歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

男のサガ

2018年03月14日 | ショートショート
 随分長い間ここにいる。閉じ込められたというのが正しい状況説明になるだろうか。とにかく一刻も早くここから抜け出したいのだが、一向に解決の兆しは見えてこない。
 私をこの状況におとしめている一番の原因はなんだろうか。神様のいたずらか、私の不注意か、それとも幾人かの怠慢が連鎖した先にある単なる偶然か。今日は非常に大事な案件を任されている。本来ならばこんな見知らぬ土地で窮屈な箱に閉じ込められ呑気に打ちひしがれている場合ではないのだ。
 「なぜ」という問いかけがここでは意味をなさないことを私は知っている。しかし問わずにはいられない。朝からの行動を頭の中で何度も巻き戻し確認してみるが、自分の落ち度がどうしても見当たらず答えのない泥沼へ沈んでゆく。私の行動はなんら問題なかったはずだ、私はどこで間違えてしまったのだろうか。
 今朝はいつもより一時間ほど早く目覚めた。あとは普段通りそのまま家を出て一度会社に寄ってから早めにこの町へ来た。先方との待ち合わせにはまだ随分時間があったので、資料のチェックがてら軽い昼食をとるためカフェでもないかと住宅地を散策した。待ち合わせに指定されたビルはその住宅街を抜けた先にある。これまで分刻みのカチカチなスケジュールをこなしてきた私だがたまにはこういうのもいい。早く来てしまったのは柄にもなく少し緊張していたからかもしれない。会議室で見た専務の老獪な微笑みが頭に張り付いていて今にも何か喋りだしそうだ。 
 めぼしい店がなかなか見当たらずとぼとぼ歩いていると、青い外壁が目立つ大きな家が目に入った。何の気なしにその家の角を曲がると急に開けた空間が現れた。きれいに整備された公園だ。平日の昼間ということもあって公園内にはひとっこ一人いない。都合のいいことに目の前にはコンビニがある、天気もいい、という訳でしばらくそこで時間を潰すことにした。早速コンビニでおにぎりとお茶と口臭対策用のタブレットを買い公園へ足を踏み入れたのだが、次の瞬間突然足のつま先から体の中心にかけてビカビカッと稲妻が走った。気づいた時にはこのざまだ。

 誰かは私のいるこの場所を精神世界だと考えるかもしれない。程よい狭さに画一的な直線といくつかの美しい曲線で構成されるこの空間を象徴的だと言う人もごく稀にいるだろう。その場合私は現実で背負わされた重圧に耐えきれず内なる世界に閉じこもってしまった情けないやつという解釈になるだろうか。しかしことはもう少し複雑だ。ここは論理的に構築された完全なる現実世界である。そして私は精神的側面を考慮した結果、物理的にこの部屋から出ることができなくなった。
 いや、待てよ。鍵をかけているのが己のつくる心の枷自体だとしたら、ある意味で私は精神世界で戦っていると言ってもいいのかもしれない。こんな状況に陥っても未だ陳腐なプライドを捨てきれず空虚な自分にしがみつこうとする。なんて醜く哀しい性よ。その場合鍵はより頑丈なものとなる。
 映画『オールドボーイ』の主人公は全く情報を与えられぬまま何年も監禁された。与えられた食事をして誰にも会わずただ生きながらえる。「なぜ閉じ込められたのか」という根本的な疑問はいったい何年目に消え去ったのだろうか。なんて過酷なのだろう。それを思えば、私の置かれた状況は非常に短期的問題であり事の全容も把握しやすい。ただただ好機を待つのみである。
 
