「面白い映画があってね、ちょっと話していい?」と聞いて、
「うんいいよ!」と話がスムーズに進むことはほとんどない。
大抵は「それ観るからダメ」とか「絶対言わないで!」が返ってくる。
だからたまにいるネタバレに寛容な人々はとても貴重だ。
先に映画を観た者はなぜその話をしたがるのか、
それは面白さを共有したり、自分の考えをアウトプットしたいからだ。
あるいはいかにオススメ映画なのかを伝えたいというのもあるだろう。
単に会話を楽しみたいからという場合も大いに有り得る。
観ていない者からすれば自分勝手に思えるかもしれない、あるいは余計なお世話?
ネタバレを嫌がる一番の理由は純粋に作品を楽しみたいから。
作品を、作品を享受する時間を心から大事にしているから。
エンターテインメントにちゃんと向き合っているからだ。
要は真面目なのだ。
20代私は一人で映画を観るのが好きだった。
実家では父や母がすぐネタバレするし、ストーリーを予測して大きい声で喋るし、
平気で寝るし、立ち上がってどっか行っちゃうし、気にせず再参加する。
そういう賑やかな映画鑑賞に思いっきりチョップして水を刺してきた。
「静かにして!」だとか「言わないでよ!」とか、予測すら嫌がったもんだ。
家を出て静かに映画を観ることの幸せを噛み締めた。
私こそが生真面目ネタバレ厳禁女だったのだ。
私は無自覚とはいえ過剰なネタバレ厳禁社会の参列者だったのである。
30代私はネタバレ厳禁社会にすっかり辟易している。
あの賑やかで煩雑な映画鑑賞よもう一度、なんて。
映画を観るという行為は画面の中だけにあるわけじゃない。
観る側の空間を内包した全体的な体験なのではないだろうか。
実家の映画鑑賞には画面上に負けぬ劣らぬ空間が手前にあったということかもしれない。
そんないいもんじゃないか。
近頃は昔の映画ですら四方八方から「ネタバレやめてください!」が飛んでくる始末だ。
映画評論家などはたまったモンじゃないだろう。
評論すら弁えていない輩にいちゃもんつけられちゃあ話にならない。
たまに紹介という程で言い過ぎる評論家もいるけれどご愛嬌。
いつから観ていない者がそんなにえらくなったのか、あるいはえらそうになったのか。
私も一助を担った身としては耳の痛い話である。
ネタバレ厳禁を重んずる風潮は、言い換えればストーリー至上主義。
その場合ラストへの期待が大きくなってしまう。
ずっと面白くても最後が気に入らなかったら駄作になる可能性がある。
散らばった付箋を全部回収し、素晴らしきラストを飾った物ばかりが評価されるとなれば、
そんな一辺倒な作品群には興味がわかない。
例えば漫画『20世紀少年』は途中までは文句なく面白い。
しかしラストはといえば覚えてないくらいパッとしなかった。
それでも評価がひっくり返らないほど面白い部分は面白かった。
だから私はこの漫画が大好きだ。
面白い部分を面白いと言っていこう。
もっと全体的に、大きい視野で、いろいろな角度から作品を楽しもう。
あくまで観た者にとって観ていない者に対する配慮は大切だ。
その上で観ていない者も話を聞くくらいの寛容さは持つべきだ。
文脈は違ったか以前時事芸人のプチ鹿島が「みんな自分の感性を信じすぎている」と言っていた。
その時は自分の感性を大切にするのはいいことでは?と思っていたけれど、今ならなんとなくわかる。
自分の感性に固執することは世界を狭くすることにつながる。
孤立無援の絶対的自分などつまらないじゃないか。
それこそ余計なお世話か。
私がなぜネタバレ厳禁に物申すのかというと、危惧するところがあるからだ。
過剰なネタバレ厳禁社会は生真面目な社会、一辺倒な社会、余裕のない社会、
コンプライアンス社会、人が孤立した社会の裏返しなのではないかと思うからだ。
これは芸能人の失敗を許さない社会とも同義である。
せせこましく不寛容な社会だ。
一人一人がネタバレを厭うことはそこまで問題ではない。
私が気持ち悪いのはさも「ネタバレ厳禁」が社会の守られるべき常識だと振りかざす風潮。
そんな旗、誰が振りかざしているんだか。
誰ともなく少しずついろんな方面から形作られた真ん中空洞の虚構に近いかもしれない。
作品に対して少しいい加減に向き合うと案外面白い出会いがあったりする。
正月弟が昼から映画を観はじめたところで私はサイクリングへ出かけた。
帰ってきたらまだ映画鑑賞は続いていて夫も参加していた。
トム・ハンクスが無人島らしき風景の中で言葉もなくもがいていた。
なんかすごそうな映画だなぁと思いつつ吸引力がすごかったので私もその場に居座った。
以前だったら「ちゃんと最初から見ないと意味がない」とか言って2階に上がっていたところだ。
残すところ3、40分だったと思う。
めーーーーーっちゃ面白かった、『キャスト・アウェイ』。
エンドロールを観て驚いた、ロバートゼメキス監督作品だった。
言わずと知れた名作らしい。
多分自分から前半を観ることは当分ないと思う。
それでも『キャスト・アウェイ』は面白かったと自信を持って言うだろう。
いい加減にもほどがある?
