新国立美術館で開催されていたミュシャ展の最終日に滑り込みで行ってきた。
大分前からやっていたのは知っていたけど、アールヌーヴォーのミュシャを観に行くのはミーハーっぽくて嫌だった。
もともと好きで画集も持っているくせに、変なところがねじ曲がっている。
素直に観に行こうを思ったのは最終日の前日の朝にNHKでアンコール放送されていたミュシャの特集を見たからだ。
今回初来日しているのはミュシャがフランスから故郷のチェコに戻り16年かけて描いた全20点の大作『スラヴ叙事詩』。
『スラヴ叙事詩』は彼の残りの人生をひたすら彼の民族に捧げるという誓いのもと描かれた、
チェコおよびスラヴ民族の伝承・神話および歴史を描いた作品である。
多くの人はフランス時代をミュシャの全盛期だと思っているが(私もそうだった)、
晩年チェコで描いたこの壮大な作品を知らずして彼を語ることはできない。
歴史に虐げられ苦悩を強いられたスラヴ民族の生き様を描くため、彼は16年間それだけに没頭したのだ。
ミュシャ自身もまた抗えない歴史の波に翻弄され、最後はゲシュタポの刑務所に投獄され解放された後亡くなった。
これを逃したら一生見ることはできないかもしれない。
混んでいる美術館は大嫌いだけど、何が何でも行かなければならないと思った。
美術館に気軽に行けるというのは首都圏に住む利点の1つだ。
6月5日ミュシャ展最終日、大変な混雑が予想されたので9時過ぎには家を出た。
千代田線乃木坂駅のホームを降りて長い地下道を上って行くと遠くの方から「ミュシャ展ただいまの待ち時間90分」という案内が聞こえた。
改札を出てすぐのところに特設のチケット売り場がありそこにたどり着くまでにも長い列ができていた。
新国立美術館には何度も来ているがこんなのは初めてだ。
チケットを購入し美術館に到着するが、行列の最後尾はなんと外、これには参った。
一時間以上炎天下で、止まっては少しだけ進み止まっては少しだけ進みを繰り返した。
結局110分ほどかかりやっと会場入り。
初めに驚いたのは絵がとてつもなく大きいということ。
Wikipediaによれば『スラヴ叙事詩』は小さくて4×5m、大きくて6×8mだそう。
今回人口密度が70%くらいあり、どこから見ようが純粋な絵の全体像を把握するのは難しかった。
近くで見ようとすると絵の上の方が見えないし、遠くから見ようとすると絵の下の方が人の頭に隠れて見えない。
それでもただ大きいというだけで相当な迫力がある。
兎にも角にも、一枚目がすごかった。
『原故郷のスラヴ民族』だ。
「スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。
画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(写真・説明文はミュシャ展公式ホームページより)」
初めに近くで見て下の女性の眼差しに吸い込まれそうになった。
恐れ、不安、そんな感情が流れてきた。
上の方に大きな人がいるなと思いながら人に押されしょうがなく次の絵へ進む。
何枚か鑑賞し振り返ると正面に先ほど見た『原故郷のスラヴ民族』が厳かに鎮座していた。
その瞬間体が何かに縛られたような感覚に囚われた。
神様がいる。
注釈は読んでなかった。
ただ、神様がいると思った。
神様の後ろからこちらに強い風が吹いている。
思わず尻餅をついてしまいそうなほど、とてつもない迫力だった。
実際は神に慈悲を乞うスラヴ民族の司祭だった訳だが、それは置いておこう。
『原故郷のスラヴ民族』を見ただけで、この展覧会に来て本当によかったと思った。
その他にもいくつか載せておこう。
3枚目『スラヴ式典礼の導入』
「ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。
先王は二人の僧侶に聖書をスラヴ語に翻訳させ、それによりゲルマン人司教やローマ教皇を憤慨させていた。
スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
8枚目『グルンヴァルトの戦いの後』
「15世紀初頭、ドイツ騎士団は北方スラヴ諸国に侵攻した。
ポーランド王ヴラジスラフ王とボヘミア王ヴァーツラフ4世の連合軍は、1410年、グルンヴァルトの戦いでドイツ軍に勝利した。
1924年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