 思い返せばここまでくるのに随分時間がかかった。めまぐるしい忙しさの中で過ぎた日々を振り返る暇などほとんどなかった。今与えられたこの時間は本来私に必要なものだったのかもしれない。きっとそうだ。今日の仕事は私の進退に関わる重要な任務だが、それより今後も定年までこの会社にすがりついて生きてゆくのかもう一度冷静に考えなければならない。
 仕事を辞めた私を家族は家族として受け入れてくれるだろうか。ほとんど家庭を顧みなかった私を妻は許してくれるだろうか。彼女は子育てをたった一人で完璧にやってのけた。二人の息子は立派に成人して独立し自分たちの世界をつくっている。もしここから出ることができれば、まっすぐ近所の花屋へ行って花束をこしらえてもらい妻の元へ飛んで行こう。そして長年伝えることのできなかった感謝の気持ちをちゃんと言葉にするのだ。彼女はきっと戸惑うだろう。それでも一瞬でいい、昔のように柔らかく笑ってくれたら私は世界一の幸せ者だ。

ギー、ガチャッ
 突然数メートル先で扉が開く音がした。ペタペタペタと鈍臭い足音が近づいてくる。ただならぬ緊張感が私の胸を襲う。何者だ、私の味方なのかそうでないのかここで見極めなければならない。耳を澄ませろ。感覚を研ぎすませ。
怠そうな足音は私のボックスを通り過ぎ数歩先で立ち止まった。
ガチャッ、ガチャガチャ、バタン、ガチャッ、シャカシャカシャカシャカ、これは…
「あのもしかして清掃員の方ですか。」
「あい?そうですが。」
ああ、神様ありがとう。
「すみませんが、トイレットペーパーを一ついただけますでしょうか。」

 公園に入るや否やお腹を下しトイレットペーパーの切れた公衆トイレに閉じこもって約二時間、念願の解放、本当に運が良かった。今日の空はなんて素晴らしいのだろう。こんなに晴れやかな日がかつてあっただろうか。人気のない公園の一角、一人清々しい顔でスーツをピシッと整え腕時計に目をやる。よし、まだぎりぎり間に合う。そして私は花束のはの字も忘れて、まっすぐ取引先の待つビルへと向かったのであった。
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ツギハギのハリボテ

