随分長い間ここにいる。閉じ込められたというのが正しい状況説明になるだろうか。とにかく一刻も早くここから抜け出したいのだが、一向に解決の兆しは見えてこない。
私をこの状況におとしめている一番の原因はなんだろうか。神様のいたずらか、私の不注意か、それとも幾人かの怠慢が連鎖した先にある単なる偶然か。今日は非常に大事な案件を任されている。本来ならばこんな見知らぬ土地で窮屈な箱に閉じ込められ呑気に打ちひしがれている場合ではないのだ。
「なぜ」という問いかけがここでは意味をなさないことを私は知っている。しかし問わずにはいられない。朝からの行動を頭の中で何度も巻き戻し確認してみるが、自分の落ち度がどうしても見当たらず答えのない泥沼へ沈んでゆく。私の行動はなんら問題なかったはずだ、私はどこで間違えてしまったのだろうか。
今朝はいつもより一時間ほど早く目覚めた。あとは普段通りそのまま家を出て一度会社に寄ってから早めにこの町へ来た。先方との待ち合わせにはまだ随分時間があったので、資料のチェックがてら軽い昼食をとるためカフェでもないかと住宅地を散策した。待ち合わせに指定されたビルはその住宅街を抜けた先にある。これまで分刻みのカチカチなスケジュールをこなしてきた私だがたまにはこういうのもいい。早く来てしまったのは柄にもなく少し緊張していたからかもしれない。会議室で見た専務の老獪な微笑みが頭に張り付いていて今にも何か喋りだしそうだ。
めぼしい店がなかなか見当たらずとぼとぼ歩いていると、青い外壁が目立つ大きな家が目に入った。何の気なしにその家の角を曲がると急に開けた空間が現れた。きれいに整備された公園だ。平日の昼間ということもあって公園内にはひとっこ一人いない。都合のいいことに目の前にはコンビニがある、天気もいい、という訳でしばらくそこで時間を潰すことにした。早速コンビニでおにぎりとお茶と口臭対策用のタブレットを買い公園へ足を踏み入れたのだが、次の瞬間突然足のつま先から体の中心にかけてビカビカッと稲妻が走った。気づいた時にはこのざまだ。
誰かは私のいるこの場所を精神世界だと考えるかもしれない。程よい狭さに画一的な直線といくつかの美しい曲線で構成されるこの空間を象徴的だと言う人もごく稀にいるだろう。その場合私は現実で背負わされた重圧に耐えきれず内なる世界に閉じこもってしまった情けないやつという解釈になるだろうか。しかしことはもう少し複雑だ。ここは論理的に構築された完全なる現実世界である。そして私は精神的側面を考慮した結果、物理的にこの部屋から出ることができなくなった。
いや、待てよ。鍵をかけているのが己のつくる心の枷自体だとしたら、ある意味で私は精神世界で戦っていると言ってもいいのかもしれない。こんな状況に陥っても未だ陳腐なプライドを捨てきれず空虚な自分にしがみつこうとする。なんて醜く哀しい性よ。その場合鍵はより頑丈なものとなる。
映画『オールドボーイ』の主人公は全く情報を与えられぬまま何年も監禁された。与えられた食事をして誰にも会わずただ生きながらえる。「なぜ閉じ込められたのか」という根本的な疑問はいったい何年目に消え去ったのだろうか。なんて過酷なのだろう。それを思えば、私の置かれた状況は非常に短期的問題であり事の全容も把握しやすい。ただただ好機を待つのみである。
思い返せばここまでくるのに随分時間がかかった。めまぐるしい忙しさの中で過ぎた日々を振り返る暇などほとんどなかった。今与えられたこの時間は本来私に必要なものだったのかもしれない。きっとそうだ。今日の仕事は私の進退に関わる重要な任務だが、それより今後も定年までこの会社にすがりついて生きてゆくのかもう一度冷静に考えなければならない。
仕事を辞めた私を家族は家族として受け入れてくれるだろうか。ほとんど家庭を顧みなかった私を妻は許してくれるだろうか。彼女は子育てをたった一人で完璧にやってのけた。二人の息子は立派に成人して独立し自分たちの世界をつくっている。もしここから出ることができれば、まっすぐ近所の花屋へ行って花束をこしらえてもらい妻の元へ飛んで行こう。そして長年伝えることのできなかった感謝の気持ちをちゃんと言葉にするのだ。彼女はきっと戸惑うだろう。それでも一瞬でいい、昔のように柔らかく笑ってくれたら私は世界一の幸せ者だ。
ギー、ガチャッ
突然数メートル先で扉が開く音がした。ペタペタペタと鈍臭い足音が近づいてくる。ただならぬ緊張感が私の胸を襲う。何者だ、私の味方なのかそうでないのかここで見極めなければならない。耳を澄ませろ。感覚を研ぎすませ。
怠そうな足音は私のボックスを通り過ぎ数歩先で立ち止まった。
ガチャッ、ガチャガチャ、バタン、ガチャッ、シャカシャカシャカシャカ、これは…
「あのもしかして清掃員の方ですか。」
「あい?そうですが。」
ああ、神様ありがとう。
「すみませんが、トイレットペーパーを一ついただけますでしょうか。」
公園に入るや否やお腹を下しトイレットペーパーの切れた公衆トイレに閉じこもって約二時間、念願の解放、本当に運が良かった。今日の空はなんて素晴らしいのだろう。こんなに晴れやかな日がかつてあっただろうか。人気のない公園の一角、一人清々しい顔でスーツをピシッと整え腕時計に目をやる。よし、まだぎりぎり間に合う。そして私は花束のはの字も忘れて、まっすぐ取引先の待つビルへと向かったのであった。
