今から30年前の今日にあたる1994年1月29日、米国ネバダ州で行われた試合結果です。
WBCスーパーライト級戦:
挑戦者フランキー ランドール(米)判定2対1(116-111、114-113、113-114)王者フリオ セサール チャベス(メキシコ)
*メキシコ史上最強のボクサー、そしてボクシング史に残る名選手として謡われるチャベス。その偉大なる戦績に、ついに黒星が加わることになってしまいました。
31歳のチャベスは89勝(77KO)1引き分けという驚異的な戦績の持ち主。今回は挑戦者は、32歳とチャベスより年上のランドール。48勝(39KO)2敗1引き分けとチャベスには劣るものの、こちらもとんでもない戦績を持っています。しかもランドールは263勝23敗という異常なほどのアマチュアの実績があり、これまで注目度が低かったこと自体が不思議でなりません。
挑戦者を過小評価していたのか、それとも前月に続いての世界戦出場のためのコンディション調整のミスか。どちらにしろ普段でもスロースターター気味のチャベスは、完全に出遅れる形でこの試合は幕開けしました。
(完全に出遅れたこの日のチャベス)/ Photo: CBS News
特に3回に低打の注意を受けて以降、集中力が欠ける振る舞いが見られたチャベス。しかしランドールもホールディング(自ら抱きつく行為)を注意されるなど、それはお互い様。要は両者のこの試合に対するモチベーションの違いが予想外の結果に繋がったのではないでしょうか。また、チャベスの上体は何となくダブついており、コンディション云々ではなく、練習不足なのではという感が見受けられます。
50戦を超えるキャリアを持つランドールは、チャベスに対しまったく名前負けせず、堂々とした態度で偉人に臨んでいきました。スムーズなフットワークでロープに詰まることなく、見事なアウトボクシングを展開。チャベスが連打を放っても、それを上回る手数と回転力でチャベスを押し返してしまいます。
(打ち合いでもチャベスを上回ったランドール)/ Photo: Sports News
7回、ローブロー(低打)で減点1を科されてしまったチャベス。明らかな反則打ではありましたが、即減点を言うのはかなり厳しいように思えました。その後も波に乗れないチャベスは、ズルズルとラウンドを重ねていってしまいます。チャベスとは対照的にランドールは、回を追うごとに調子を上げていき、ポイント差をドンドンと広げていきました。
(試合は終始、ランドールのペース)/ Photo: PhilBoxing.com
11回半ば、再び減点のため減点1を科されてしまったチャベス。これで完全に集中力が切れてしまったようです。この回も残り30秒を切ったとき、歴史に残る場面が訪れることになりました。その長大なキャリアで、ただの一度のダウンも喫したことないチャベスが、ランドールの放ったワン・ツーでついにその不倒神話にピリオドを打つ事になってしまいました。
(チャベスの不倒神話がついに終焉)/ Photo: Facebook
その歴史的一打はチャベスのガードのど真ん中を打ち抜くようなきれいなもの。偉大なメキシカンは背中からもんどりうってダウン。チャベスが立ち上がった直後にラウンド終了のゴングが打ち鳴らされました。チャベスは自分のコーナーを間違えるほどのメージを受けたことが見受けられました。
最終回、逆転をする気力もないのか、それともダウンからのダメージからか、チャベスは攻める気力すらなく3分間が終了。勝敗は判定に委ねることに。
内容的には、判定結果を聞く必要のないほどランドールのワンサイドマッチに終始した一戦。しかもチャベスは減点2を科され、ダウンも奪われています。しかし驚くなかれ、出された採点は僅差で2対1で新王者誕生を支持。この試合で、チャベスの勝利を支持したジャッジは一体何を見ながら採点をしていたのでしょうか?また、僅差でランドールの勝利というのにも首を傾げたくなります。
1980年代後半から1990年代の前半にかけての大きな話題の一つに、「一体誰がチャベスを倒すのだろう?」というものがありました。パーネル ウィテカー(米)やヘクター カマチョ(プエルトリコ)のようなスピードと技術を兼ね備えたサウスポー(左)や、テリー ノリス(米)のようなチャベスより複数階級上の実力者の名前が主流を占めていました。そしてオスカー デラホーヤ(米)やコンスタンチン チュー(露/豪)のような次世代のスーパースター候補生が「将来的に破るのでは?」という話もチラホラありました。しかし、チャベスより年齢が上で、地味なランドールがその大役を果たすとは...。
(苦労人ランドール、32歳にして世界の頂点に)/ Photo: Fightnews.com
当時、インターネットはまだ存在しておらず、試合結果を知るには、新聞かWOWOWなどでの生中継という選択枠しかありませんでした。この試合が行われた翌朝、新聞で「チャベス敗れる」という記事が小さく載っているのを目にし、事実を確かめるために出版社(確かベースボールマガジン社)に連絡。チャベスの敗戦を確認した寂しいというか、残念な気持ちに包まれた記憶があります。そしてこの試合がWOWOWで放送された春先、やはり沈んだ気持ちでその試合を観ていました。