ネタバレや事前情報が鑑賞時に生きてくることも多々ある。
最近で言えば『愛の不時着』だ。
冒頭韓国の財閥の美人令嬢が北朝鮮に不時着してしまい右も左もわからぬまま逃げ惑い、
命からがら韓国に帰ってきたと思ったら様相の違う村に出て戸惑うシーンを観て、
かつてラジオで映画評論家が言っていたことを思い出した。
『愛の不時着』の何が衝撃なのかというと、今まで未知だった北朝鮮の庶民の生活を丁寧に描いていることだ。
脱北者への徹底した取材によって実現した北朝鮮の風景はとてもリアルなはずだと言っていた。
北朝鮮のとある村の早朝、時代錯誤な風景の中で立ちすくむ主人公。
その場面がスッと入ってきたのは前情報があったからだと思う。
元々謎めいているのだから一方的な偏見で描かれた北朝鮮より、より現実に近い北朝鮮の方が面白いに決まっている。
その怪しく得体の知れない村が生活していくうちに居心地のいい場所になっていく変遷が素晴らしい。
住む人は変わらぬ人なのだというメッセージが丁寧に描かれていて思い出しただけで泣けてくる。
『愛の不時着』は愛のパートがメインだけど、村の人や部下の軍人の物語が一番好きだ。
主人公たちは愛の中心にいるのだからどう転んでも救われるけれど、
自ら巻き込まれた村人や部下の友情を思うと彼らだけは救ってくれと心から願ったものだ。
話がだいぶずれてしまった。
ネタバレ厳禁が加速すれば、いつか落語のネタバレ禁止なんて冗談みたいな事態にもなりかねない。
第一印象が大事とも言うけれど、第一印象なんて忘れていくものさ。
どうせ過去になるならもっと作品を寛容に捉えてもいいのでは。
色々言ったけれど正直なところ私がネタバレ厳禁を気にせず好き放題に感想を言いたいだけなのかもしれない。
一番身近ともいえる夫が読むわけのない小説の感想すら聞くのを嫌がる。
私はいったいどこにアウトプットすればいいんだ〜私にしたらアウトプットも含めて作品鑑賞なのに!
夫からしたらいい迷惑である。
『WORKER』
「うんいいよ!」と話がスムーズに進むことはほとんどない。
大抵は「それ観るからダメ」とか「絶対言わないで!」が返ってくる。
だからたまにいるネタバレに寛容な人々はとても貴重だ。
先に映画を観た者はなぜその話をしたがるのか、
それは面白さを共有したり、自分の考えをアウトプットしたいからだ。
あるいはいかにオススメ映画なのかを伝えたいというのもあるだろう。
単に会話を楽しみたいからという場合も大いに有り得る。
観ていない者からすれば自分勝手に思えるかもしれない、あるいは余計なお世話?
ネタバレを嫌がる一番の理由は純粋に作品を楽しみたいから。
作品を、作品を享受する時間を心から大事にしているから。
エンターテインメントにちゃんと向き合っているからだ。
要は真面目なのだ。
20代私は一人で映画を観るのが好きだった。
実家では父や母がすぐネタバレするし、ストーリーを予測して大きい声で喋るし、
平気で寝るし、立ち上がってどっか行っちゃうし、気にせず再参加する。
そういう賑やかな映画鑑賞に思いっきりチョップして水を刺してきた。
「静かにして!」だとか「言わないでよ!」とか、予測すら嫌がったもんだ。
家を出て静かに映画を観ることの幸せを噛み締めた。
私こそが生真面目ネタバレ厳禁女だったのだ。
私は無自覚とはいえ過剰なネタバレ厳禁社会の参列者だったのである。
30代私はネタバレ厳禁社会にすっかり辟易している。
あの賑やかで煩雑な映画鑑賞よもう一度、なんて。
映画を観るという行為は画面の中だけにあるわけじゃない。
観る側の空間を内包した全体的な体験なのではないだろうか。
実家の映画鑑賞には画面上に負けぬ劣らぬ空間が手前にあったということかもしれない。
そんないいもんじゃないか。
近頃は昔の映画ですら四方八方から「ネタバレやめてください!」が飛んでくる始末だ。
映画評論家などはたまったモンじゃないだろう。
評論すら弁えていない輩にいちゃもんつけられちゃあ話にならない。
たまに紹介という程で言い過ぎる評論家もいるけれどご愛嬌。
いつから観ていない者がそんなにえらくなったのか、あるいはえらそうになったのか。
私も一助を担った身としては耳の痛い話である。
ネタバレ厳禁を重んずる風潮は、言い換えればストーリー至上主義。
その場合ラストへの期待が大きくなってしまう。
ずっと面白くても最後が気に入らなかったら駄作になる可能性がある。
散らばった付箋を全部回収し、素晴らしきラストを飾った物ばかりが評価されるとなれば、
そんな一辺倒な作品群には興味がわかない。
