今年の梅雨は雨が少なく暑く、夏は雨ばかりで涼しく海水浴なんて雰囲気でもなかった。
秋は一瞬の晴れ間も空しく、もう既に背後には冬をしつらえている。
集中的な豪雨がどこかの地域に多大な被害を与え、季節外れの台風に戸惑う我ら。
何かで見た何者か定かでない評論家が「いずれ日本の四季はなくなり熱帯地域のように季節は雨期と乾期になってしまう」と言っていた。
そんな世迷い言が思いがけず真実味を帯びはじめた。
もしそうなれば自慢の四季も二季なんていう簡素な呼び名になるのだろうか。
とはいえ今日は秋らしく天高い爽やかな空を拝むことができた。
なんと気持ちの良いことか。
こんな晴れやかな日には窓を開けてほのかな風に当たりながら本でも読みたいもの。
引用するのも憚れるほど生かじりの知識だけれど読書の秋について少々、
中国・唐代の文人である韓愈は「符読書城南詩」の中で「燈火親しむべし」という一節を残している。
これには「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい。」という意味があるそうだ。
この文を夏目漱石が小説『三四郎』で引用し、それから読書の秋が広まったのだとか。
ここにこの秋読んで面白かった本をいくつか紹介したい。
多少のネタバレはあるのでご注意を。
『満願』
米澤穂信 著
新潮文庫 2017年
帯はたくさん売るためのものだと分かっているが、前情報がなく急いでいるときは役に立つ。
「とにかく何でもいいから面白いやつを」と思い手にとったのが『満願』だった。
作家には失礼な話だが、何せ移動中の暇をつぶせさえすればいい。
帯には「磨かれた文体、完璧な技巧。至高のエンターテイメント!」という文とともに大きく「3冠!」と書かれていた。
何の3冠なのか分からないが、つまらないことはないだろう。
『満願』は全六編の短編で構成されており、いずれもサスペンスミステリーの要素が強い。
米澤穂信という作家を知らなかったので、一話目の『夜警』はとにかく衝撃的だった。
物語は一人の若い巡査・川藤浩志の死からはじまる。
主人公は野暮ったい語り口の中年巡査部長で、死んだ巡査の上司に当たる。
主人公が見た川藤の人物像と事件当日の出来事を丁寧に回想することで少しずつ明らかになっていく事件の全貌。
土壇場のどんでん返しとかトリックとかそういう大げさで単純な驚きではない。
むしろ淡々としていて地味でさえある。
それが全く予想だにしていなかった物語の本質に気づくとき、身の毛がよだつ。
人間の凡庸さと凡庸であるが故の恐ろしさに恐怖する。
文章の静けさとは裏腹に読了後の苛烈な余韻は長引いたように思う。
私はサスペンスやミステリーというものに対して何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。
米澤穂信という人は誰も気づかなかった場所に風穴を開けたのだ。
はじめのたった一話でこの作家のファンになった。
そして全六編がそれと同じくらいあるいはそれ以上の熱量でもって迎えてくれるのだからたまらない。
「至高のエンターテイメント」という謳い文句はぴったりだ。
一番恐ろしいのは、非日常ではなく共感出来る部分があるということ。
物語の発端はいつだって誰もが抱くような感情であったりありふれた動機なのだ。
全話面白いけれど特に好きなのは『夜警』、『柘榴』、『万灯』の三話かな。
『儚い羊たちの祝宴』
米澤穂信 著
新潮文庫 2011年
前述の『満願』が面白かったので、同じ著者の作品を購入した。
『儚い羊たちの祝宴』は全五編の短編で作られていおり、『満願』同様一つひとつの物語が重厚かつ奇想で毎話ドキリとさせられる。
なんとなく米澤穂信の書き方を捉えたと思い読み進めたとしても全く違う結末に至り、自分の浅はかさに落胆しつつ作者の明敏な知性に驚嘆する。
一見独立した物語の集いに見える五話だが、謎めいた一つのキーワードによってある一点に導かれる。
面白いのは五話目の『儚い羊たちの祝宴』を読むか読まないかで全体の見え方が明確に変わるということ。
語り部の立場は様々だが、この作品は全て裕福な家やそれに関わる人が題材となっている。
そのため文章は常に上品で、登場人物の言葉使いも細部まで行き届いている。
