歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

ツギハギのハリボテ

2018年03月13日 | 空想日記
子どもの頃、私はもっと確実なセカイに暮らしているのだと思っていた。

セカイなんていう認識も持たぬまま、掌に収まるほど小さい意識の中で目の前にあるものだけを見ていた。

いつから私の中のセカイが奥行きを持ちはじめ「世界」になったのか定かでない。



あの頃信じて疑わなかった全てのきちんとした世界は、

実際のところ想像よりずっと曖昧な地面の上に建っていた。



大人に従順な子どもだった訳ではないが、それでも大人という存在をどこかで信じていたような気がする。

子どもと大人は明確な線が引かれた全く別の存在だと認識ていたわけで、

だからこそ飽きもせず毎晩のように大人になることを恐れて枕を濡らしていたのだろう。

大人は涙なんか絶対に流さないと思っていた。

伝統を重んじるどこかの部族のように危険を伴う通過儀礼を経ていれば明確な大人になれたのだろうか。



大人だけでない、私は「日本」という構造体を必要以上に完璧な物だと思い込んでいた。

不明瞭な道具をかき集め夢想した末にできあがった抽象的な「日本」を無責任に信じていた。

その「日本」が何なのか考えもせずに。

3.11で「日本」を覆っていたヴェールがはがされ、それが想像よりずっと出鱈目な存在だということを知ったのだ。

いや、紛れもない現実を突きつけられて初めて「信じていたかった」だけなのだということを思い知ったという方が近いかもしれない。

そこで見えたはずの現実もほんの一部に過ぎないということをすでにみんな知っている。

そう、みんな知っている。

ところが「知っている」という免罪符は存在しないのだ。

それは自分自身に対する心の保険くらいにしかなり得ない。



私は煌びやかなテレビの世界が合板で作られていることを知っている。

セットの裏はむき出しの木材だということを。

しかし私はそれに目をつむって、あるいはそれを忘れて心から番組を楽しむことができる。



こんなことを考えるのは小説『ルー=ガルー』で京極夏彦のまどろっこしい文章を読んだせいかもしれない。

世の中のあらゆるものが数値化されたハイテクな近未来を舞台とするSF小説の中で彼は以下のように語っている。

「社会とか全体とか、なんとよぶのかよく解らないけど、

何か大きな、とてもしっかりしたものが中心にあって、

自分たちはそのしっかりしたものにどこかで繋がっている。

そう思うことで安心している。安定を保っている。」



子どもの頃はそれが親であったし、成長するに連れてそれが社会や国になったりするのだろうか。

ツギハギのハリボテな「日本」では、セカイが世界に変わったところで何ら変わりないように思う。

セカイは結局セカイのままで、今も目の前のものだけを見ている。

コメント
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