2018年03月13日 | 空想日記
子どもの頃、私はもっと確実なセカイに暮らしているのだと思っていた。

セカイなんていう認識も持たぬまま、掌に収まるほど小さい意識の中で目の前にあるものだけを見ていた。

いつから私の中のセカイが奥行きを持ちはじめ「世界」になったのか定かでない。



あの頃信じて疑わなかった全てのきちんとした世界は、

実際のところ想像よりずっと曖昧な地面の上に建っていた。



大人に従順な子どもだった訳ではないが、それでも大人という存在をどこかで信じていたような気がする。

子どもと大人は明確な線が引かれた全く別の存在だと認識ていたわけで、

だからこそ飽きもせず毎晩のように大人になることを恐れて枕を濡らしていたのだろう。

大人は涙なんか絶対に流さないと思っていた。

伝統を重んじるどこかの部族のように危険を伴う通過儀礼を経ていれば明確な大人になれたのだろうか。



大人だけでない、私は「日本」という構造体を必要以上に完璧な物だと思い込んでいた。

不明瞭な道具をかき集め夢想した末にできあがった抽象的な「日本」を無責任に信じていた。

その「日本」が何なのか考えもせずに。

3.11で「日本」を覆っていたヴェールがはがされ、それが想像よりずっと出鱈目な存在だということを知ったのだ。

いや、紛れもない現実を突きつけられて初めて「信じていたかった」だけなのだということを思い知ったという方が近いかもしれない。

そこで見えたはずの現実もほんの一部に過ぎないということをすでにみんな知っている。

そう、みんな知っている。

ところが「知っている」という免罪符は存在しないのだ。

それは自分自身に対する心の保険くらいにしかなり得ない。



私は煌びやかなテレビの世界が合板で作られていることを知っている。

セットの裏はむき出しの木材だということを。

しかし私はそれに目をつむって、あるいはそれを忘れて心から番組を楽しむことができる。



こんなことを考えるのは小説『ルー=ガルー』で京極夏彦のまどろっこしい文章を読んだせいかもしれない。

世の中のあらゆるものが数値化されたハイテクな近未来を舞台とするSF小説の中で彼は以下のように語っている。

「社会とか全体とか、なんとよぶのかよく解らないけど、

何か大きな、とてもしっかりしたものが中心にあって、

自分たちはそのしっかりしたものにどこかで繋がっている。

そう思うことで安心している。安定を保っている。」



子どもの頃はそれが親であったし、成長するに連れてそれが社会や国になったりするのだろうか。

ツギハギのハリボテな「日本」では、セカイが世界に変わったところで何ら変わりないように思う。

セカイは結局セカイのままで、今も目の前のものだけを見ている。

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ちいさいきみとおおきいぼく

2018年03月11日 | 
待ち合わせや用事がある時はよく町の本屋で暇を潰す。

「暇を潰す」というにはあまりに有意義な時間かもしれない。



1年以上前だったか、待ち合わせまでの時間を埋めるのに絵本コーナーを回っていたとき、

オオカミが出てくるじんわりとあたたかい絵本を見つけた。

しかし時間が迫っていたので次の機会に買おうとその場を離れたのだ。

それがいけなかった。

次に行った時にはもう置いてなかったのだ。

その後も何度か行ったがやはりだめだった。

今思えばその時店員さんに聞いておけばよかったのだけど、そのときは思いつきもしなかった。



それからのらりくらり、記憶が薄れゆく中でその絵本に対する未練だけが大きくなっていく。

もはやオオカミだったのかすら曖昧だ。

かすかな記憶は海外の作家の作品で、オオカミらしき大きい動物が出てくるということのみ。

店員さんに聞くにはあまりにヒントが少ない。

ひとつの光は絵を見れば絶対にわかるという自信があったこと。



そんな話を夫Kに話すと一言、「探せばいいじゃん」。

そう、道は簡単なのだ。

むしろなぜ今まで探さずにいたのかの方が不思議である。

少ないヒントでは時間がかかるかもしれないが、

探し始めないかぎり記憶とともに可能性もどんどん薄まっていくだけだ。



そして昨日、ネットで検索をかけてから2時間もかからずに見つけた。

表紙の絵を見て一瞬でわかった。

本当に簡単なことだった。

すぐさまAmazonでポチッとしたら、早くも今日届いた。

それはやはりおおかみの話だった。







『ちいさいきみとおおきいぼく』

文:ナディーヌ・ブラン・コム
絵:オリヴィエ・タレック
訳:礒 みゆき
出版社:ポプラ社
第1刷:2013年



おかのうえの おおきな きのしたに
おおきい オオカミが
ずっと ひとりで すんでいた。

あるひ そこへ
ちいさいオオカミが やってきて…

はじめてのきもちに とまどいながら
たいせつなことに きづいていく
こころあたたまる ものがたり。(カバーそでより)



シンプルな文と大幅にデフォルメされた絵のバランスがとてもいい。

押し付けがましくなく、それでいて大人にも響くストーリーだ。

1年も忘れられずにいた一番の要因は独特な絵だと思う。

全然オオカミに見えない大きい黒いやつと小さい青いやつが愛おしい。

人にオススメしたい絵本が増えた。
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二次元に潜む寝そべり怪人

2018年03月06日 | 空想日記
じわじわと背中から伝わる熱、

幾度となく視界をまたいだ何者かの股、

目線の先にある白い天井。



3月に入り随分暖かくなったとはいえ、まだ寒い夜もある。

私の家では数年前から冬にこたつを出すのをやめた。

こたつの魔力に勝てず、何もできない長い冬を毎度のように悔いてきたからだ。

その代わりに購入した電気カーペットではあったが、今そこに寝そべり天井を眺めている。

寒さから逃れるために暖かい床に張り付いているというわけだ。

これはもしかしたらこたつよりタチが悪いかもしれない。

イス・テーブルスタイルの部屋で床にへばりついている姿はなんとも奇妙だ。

その姿はまるで床という二次元に潜む寝そべり怪人。



床から垂直にイスやらテーブルやらが伸びている。

この部屋を立体的に、なおかつ縦横無尽に移動できる夫は三次元の住人といったところか。

行動範囲が広くて羨ましいこと。


川崎のソリッドスクエア。建物内に水が張ってある不思議な空間。
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無責任応援団の平昌オリンピック

