません。

そのためには、空を見て、風景を見て、人の動きを眺めている自分の心に何が見えてくるか自分自身に問いかけてみることから始めてみると、原初感情である「好き・嫌い」が、浮き上がってくるように思います。

遠い眼差し、
膜が張ったような眼差し、
濁った眼差し、
動かない眼差し、

見つめ合う眼差し、
見えてみるものも見えないものも見ようとする眼差し、
他者の目の動きに反応する眼差し、

はてさて、今の自分は、どんな眼差しでいるでしょう?

そして眼差しの奥にある感情は、、、?

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小説等伯

2012年05月15日 | 第2章 五感と体感
日経新聞連載の小説「等伯」が465回で終わりました。

一年半近く、等伯が一日の始まりを引き締め、長谷川等伯の心情に感情移入しながら安土桃山に浸ることができました。

何かに憑かれて情動が湧く。その情動を行動にするか否か。

情動と行動が一つな故に苦しみ抜いたと言ってもよい等伯の探究心と生きることへの集中力が、私好みで描かれていたので私の心に統御感をもたらす小説となったのだと解釈しています。

同時に、織田信長が南蛮船を受け入れ秀吉の時代となった時の人間模様、大阪や京都の商売人、街の様子、キリシタンと千利休、そして狩野派との確執等、どれも丹念に説明があり、特にキリシタンについては、今まで知らなかったことが多く書れてあり、小説の面白さを倍増していたように感じます。

島田雅彦氏の「フランシスコX」とこの「等伯」を読むと、当時の宣教の様子が描いたように見ることができます。サントリー美術館で催された南蛮屏風絵の展覧会(最近は神戸で開催)が拍車をかかり、信長と秀吉とキリスト教との関係についても頭が整理されました。遠藤周作氏の「沈黙」は、多くの人に読まれていますが、論理的に南蛮文化とキリシタンを知るためには今回の「等伯」は、勉強になります。

一昨日、大阪茨木市の千提寺(せんだいじ)に行き、キリシタン遺物史料館を訪問しました。
高山右近が高槻城の城主であったため、たぶん多くの信者がこのあたりに住んだと推察されますし、京都と大阪の間に位置した山深いところであるこも条件の一つであったかもしれません。

遺物史料館には、家の梁に括りつけられていた「開かずの棺」やロザリオ、受難のキリストの現物が展示されており、マリア十五玄義図(キリストが十字架に付けられるまでの画・曼荼羅のような感じです)については、京都や神戸の博物館に保管されています。数年前中谷家の十五玄義図が修復され公開された時は、多くのメディアに取り上げられました。

キリシタン遺物資料館には、末裔の中谷さんもいらっしゃり、四十分間のDVDを鑑賞したのち、色々とお話を聞くこともできました。
もし、遺物史料館に行かれるのでしたら、時間に余裕を持ち、今年編集したばかりのDVDをご覧になることをお薦めします。
貴重な歴史的資料です。

そのようなわけで、私の小説等伯は、茨木訪問という好き締めくくりに出合い、完了です。

「花よりも花のごとし」と云った世阿弥の言葉があります。「写す」ことは自己の精神の投影であり、その投影が魂を写すことに叶ったとき、花よりも花のごとく表現されていくのではないかと思うのです。
実物よりも実物らしい。。。

「もののあはれ」を体得している日本人のアイデンティティ故に解り合えるニュアンスとは、このことかもしれません。

小説家安陪龍太郎様、連載お疲れ様でした。本屋さんに並ぶのを楽しみにしています。
西のぼる氏の挿絵も上質なものでした。

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25年目の通信講座

2012年05月14日 | 第2章 五感と体感
宝塚の御受難女子修道会の会場をお借りし、美味しいお料理にお腹も心も満たされ、シスター方にどっぷりとお世話になってまいりました。ありがとうございました。

そして参加者の皆様、お疲れ様でした。とてもとても深い時を過ごさせていただいたことに感謝致します。

阪急線の売布神社駅から徒歩3分の場所にある広大な敷地に修道院があります。右側が男子修道会、左側が女子修道会です。
観想修道会なのでシスター方は特別な用事が無い限り、外に出ません。祈りの中で生活されてはいますが、私達のように部屋を借りて勉強会する人々、祈りに訪れる人のために個室を提供し、3度の食事を作ってくださいます。
修道院なので、さぞかし質素な食事だと連想されるかもしれませんが、栄養のバランスが取れたバラエティに富んだ家庭料理で持て成してくださいます。

売布神社周辺はマンションや住宅が立ち並ぶ閑静な住宅地です。大きな道路から、少しばかり外れているため、敷地内に居ると阪急線が走る音、発車音、踏切の音が森の向こうからかすかに聞こえる程度です。巨木に囲まれている庭と小高い山には、たくさんの鳥がやってきます。今年は、暖かくなるのが遅いからでしょうか?ウシガエルの大合唱は聞こえず、しんと静まり返った静かな夜を久しぶりに過ごさせていただきました。

「生き甲斐の心理学」の通信教育を立ち上げて今年で25周年です。植村先生の原稿が読まれる「心のともしび」のテレビ版の収録がこの先生にとっての一年間の大きな仕事でもありますが、講座生の皆様が長い期間学び続けられ、和気あいあいと楽しい学びが続けられてきたことは、大きな成果といってよいのではないでしょうか。

暮らしの中のカウンセラー養成として立ち上げた通信講座で育ち、まだまだ勉強の渦中である私達が自分自身の暮らしの中で生かすことができ、さらに設立7年目のNPO法人での教育活動をもっと広げていくことができれば、言う事無しかもしれません。

植村先生と共に行動しながら、多少の独り立ちが出来るようになった私ができることは、この空気感を私なりに維持し継いでいくことだと思いますし、全国に散らばっている講座生の皆様の繋ぎ役をしていくことが私の役割だと認識しています。

「人は成りたい人に成る」 このことは何度もブログに書いていますが、ほんとうにそうだと思います。

多様性に対して緩みを持ちつつ、この講座のアイデンティティを大切にしつつ、階段を一つ上がってみたい気分になってきました。

「ようこそいらっしゃいました」と始まる植村節の勉強会の灯をまだまだ灯し続けられるよう、火付け役をしていきたいと思います。

次回は7月。講座生の皆様の参加をお待ちしています。

そして、今回は3代目の予感もありつつ??、それが、私の勇気にも繋がりそうな感じでもあり、しっかりと若い世代にバトンタッチできるよう、働く所存です。

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