知性的でありながら押し付けがましいわけでもなく、その洗練された文章に思わず感激してしまう。
本当面白い。
もうすぐ注文した米澤穂信の新しい本が届く。
楽しみだ。
『パラレルな世紀への跳躍』
太田光 著
ダイヤモンド社 2003年
「好きな芸人は?」と聞かれれば迷いなく「爆笑問題の太田光」と答える。
誰に言ったこともないけれど、子どもの頃からずっとそうだった。
どこがいいのかさっぱり分からないけれど、なぜか彼を見ると安心するのだ。
となりに田中裕二がいるのもなんかいい。
毎週2回あるラジオはほとんど聞いているし、NHKの探検バクモンも欠かさず見ている。
とかなんとか言いながら定評のある太田さんの文章は今まで読んだことがなかった。
ふと彼の文章を読んでみたいと思い買ったのが太田さんの最初のエッセイ集『パラレルな世紀への跳躍』だ。
2000年から2003年にかけて「TVブロス」誌に掲載されたコラムをテーマごとに再構成し単行本化したものらしい。
一話3ページほどの短いエッセイが62本も掲載されている。
率直な感想は読みやすくて笑えて面白くて考えさせられる。
様式や題材は様々でエッセイ、フィクション、ノンフィクション、
あるいはフィクションとノンフィクションの境目をうろうろしているような話とか、
政治・世相・少年時代・SF・妄想となんでもありの3ページだ。
とても正直なのに「赤裸裸」とかそういう斜に構えた表現は似合わない。
感覚的な言葉で申し訳ないが、どどーんと突き抜けている感じ。
初めて読んだ太田さんのフィクション『アマガエル』では表現の瑞々しさと美しさに圧倒され、
タイトルにもなっている『パラレルな世紀への跳躍』では14年前に書かれたとは思えない太田さんの先見性に触れた。
そうかと思えば大学時代の運動会について書かれた『運動会の思い出』で声が出るほど笑ったりと、
実に多才で最後まで飽きずに読むことができる。
トイレに置いておくと丁度いい感じの温度であり長さかもしれない。
今宵の月は満月を通り過ぎて少しだけ欠けている。
今日のような雲一つない明るい夜空でも、月の下に微かに光るオリオン座を見ることができた。
さてはて読書の秋、いくつか本を読んでみてはいかがでしょう。
秋は一瞬の晴れ間も空しく、もう既に背後には冬をしつらえている。
集中的な豪雨がどこかの地域に多大な被害を与え、季節外れの台風に戸惑う我ら。
何かで見た何者か定かでない評論家が「いずれ日本の四季はなくなり熱帯地域のように季節は雨期と乾期になってしまう」と言っていた。
そんな世迷い言が思いがけず真実味を帯びはじめた。
もしそうなれば自慢の四季も二季なんていう簡素な呼び名になるのだろうか。
とはいえ今日は秋らしく天高い爽やかな空を拝むことができた。
なんと気持ちの良いことか。
こんな晴れやかな日には窓を開けてほのかな風に当たりながら本でも読みたいもの。
引用するのも憚れるほど生かじりの知識だけれど読書の秋について少々、
中国・唐代の文人である韓愈は「符読書城南詩」の中で「燈火親しむべし」という一節を残している。
これには「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい。」という意味があるそうだ。
この文を夏目漱石が小説『三四郎』で引用し、それから読書の秋が広まったのだとか。
ここにこの秋読んで面白かった本をいくつか紹介したい。
多少のネタバレはあるのでご注意を。
『満願』
米澤穂信 著
新潮文庫 2017年
帯はたくさん売るためのものだと分かっているが、前情報がなく急いでいるときは役に立つ。
「とにかく何でもいいから面白いやつを」と思い手にとったのが『満願』だった。
作家には失礼な話だが、何せ移動中の暇をつぶせさえすればいい。
帯には「磨かれた文体、完璧な技巧。至高のエンターテイメント!」という文とともに大きく「3冠!」と書かれていた。
何の3冠なのか分からないが、つまらないことはないだろう。
『満願』は全六編の短編で構成されており、いずれもサスペンスミステリーの要素が強い。
米澤穂信という作家を知らなかったので、一話目の『夜警』はとにかく衝撃的だった。
物語は一人の若い巡査・川藤浩志の死からはじまる。
主人公は野暮ったい語り口の中年巡査部長で、死んだ巡査の上司に当たる。
