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青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

無料英会話プリンスラハイナ ~昭和の江坂の “名物店” ③

2024-04-21 | 昭和の喫茶店

英会話喫茶・・一時のブームが去り、今やあまり聞かなくなりました。でも、90年代に入ったばかりの頃には、早過ぎたお店が江坂に出現しました。

喫茶「プリンスラハイナ」は、1990年当時、1人を除きスタッフは全員外国人でした。彼らが少しでも英語を話せるお客さんだなと判断したら、どんどん話しかけて来るので、英会話のレッスンになってしまうという喫茶店でした。コーヒー400円、パスタランチ800円という普通の値段だったので、江坂に行った時には空いている時間に珈琲を飲みに行き、1時間少し、僕は英会話をスタッフと楽しみました。格安の英会話レッスンでした。

内環状沿い江坂駅の東に少し行くとあった、バーベキューとビアハウスの「HUBBUB」も忘れられません。塩とレモンで飲むメキシコビールのテカーテや青島ビールなど、70種類以上のビールが揃っていました。テーブルに備え付けの独特のプレートで焼くバーベキューセットと共にビールを楽しみました。

最後にここも忘れてはいけません。パブ「ハリウッド」は50s&60sのライブパブでした。茶系統の木の温もりの感じられる内装と店の名前から、古き良き時代のアメリカへの思いが感じられるお店。当時はテーブルチャージ1500円、ミュージックチャージ500円がまず必要で、その後ウイスキーが600円から、フードも600円からで、やや高いお値段でしたが、夜中の2時まで営業というのは嬉しかったものです。

最近はラーメン屋の閉店が相次いでいると言いますが、駅周辺だけではなく、大学の周辺にも居酒屋チェーン店やコーヒーチェーン店が軒を連ねる時代です。昔のように個性的なお店が本当に無くなりました。こういうお店がしのぎを削る時代はもう来ないのでしょうか?どこに行っても同じ店が、同じようなお店の作りで、同じ味の珈琲や食べ物を出す。お客は定番に安心出来るのかも知れないし、経営者はフランチャイズ契約で簡単に出店出来る。つまらないと思います。

 


チケットはブーミンホールで!~昭和の江坂の “名物店” ②

2024-04-20 | 昭和の喫茶店

前回に引き続き、江坂について書いてみたいと思います。1980年代からの90年代の江坂には、いろいろと面白い、僕にとっては曰く付きの場所がありました。

今はコンサートチケットはネット販売。ファンクラブに入会していると取り易いようですが、転売ヤーも増加していて迷惑この上もありません。僕が学生の頃はネット販売など勿論無く、プレイガイドに直接足を運び、座席を自分で選んで買えました。だから、プレイガイドによって販売している席が異なるので、どこどこのプレイガイドは良い席があるとか無いとかの情報は貴重でした。力のあるプロモーターのお膝元がベストでした。

その上で、発売の数日前から友人たちと交代で並びもしました。整理券が必要になったこともありましたが、来日中止というかコンサートが中止になった、ポール・マッカートニー&WINGSやローリング・ストーンズ、チープトリックのチケットも入手していてため息が洩れましたし、オリビア・ニュートン・ジョンの初来日、ブルース・スプリングスティーンやイーグルス、ビリージョエルの70年代初来日のチケット入手にも苦労しました。

ここは江坂の懐かしの1990年のブーミンホールです。今とは趣が違うと思います。この隣にプレイガイドが設けられ、僕の後輩が責任者を務めていました。この頃からオンラインシステムでチケットを発券するようになり、チケットは印刷ではなく、現在のような味気の無いものになりました。まだ自宅から購入は出来ません。もう時効ですが(笑)この後輩に頼めば、頼んだコンサートのチケットは全て入手出来ました。現在のようにチケットの発売に公正性が適用されていなかったのです。それでも、ミック・ジャガーの初来日コンサートのように、風邪で当日の公演中止に遭遇したりもしましたが。