私をこの状況におとしめている一番の原因はなんだろうか。神様のいたずらか、私の不注意か、それとも幾人かの怠慢が連鎖した先にある単なる偶然か。今日は非常に大事な案件を任されている。本来ならばこんな見知らぬ土地で窮屈な箱に閉じ込められ呑気に打ちひしがれている場合ではないのだ。
「なぜ」という問いかけがここでは意味をなさないことを私は知っている。しかし問わずにはいられない。朝からの行動を頭の中で何度も巻き戻し確認してみるが、自分の落ち度がどうしても見当たらず答えのない泥沼へ沈んでゆく。私の行動はなんら問題なかったはずだ、私はどこで間違えてしまったのだろうか。
今朝はいつもより一時間ほど早く目覚めた。あとは普段通りそのまま家を出て一度会社に寄ってから早めにこの町へ来た。先方との待ち合わせにはまだ随分時間があったので、資料のチェックがてら軽い昼食をとるためカフェでもないかと住宅地を散策した。待ち合わせに指定されたビルはその住宅街を抜けた先にある。これまで分刻みのカチカチなスケジュールをこなしてきた私だがたまにはこういうのもいい。早く来てしまったのは柄にもなく少し緊張していたからかもしれない。会議室で見た専務の老獪な微笑みが頭に張り付いていて今にも何か喋りだしそうだ。
めぼしい店がなかなか見当たらずとぼとぼ歩いていると、青い外壁が目立つ大きな家が目に入った。何の気なしにその家の角を曲がると急に開けた空間が現れた。きれいに整備された公園だ。平日の昼間ということもあって公園内にはひとっこ一人いない。都合のいいことに目の前にはコンビニがある、天気もいい、という訳でしばらくそこで時間を潰すことにした。早速コンビニでおにぎりとお茶と口臭対策用のタブレットを買い公園へ足を踏み入れたのだが、次の瞬間突然足のつま先から体の中心にかけてビカビカッと稲妻が走った。気づいた時にはこのざまだ。
誰かは私のいるこの場所を精神世界だと考えるかもしれない。程よい狭さに画一的な直線といくつかの美しい曲線で構成されるこの空間を象徴的だと言う人もごく稀にいるだろう。その場合私は現実で背負わされた重圧に耐えきれず内なる世界に閉じこもってしまった情けないやつという解釈になるだろうか。しかしことはもう少し複雑だ。ここは論理的に構築された完全なる現実世界である。そして私は精神的側面を考慮した結果、物理的にこの部屋から出ることができなくなった。
いや、待てよ。鍵をかけているのが己のつくる心の枷自体だとしたら、ある意味で私は精神世界で戦っていると言ってもいいのかもしれない。こんな状況に陥っても未だ陳腐なプライドを捨てきれず空虚な自分にしがみつこうとする。なんて醜く哀しい性よ。その場合鍵はより頑丈なものとなる。
映画『オールドボーイ』の主人公は全く情報を与えられぬまま何年も監禁された。与えられた食事をして誰にも会わずただ生きながらえる。「なぜ閉じ込められたのか」という根本的な疑問はいったい何年目に消え去ったのだろうか。なんて過酷なのだろう。それを思えば、私の置かれた状況は非常に短期的問題であり事の全容も把握しやすい。ただただ好機を待つのみである。
思い返せばここまでくるのに随分時間がかかった。めまぐるしい忙しさの中で過ぎた日々を振り返る暇などほとんどなかった。今与えられたこの時間は本来私に必要なものだったのかもしれない。きっとそうだ。今日の仕事は私の進退に関わる重要な任務だが、それより今後も定年までこの会社にすがりついて生きてゆくのかもう一度冷静に考えなければならない。
仕事を辞めた私を家族は家族として受け入れてくれるだろうか。ほとんど家庭を顧みなかった私を妻は許してくれるだろうか。彼女は子育てをたった一人で完璧にやってのけた。二人の息子は立派に成人して独立し自分たちの世界をつくっている。もしここから出ることができれば、まっすぐ近所の花屋へ行って花束をこしらえてもらい妻の元へ飛んで行こう。そして長年伝えることのできなかった感謝の気持ちをちゃんと言葉にするのだ。彼女はきっと戸惑うだろう。それでも一瞬でいい、昔のように柔らかく笑ってくれたら私は世界一の幸せ者だ。
ギー、ガチャッ
突然数メートル先で扉が開く音がした。ペタペタペタと鈍臭い足音が近づいてくる。ただならぬ緊張感が私の胸を襲う。何者だ、私の味方なのかそうでないのかここで見極めなければならない。耳を澄ませろ。感覚を研ぎすませ。
怠そうな足音は私のボックスを通り過ぎ数歩先で立ち止まった。
ガチャッ、ガチャガチャ、バタン、ガチャッ、シャカシャカシャカシャカ、これは…
「あのもしかして清掃員の方ですか。」
「あい?そうですが。」
ああ、神様ありがとう。
「すみませんが、トイレットペーパーを一ついただけますでしょうか。」
公園に入るや否やお腹を下しトイレットペーパーの切れた公衆トイレに閉じこもって約二時間、念願の解放、本当に運が良かった。今日の空はなんて素晴らしいのだろう。こんなに晴れやかな日がかつてあっただろうか。人気のない公園の一角、一人清々しい顔でスーツをピシッと整え腕時計に目をやる。よし、まだぎりぎり間に合う。そして私は花束のはの字も忘れて、まっすぐ取引先の待つビルへと向かったのであった。