例えば漫画『20世紀少年』は途中までは文句なく面白い。
しかしラストはといえば覚えてないくらいパッとしなかった。
それでも評価がひっくり返らないほど面白い部分は面白かった。
だから私はこの漫画が大好きだ。
面白い部分を面白いと言っていこう。
もっと全体的に、大きい視野で、いろいろな角度から作品を楽しもう。
あくまで観た者にとって観ていない者に対する配慮は大切だ。
その上で観ていない者も話を聞くくらいの寛容さは持つべきだ。
文脈は違ったか以前時事芸人のプチ鹿島が「みんな自分の感性を信じすぎている」と言っていた。
その時は自分の感性を大切にするのはいいことでは?と思っていたけれど、今ならなんとなくわかる。
自分の感性に固執することは世界を狭くすることにつながる。
孤立無援の絶対的自分などつまらないじゃないか。
それこそ余計なお世話か。
私がなぜネタバレ厳禁に物申すのかというと、危惧するところがあるからだ。
過剰なネタバレ厳禁社会は生真面目な社会、一辺倒な社会、余裕のない社会、
コンプライアンス社会、人が孤立した社会の裏返しなのではないかと思うからだ。
これは芸能人の失敗を許さない社会とも同義である。
せせこましく不寛容な社会だ。
一人一人がネタバレを厭うことはそこまで問題ではない。
私が気持ち悪いのはさも「ネタバレ厳禁」が社会の守られるべき常識だと振りかざす風潮。
そんな旗、誰が振りかざしているんだか。
誰ともなく少しずついろんな方面から形作られた真ん中空洞の虚構に近いかもしれない。
作品に対して少しいい加減に向き合うと案外面白い出会いがあったりする。
正月弟が昼から映画を観はじめたところで私はサイクリングへ出かけた。
帰ってきたらまだ映画鑑賞は続いていて夫も参加していた。
トム・ハンクスが無人島らしき風景の中で言葉もなくもがいていた。
なんかすごそうな映画だなぁと思いつつ吸引力がすごかったので私もその場に居座った。
以前だったら「ちゃんと最初から見ないと意味がない」とか言って2階に上がっていたところだ。
残すところ3、40分だったと思う。
めーーーーーっちゃ面白かった、『キャスト・アウェイ』。
エンドロールを観て驚いた、ロバートゼメキス監督作品だった。
言わずと知れた名作らしい。
多分自分から前半を観ることは当分ないと思う。
それでも『キャスト・アウェイ』は面白かったと自信を持って言うだろう。
いい加減にもほどがある?
ネタバレや事前情報が鑑賞時に生きてくることも多々ある。
最近で言えば『愛の不時着』だ。
冒頭韓国の財閥の美人令嬢が北朝鮮に不時着してしまい右も左もわからぬまま逃げ惑い、
命からがら韓国に帰ってきたと思ったら様相の違う村に出て戸惑うシーンを観て、
かつてラジオで映画評論家が言っていたことを思い出した。
『愛の不時着』の何が衝撃なのかというと、今まで未知だった北朝鮮の庶民の生活を丁寧に描いていることだ。
脱北者への徹底した取材によって実現した北朝鮮の風景はとてもリアルなはずだと言っていた。
北朝鮮のとある村の早朝、時代錯誤な風景の中で立ちすくむ主人公。
その場面がスッと入ってきたのは前情報があったからだと思う。
元々謎めいているのだから一方的な偏見で描かれた北朝鮮より、より現実に近い北朝鮮の方が面白いに決まっている。
その怪しく得体の知れない村が生活していくうちに居心地のいい場所になっていく変遷が素晴らしい。
住む人は変わらぬ人なのだというメッセージが丁寧に描かれていて思い出しただけで泣けてくる。
『愛の不時着』は愛のパートがメインだけど、村の人や部下の軍人の物語が一番好きだ。
主人公たちは愛の中心にいるのだからどう転んでも救われるけれど、
自ら巻き込まれた村人や部下の友情を思うと彼らだけは救ってくれと心から願ったものだ。
話がだいぶずれてしまった。
ネタバレ厳禁が加速すれば、いつか落語のネタバレ禁止なんて冗談みたいな事態にもなりかねない。
第一印象が大事とも言うけれど、第一印象なんて忘れていくものさ。
どうせ過去になるならもっと作品を寛容に捉えてもいいのでは。
色々言ったけれど正直なところ私がネタバレ厳禁を気にせず好き放題に感想を言いたいだけなのかもしれない。
一番身近ともいえる夫が読むわけのない小説の感想すら聞くのを嫌がる。
私はいったいどこにアウトプットすればいいんだ〜私にしたらアウトプットも含めて作品鑑賞なのに!
夫からしたらいい迷惑である。
『WORKER』
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