主人公が見た川藤の人物像と事件当日の出来事を丁寧に回想することで少しずつ明らかになっていく事件の全貌。
土壇場のどんでん返しとかトリックとかそういう大げさで単純な驚きではない。
むしろ淡々としていて地味でさえある。
それが全く予想だにしていなかった物語の本質に気づくとき、身の毛がよだつ。
人間の凡庸さと凡庸であるが故の恐ろしさに恐怖する。
文章の静けさとは裏腹に読了後の苛烈な余韻は長引いたように思う。
私はサスペンスやミステリーというものに対して何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。
米澤穂信という人は誰も気づかなかった場所に風穴を開けたのだ。
はじめのたった一話でこの作家のファンになった。
そして全六編がそれと同じくらいあるいはそれ以上の熱量でもって迎えてくれるのだからたまらない。
「至高のエンターテイメント」という謳い文句はぴったりだ。
一番恐ろしいのは、非日常ではなく共感出来る部分があるということ。
物語の発端はいつだって誰もが抱くような感情であったりありふれた動機なのだ。
全話面白いけれど特に好きなのは『夜警』、『柘榴』、『万灯』の三話かな。
『儚い羊たちの祝宴』
米澤穂信 著
新潮文庫 2011年
前述の『満願』が面白かったので、同じ著者の作品を購入した。
『儚い羊たちの祝宴』は全五編の短編で作られていおり、『満願』同様一つひとつの物語が重厚かつ奇想で毎話ドキリとさせられる。
なんとなく米澤穂信の書き方を捉えたと思い読み進めたとしても全く違う結末に至り、自分の浅はかさに落胆しつつ作者の明敏な知性に驚嘆する。
一見独立した物語の集いに見える五話だが、謎めいた一つのキーワードによってある一点に導かれる。
面白いのは五話目の『儚い羊たちの祝宴』を読むか読まないかで全体の見え方が明確に変わるということ。
語り部の立場は様々だが、この作品は全て裕福な家やそれに関わる人が題材となっている。
そのため文章は常に上品で、登場人物の言葉使いも細部まで行き届いている。
知性的でありながら押し付けがましいわけでもなく、その洗練された文章に思わず感激してしまう。
本当面白い。
もうすぐ注文した米澤穂信の新しい本が届く。
楽しみだ。
『パラレルな世紀への跳躍』
太田光 著
ダイヤモンド社 2003年
「好きな芸人は?」と聞かれれば迷いなく「爆笑問題の太田光」と答える。
誰に言ったこともないけれど、子どもの頃からずっとそうだった。
どこがいいのかさっぱり分からないけれど、なぜか彼を見ると安心するのだ。
となりに田中裕二がいるのもなんかいい。
毎週2回あるラジオはほとんど聞いているし、NHKの探検バクモンも欠かさず見ている。
とかなんとか言いながら定評のある太田さんの文章は今まで読んだことがなかった。
ふと彼の文章を読んでみたいと思い買ったのが太田さんの最初のエッセイ集『パラレルな世紀への跳躍』だ。
2000年から2003年にかけて「TVブロス」誌に掲載されたコラムをテーマごとに再構成し単行本化したものらしい。
一話3ページほどの短いエッセイが62本も掲載されている。
率直な感想は読みやすくて笑えて面白くて考えさせられる。
様式や題材は様々でエッセイ、フィクション、ノンフィクション、
あるいはフィクションとノンフィクションの境目をうろうろしているような話とか、
政治・世相・少年時代・SF・妄想となんでもありの3ページだ。
とても正直なのに「赤裸裸」とかそういう斜に構えた表現は似合わない。
感覚的な言葉で申し訳ないが、どどーんと突き抜けている感じ。
初めて読んだ太田さんのフィクション『アマガエル』では表現の瑞々しさと美しさに圧倒され、
タイトルにもなっている『パラレルな世紀への跳躍』では14年前に書かれたとは思えない太田さんの先見性に触れた。
そうかと思えば大学時代の運動会について書かれた『運動会の思い出』で声が出るほど笑ったりと、
実に多才で最後まで飽きずに読むことができる。
トイレに置いておくと丁度いい感じの温度であり長さかもしれない。
今宵の月は満月を通り過ぎて少しだけ欠けている。
今日のような雲一つない明るい夜空でも、月の下に微かに光るオリオン座を見ることができた。
さてはて読書の秋、いくつか本を読んでみてはいかがでしょう。