2018年03月01日 | 日記
我が家はつい数日前まで平昌オリンピックに沸いていた。

モーグル原大智からはじまり新種目マススタートの高木菜那にいたるまで、本当に素晴らしかった。

平昌オリンピックが始まるまでは世界選手権優勝したモーグルの堀島行真と、

直前のX GAMEで優勝したスノーボードハーフパイプの平野歩夢と、

怪我から復帰したフィギュアスケートの羽生結弦しか頭になかった。

私の中でスーパースターみたいな3人だ。

しかし始まってしまえば現金なもので、気づけば日本人選手を見境なく応援していた。



日本人に愛国心があるかどうかはわからないけれど、オリンピックとW杯はかなり盛り上がる。

なぜ同じ日本人であるというだけでこれほど気持ちが湧き上がってくるのだろうか。

時には観ているこっちまでが手に汗握る緊張に見舞われたりなんかして、

この応援のエネルギーはいったいどこからくるのだろうね。



開催期間中、夫は口癖のように「みんなこの一瞬のために4年間がんばってきたんだな」としみじみ言っていた。

確かにそうだ、知ってたつもりでわかっていなかったし、わかることもできないだろう。

へっぽこな私には彼らの日々の鍛錬など想像もできない。



スポーツは最高のエンターテインメントだ。

本人たちの気持ちなどおかいまいなくこっちはこっちで勝手に感情移入して盛り上がって元気をもらっている。



エンターテインメントという観点から言うと、スノーボードクロスとスキークロスはかなり面白かった。

雪上の障害物競走とも言われるこの競技は、

1キロくらいのコースを数人で一斉に滑りバンクやウェーブ、ジャンプなどをクリアして最初にゴールした人が勝ちというもの。

非常にシンプルなルールだが、かなりのテクニックが要求され小さなミスが事故を引き起こす危険なスポーツなのだ。

ちなみにこれらの競技には日本人はほとんど出場していなかったが、それもなんとなくわかる気がする。

スキークロスに関しては三浦豪太さんの自由すぎる解説が話題を読んでいたが、確かに変なワードが飛び交っていて笑わせてもらった。

ヒゲにスポンサーが付いている選手がいるだとか、彼は忍者だとか、イタリアの田中さんだとか、もうめちゃくちゃ。

アルペンの大回転も迫力があって好きだし、最後に高木菜那が金メダルをとったマススタートも見ていてすごく面白い。

いずれも競走感とスリルがたまらない。



あと今回のオリンピックでは実況の大切さも再確認した。

アナウンサーと解説者もオリンピックの大事な構成要素だ。

特に女子パシュートのラスト半周、オランダに約1秒の差をつけ皆が金メダルの可能性を大きく感じた時、

アナウンサーが大声援の中熱のこもった声で「金メダルに向かっていく!」と連呼するんだけど、

その声を聞くだけで何度でも感動してしまう。

いろいろ思い出すだけでいっぱいいっぱいになるけど、これっていったいなんなんですかね。



オリンピックをはじめ各種W杯やテニスのグランドスラムなど年々スポーツ観戦が好きになっていく。

それが年齢によるものなのかツールの多様化によって楽しみ方が増えたおかげなのかわからないけど、なんだか嬉しい。

始まる前は「今回はそれほど」って毎回思うんだけど、始まってしまえばいつもテレビに噛り付いている

それももう4日まえまでの話。



開催期間中に盛り上がりすぎてオリンピックのない生活に戻れるか不安だったけれど、案外戻れるものなのね。

そりゃあ人生オリンピックじゃない期間の方がダントツに多いわけで、

誰が決めたのか知らないけれど4年に一回っていう絶妙なサイクルが私たちの応援魂に火をつける。



オリンピックの余韻に浸りながら周りを見回すといつの間にか春、

吹き付ける風の暖かさに驚きながらも目線の先にはすでに違うものがちらついている。

次はサッカーW杯ですな。

よーしエジルのいるドイツを応援するぞー!




毎年春になるとこの梅の写真載せてるような。
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