12枚目『ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー』
「フス戦争の時代、ヴォドニャヌイは熾烈な戦いの場となった。
怒りに満ち、悲しみにくれる住民たちは、司祭にして偉大な哲学者であるヘルチツキーに救いを求めた。
司祭は聖書を手に、復讐しないよう彼らを諭した(1433年)。
1918年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
17枚目『聖アトス山』
「ギリシャのアトス山は正教会の最も神聖な場所である。
スラヴ民族をビザンティンの教育や文化へとつないだ正教会への賛辞をこめた作品。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
18枚目『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い』
「1894年にスラヴ文化の再興を求めるオムラジナと呼ばれる民族主義的な団体が結成された。
20世紀初頭に団体は弾圧を受け、提唱者たちは公職から締め出された。
1926年(未完成) テンペラ、油彩/カンヴァス 390×590cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
20枚目『スラヴ民族の賛歌』
「スラヴ民族の勝利のヴィジョン。
画面右下の青はスラヴ史の神話の時代、左上の赤はフス戦争、中央の黒い人物像はスラヴ民族の敵、
黄色い人物たちはスラヴ民族に自由と平和と団結をもたらす人々。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 480×405cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
感想を書くのがおこがましく感じるほどの凄まじい展覧会だった。
展覧会でこんなに疲れたのは初めてかもしれない。
絵が大きいので作品数は少ないのだが、一つひとつの絵が放つエネルギーが桁違いだった。
絵を描く者として凄く稚拙な表現かもしれないが、うますぎてそのうまさに理解が追いつかない。
「これ最初にイメージ出来てるの?そんなのありえないよ!」
例えば写実主義はどんなにうまかろうがそこにあるものを客観的に描くだけであって(もちろん相当高い技術を持っているには違いないが)、
とてもわかりやすく鍛錬を重ねればいつか自分にも手が届くのではないかとぎりぎり妄想出来る。
しかしミュシャは相当高い写実的技術を持っている上に、精神性を形にする独特な感性さらには表現方法を持っている。
彼は主義などに縛られていないのだろうが、端から見るとリアリズムとロマンティシズムの狭間にあるような感じ。
現実ではなく想像を絵にするというのは非常に難しいことなのだ。
構図、配色があまりにも天才的で、どれほど空間を把握する能力に恵まれていた(あるいは培った)のだろうと想像すると気が遠くなる。
『スラヴ叙事詩』は通してテンペラ画法なる方法で描かれている。
それが何なのかよく分からないが、チューブの油絵が普及する以前の主要な画法だったのだとか。
今回のミュシャ展ではフランス時代の代表的なポスター画なども多く展示されていた。
20枚の大作を観たあとの、ポップささえ感じるリトグラフで描かれたアールヌーヴォーの代表作、幅広すぎるよ本当。
『四芸術』-「詩」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」;(1898年)
連作『四つの花』(1898)
意気消沈したけど心から行ってよかったと思う。
出口付近でもう一度だけ『原故郷のスラヴ民族』を見たいと思ったが、この人の多さでは逆戻りは無理だと諦めた。
『スラブ叙事詩』で描かれている人間はチェコに住む人がモデルをしたそうな。
いろいろ詳しい人が書いたブログなど面白かったので載せておく。
「最強のミュシャ展がスタート!スラヴ叙事詩全20作を見逃すな!【展覧会感想】」
「ミュシャ展公式ホームページ」
いやいや、参った。
大分前からやっていたのは知っていたけど、アールヌーヴォーのミュシャを観に行くのはミーハーっぽくて嫌だった。
もともと好きで画集も持っているくせに、変なところがねじ曲がっている。
