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<ブレードランナー2049>2017年衝撃作

2017年11月11日 | 映画
ネタバレの前に一つだけ言っておきたいことがある。

映画が好きな人、本物に出会いたい人は『ブレードランナー2049』を観るべきだということ。

もちろん3DIMAXで。

私にとっては、もう一度映画館へ観に行きたいと本気で思わせてくれる久々の超ヒット作品だった。

以下大いにネタバレありなのでご注意を。





『ブレードランナー2049』

製作総指揮:リドリー・スコット
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード
キャラクター原案:フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
原案:ハンプトン・ファンチャー
脚本:ハンプトン・ファンチャーandマイケル・グリーン



ストーリー

2049年、貧困と病気が蔓延するカリフォルニア。
人間と見分けのつかない《レプリカント》が労働力として製造され、人間社会と危うい共存関係を保っていた。
危険な《レプリカント》を取り締まる捜査官は《ブレードランナー》と呼ばれ、2つの社会の均衡と秩序を守っていた。
LA市警のブレードランナー“K”(R・ゴズリング)は、ある事件の捜査中に《レプリカント》開発に力を注ぐウォレス社の【巨大な陰謀】を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男にたどり着く。
彼は、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていた男、デッカード(H・フォード)だった。
いったい彼は何を知ってしまったのか?デッカードが命をかけて守り続けてきた〈秘密〉ー
人間と《レプリカント》、2つの世界の秩序を崩壊させ、人類存亡に関わる〈真実〉が今、明かされようとしている。
(公式ホームページより引用)