素直に観に行こうを思ったのは最終日の前日の朝にNHKでアンコール放送されていたミュシャの特集を見たからだ。
今回初来日しているのはミュシャがフランスから故郷のチェコに戻り16年かけて描いた全20点の大作『スラヴ叙事詩』。
『スラヴ叙事詩』は彼の残りの人生をひたすら彼の民族に捧げるという誓いのもと描かれた、
チェコおよびスラヴ民族の伝承・神話および歴史を描いた作品である。
多くの人はフランス時代をミュシャの全盛期だと思っているが(私もそうだった)、
晩年チェコで描いたこの壮大な作品を知らずして彼を語ることはできない。
歴史に虐げられ苦悩を強いられたスラヴ民族の生き様を描くため、彼は16年間それだけに没頭したのだ。
ミュシャ自身もまた抗えない歴史の波に翻弄され、最後はゲシュタポの刑務所に投獄され解放された後亡くなった。
これを逃したら一生見ることはできないかもしれない。
混んでいる美術館は大嫌いだけど、何が何でも行かなければならないと思った。
美術館に気軽に行けるというのは首都圏に住む利点の1つだ。
6月5日ミュシャ展最終日、大変な混雑が予想されたので9時過ぎには家を出た。
千代田線乃木坂駅のホームを降りて長い地下道を上って行くと遠くの方から「ミュシャ展ただいまの待ち時間90分」という案内が聞こえた。
改札を出てすぐのところに特設のチケット売り場がありそこにたどり着くまでにも長い列ができていた。
新国立美術館には何度も来ているがこんなのは初めてだ。
チケットを購入し美術館に到着するが、行列の最後尾はなんと外、これには参った。
一時間以上炎天下で、止まっては少しだけ進み止まっては少しだけ進みを繰り返した。
結局110分ほどかかりやっと会場入り。
初めに驚いたのは絵がとてつもなく大きいということ。
Wikipediaによれば『スラヴ叙事詩』は小さくて4×5m、大きくて6×8mだそう。
今回人口密度が70%くらいあり、どこから見ようが純粋な絵の全体像を把握するのは難しかった。
近くで見ようとすると絵の上の方が見えないし、遠くから見ようとすると絵の下の方が人の頭に隠れて見えない。
それでもただ大きいというだけで相当な迫力がある。
兎にも角にも、一枚目がすごかった。
『原故郷のスラヴ民族』だ。
「スラヴ民族の祖先(3-6世紀)が他民族の侵入者から身を隠す様子を描いた場面。
画面右上では、防衛と平和の擬人像に支えられたスラヴ民族の司祭が神に慈悲を乞う。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(写真・説明文はミュシャ展公式ホームページより)」
初めに近くで見て下の女性の眼差しに吸い込まれそうになった。
恐れ、不安、そんな感情が流れてきた。
上の方に大きな人がいるなと思いながら人に押されしょうがなく次の絵へ進む。
何枚か鑑賞し振り返ると正面に先ほど見た『原故郷のスラヴ民族』が厳かに鎮座していた。
その瞬間体が何かに縛られたような感覚に囚われた。
神様がいる。
注釈は読んでなかった。
ただ、神様がいると思った。
神様の後ろからこちらに強い風が吹いている。
思わず尻餅をついてしまいそうなほど、とてつもない迫力だった。
実際は神に慈悲を乞うスラヴ民族の司祭だった訳だが、それは置いておこう。
『原故郷のスラヴ民族』を見ただけで、この展覧会に来て本当によかったと思った。
その他にもいくつか載せておこう。
3枚目『スラヴ式典礼の導入』
「ヴェレフラード城の中庭で、王に宗教儀式でスラヴ語の使用を認可する教皇勅書が読み上げられる場面(9世紀)。
先王は二人の僧侶に聖書をスラヴ語に翻訳させ、それによりゲルマン人司教やローマ教皇を憤慨させていた。
スラヴ式典礼を導入し正教会へ傾倒することで、スラヴ人はローマ教皇や神聖ローマ皇帝の支配を逃れることができた。
1912年 テンペラ、油彩/カンヴァス 610×810cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
8枚目『グルンヴァルトの戦いの後』
「15世紀初頭、ドイツ騎士団は北方スラヴ諸国に侵攻した。
ポーランド王ヴラジスラフ王とボヘミア王ヴァーツラフ4世の連合軍は、1410年、グルンヴァルトの戦いでドイツ軍に勝利した。
1924年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
12枚目『ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー』
「フス戦争の時代、ヴォドニャヌイは熾烈な戦いの場となった。
怒りに満ち、悲しみにくれる住民たちは、司祭にして偉大な哲学者であるヘルチツキーに救いを求めた。
司祭は聖書を手に、復讐しないよう彼らを諭した(1433年)。
1918年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×610cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
17枚目『聖アトス山』
「ギリシャのアトス山は正教会の最も神聖な場所である。
スラヴ民族をビザンティンの教育や文化へとつないだ正教会への賛辞をこめた作品。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 405×480cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
18枚目『スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い』
「1894年にスラヴ文化の再興を求めるオムラジナと呼ばれる民族主義的な団体が結成された。
20世紀初頭に団体は弾圧を受け、提唱者たちは公職から締め出された。
1926年(未完成) テンペラ、油彩/カンヴァス 390×590cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
20枚目『スラヴ民族の賛歌』
「スラヴ民族の勝利のヴィジョン。
画面右下の青はスラヴ史の神話の時代、左上の赤はフス戦争、中央の黒い人物像はスラヴ民族の敵、
黄色い人物たちはスラヴ民族に自由と平和と団結をもたらす人々。
1926年 テンペラ、油彩/カンヴァス 480×405cm(ミュシャ展公式ホームページより)」
感想を書くのがおこがましく感じるほどの凄まじい展覧会だった。
展覧会でこんなに疲れたのは初めてかもしれない。
絵が大きいので作品数は少ないのだが、一つひとつの絵が放つエネルギーが桁違いだった。
絵を描く者として凄く稚拙な表現かもしれないが、うますぎてそのうまさに理解が追いつかない。
「これ最初にイメージ出来てるの?そんなのありえないよ!」
例えば写実主義はどんなにうまかろうがそこにあるものを客観的に描くだけであって(もちろん相当高い技術を持っているには違いないが)、
とてもわかりやすく鍛錬を重ねればいつか自分にも手が届くのではないかとぎりぎり妄想出来る。
しかしミュシャは相当高い写実的技術を持っている上に、精神性を形にする独特な感性さらには表現方法を持っている。
彼は主義などに縛られていないのだろうが、端から見るとリアリズムとロマンティシズムの狭間にあるような感じ。
現実ではなく想像を絵にするというのは非常に難しいことなのだ。
構図、配色があまりにも天才的で、どれほど空間を把握する能力に恵まれていた(あるいは培った)のだろうと想像すると気が遠くなる。
『スラヴ叙事詩』は通してテンペラ画法なる方法で描かれている。
それが何なのかよく分からないが、チューブの油絵が普及する以前の主要な画法だったのだとか。
今回のミュシャ展ではフランス時代の代表的なポスター画なども多く展示されていた。
20枚の大作を観たあとの、ポップささえ感じるリトグラフで描かれたアールヌーヴォーの代表作、幅広すぎるよ本当。
『四芸術』-「詩」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」;(1898年)
連作『四つの花』(1898)
意気消沈したけど心から行ってよかったと思う。
出口付近でもう一度だけ『原故郷のスラヴ民族』を見たいと思ったが、この人の多さでは逆戻りは無理だと諦めた。
『スラブ叙事詩』で描かれている人間はチェコに住む人がモデルをしたそうな。
いろいろ詳しい人が書いたブログなど面白かったので載せておく。
「最強のミュシャ展がスタート!スラヴ叙事詩全20作を見逃すな!【展覧会感想】」
「ミュシャ展公式ホームページ」
いやいや、参った。
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