感想と考察

ベスト2017年映画であることはまず間違いがない。

もうすぐ『スターウォーズ 最後のジェダイ』が公開されるが、これを超えるとは到底思えない。

2015年に観たクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』以来の衝撃作である。

とにかく超面白い。



『ブレードランナー2049』は2時間44分とかなり長く、その時点で万人受けするエンターテイメントとは言い難い。

前作が興味深いのは一見嗜好的でありながら、映画史のメインストーリームを堂々と走れる力があったということ。

現に様々な分野に大きな影響を与えた伝説的な映画という華々しい地位を確保している。

対して、今作においては評価が割れる可能性は十分にあり得る。

この映画の静けさが受け入れられなければ、長くて退屈な映画に終わりかねないからだ。

しかしだからこそはまる人からすれば、深く心に突き刺さる忘れ難い映画になるのだと思う。

ヨーロッパ映画のような感じとでもいおうか。

またリアルタイムで『ブレードランナー』に出会えなかった新しい世代にとっては、

今作はブレードランナーという強烈かつシンボリックかなアイコンへの一次的接触を許してくれたかのような感慨すらある。



SF映画という括りにはおさまりきるはずもない。

哲学的であり観念的であり文学的でさえあるこの映画は、その本質に静寂を抱いている。

この映画に論理的なリアリティだけを求めるのであれば「なぜこんなに重大な任務を一人で背負っているのか」という疑問にぶつかるが、

これが「壮大なスケールで描かれるSF映画」というよりは「人間とは何かというシンプルかつ根本的な核心を携えた精神的な物語」であり、

だからこそ場面の一つひとつが静けさを保ち象徴的である必要があったのだと解釈する。

つまるところ押井守監督の『イノセンス』を彷彿とさせる美しい映画であった。

SF映像作品に限定した話になるが、一部で神アニメと評されるいくつかの日本アニメが有する侵すことのできない絶対領域があるとして、

『ブレードランナー2049』はその境界線をはじめて実写で超えてきた作品だと感じる。

どちらがいいとか悪いの話ではなく、答えのない問いへの迷妄と虚しさが紡ぐ繊細な日本的領域(私がそう思っていただけ)とでも言おうか、

あるいはそれが答えを得ぬまま物語が終了してしまう無情さとでも言うべきか。

明瞭な起承転結を望む人からすれば退屈とも捉えられかねない虚しくて孤独な内なる物語である。

重要な場面で繰り広げられる哲学的な会話も見物である。

ウォレス氏がデッカードに放った「君は苦痛を愛している」という言葉はなかなか印象的だった。

見終わった後の満足に加味されたえも言われぬ空虚感は小説を読み終わった後の気分に少し似ている。



この映画を面白くさせている要素の中で重要なのが、絶対的価値観、主に一部アメリカ映画でもてはやされる一方的な「正義」がどこにも存在しないことである。

個人的好みなのかもしれないが、ソレが振りかざされると途端に興ざめしてしまうのだ。

ハリウッド版『Ghost In The Shell』がどうにも受け入れられなかったのはそういった部分に大きく起因している。

対してこの映画は一人のレプリカントがいくつかの勢力の思惑に翻弄されながらも、自分自身に向き合い思い惑い自分だけの「大義」を見つける。

レプリカントにも関わらず、その選択があまりにも人間らしく悲しい、もう涙が止まらない。

押し付けがましくないので素直に物語をすくいとることができるのだ。



ブレードランナーの象徴ともいえる多文化が入り交じる混沌とした近未来的街並は今作にも踏襲され、

さらに見せる範囲を広げ、始まって早々に映し出されるカリフォルニアの無機質な上空映像のスケールには正直胸を躍らせた。

それを生活レベルまでズームインすれば、やはり闇鍋のように様々な者が無秩序の中を行き交ういかにもブレードランナー的街並になる訳だ。

日本語、中国語の看板が印象的だった前作からさらにハングル語の看板もちらほらと。

若くして亡くなった「ゼロ年代ベストSF」を世に残した伊藤計劃だが、そのベストSF作品『虐殺器官』の中で「読めない文字は情報というよりも意匠だ」という言葉を残している。

また、「理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすい。エキゾチック、とか、オリエンタル、とかいう言葉のもつクールさは、理解できない文化的コードから発している」とも。

そうすると欧米人から見たこの街並は日本人から見たそれともまた違うものなのだろう。

伊藤計劃はさらに同作で物語上の近未来の「プラハ」を説明するのに以下のように書いている。

「店という店に、街路という街路に、これでもかというくらいの情報が貼りつけられている。それら溢れかえった文字情報が、百塔の街であるプラハの景観に、香港のネオン群か、リドリー・スコットが創造したロサンゼルスのような混沌を付け加えてしまっていた。存在しないネオンによる、現実の風景への膨大な注釈の山。店の種別、営業時間、ミシュランの評価。代替現実(オルタナティヴ・リアリティ)は観光客むけの広告が幾重にも折り重なるカスバと化していた。」

観光という概念を取っ払えばそのまま『ブレードランナー』の街並を説明しているような文章だ。

「リドリー・スコットが創造したロサンゼルス」と直接的な表現を使った時点で、ここでのプラハがブレードランナーの街並みに似てると言った方が正確か。



というわけで要は、人は理解出来ない文字や文化に理解出来ないからこそ魅力を感じてしまうということだ。

誰の何が最初なのかは分からないが、そういった価値観を世界に大きく発信した前作『ブレードランナー』の功績はとてつもなく大きい。

それが意識的だったのか、単にヴィジュアルへの無意識的敬拝だったのかは分からないが。



今作では市街地以外の場所も多く登場するため世界の全容・雰囲気を捉えやすくなっている。

マヤ文明のピラミッドを思わせるタイレル社に比べ、今作では霧に覆われた禍々しく巨大なウォレス社が印象的だった。

そのトップ、ウォレス氏の部屋は水の中にある均整のとれた画一的空間で、幻想的というよりはむしろ抽象的といった方が当てはまる。

フランスの漫画家メビウスが描く『アンカル』の精神世界を想起させる空間だ。

ウォレス氏のイメージを構成する重要な役割を担う異空間的なその間では度々重要なやり取りがかわされた。



その他にも物語の始まりとなる農場に霧に覆われたデッカードの館、人工物が無尽蔵に広がるカリフォルニアの上空映像、ゴミ集積場の中にこつ然と現れる孤児院と美術デザインが洗練かつ徹底さており観る者を鷲掴みにする。

個人的には配管が張り巡らされた廃工場を思わせる孤児院のデザインがドンピシャ。

いずれにしろ退廃的雰囲気による終末感は拭えない。



『ブレードランナー2049』は後に続くであろう壮大な物語の始まりにすぎないのだと思う。

あまりにも美しく悲しいはじまりだ。

もう一回観に行きたいな。

書きたいことを好き勝手書きすぎてよく分からなくなってきたから今日はこれくらいにしておこうと思う。

今回は見終わった率直な感想と物語の本質的な部分について感じたことを書いた。

公式・非公式問わず外部からの情報に触れる前に、素直な感想を整理したかったのでとても抽象的な内容になっているかもしれない。

まだまだ書き足りないので思い立ったら順次書いて行くつもりだ。
コメント
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