喫茶「ファクトリー」は、東急ハンズの3階。ロフト風のインテリアが楽しいカフェテリアでした。ニンジンやほうれん草を使ったナチュラルケーキが当時は珍しく人気でした。

喫茶店「プランタン」は今も営業されています。懐かしいお店が現在も続いているのは嬉しいものです。自家焙煎の美味しい珈琲が自慢のお店でした。トーストや手作りサンドイッチも美味しく、当時はサンドイッチが450円でした。フローリングの床に、ウッディ感覚のインテリアが大人のムードで、落ち着いたお店でした。

 


酸素コーヒー ~昭和の江坂の “名物店” を懐かしむ!①

2024-04-19 | 昭和の喫茶店

北大阪の中でも、伸び行く町と言われる吹田市・江坂は、大阪の中心で働く人たちの宅地でありながら、商業地でもある二刀流の町。1980年代でも駅から田んぼが見えたイメージが強いのですが、80~90年代には多くのお店や施設で賑わいました。勿論今も賑わっているのですが、当時のお店や施設が全て入れ替わってしまった感があります。

今日は80~90年代に、江坂に「この店あり」と言われた懐かしいお店を振り返ってみたいと思います。

喫茶「ミンデン」は、ビジネス街のオアシス的存在のコーヒーショップでした。ガラス張りの店内一杯に緑が溢れていて、森林浴気分でティータイムが過ごせました。ここの名物は「酸素コーヒー」。吸入器で10分ほど酸素を吸ってから、珈琲を飲もうというもので89年では500円でした。こちらは上のリンク先から詳細がご覧頂けます。珈琲にケーキをセットにすると550円だったので、「珈琲に酸素とケーキ、どっちを付ける?」が合言葉でした(笑)

江坂が注目されたのは、「東急ハンズ」のオープンが1つのきっかけだったと思います。当時は隣の「東急イン」での結婚式も、高級感があって華やかでした。1Fから4Fまで、プロ用の調理器具から文房具まで幅広く揃えていて、約500種のサンプルの中から希望のサイズ・形状のカーペットを作ってくれる「オーダー・カーペット」や「オーダー・ロールスクリーン・ブラインド」等、既製品には無い自分にピッタリの物を手に入れることが出来たのが画期的でした。

3Fの工房では素人には難しい穴あけ、溝付け等の細工を手伝ってもらえたし、1Fの印刷コーナーで、自分専用の名刺を発注している学生も多くいました。僕はここでパーティ・チケットの印刷を依頼しました。そのパーティで使う、オリジナルジグソーパズルの制作やビンゴゲームのレンタルをしたのも懐かしい。

こちらは江坂の文字通り顔だった「カーニバル・プラザ」。こちらは以前にも当ブログで特集していますが、客席数730席あまりは日本最大の広さでした。大正7年に建てられた旭川紡績の赤レンガ造りの工場を、そのまま利用。バーベキューホールとシーフードホール、港のラウンジの3つのコーナーに分かれており、長さ10mのサラダバーでの世界のサラダ食べ放題も忘れられない。ディキシーバンドが定期的に店内を演奏して回っていました。オーダーストップが夜中の12時というのも、今では信じられない。街に活気がありました。

パスタの「ハーツ」も懐かしい。天井が高く、広々とした空間が気持ちよく、中2階のパーティルームでは40~50人のパーティが出来ました。暖炉もありました。

お酒を飲む人には懐かしいのがバー「Down-D」です。こちらは現在も健在です!89年当時は黒を基調としたシックなインテリアに、間接照明が心地良かった。料理は毎月替わる6種のスペシャルメニュー(600~900円)や手巻き寿司サラダ(700円)が人気でした。

 


昭和の下町代表 “文化住宅”

2024-04-18 | 昭和・懐かしい北摂の風景

桜の花がまだ残り、温暖でスポーツに適した季節。それが本来ならでした。4~5月は若葉の頃。秋と並んで大好きな季節でしたが、それが今や一体どこに行ってしまったのでしょう?

洗濯も出来ないほどの黄砂にPM2.5、そして4月中旬だと言うのに「熱中症」とは一体どこの国でしょう?確かに気候も変動しています。昭和の時代と違い、気温は確かに上がっています。でも、こんな気候になったのはそれだけでしょうか?

この写真は昭和45年(1970年)大阪万博のあった年の大阪府豊中市庄内栄町です。道の両側の家々には洗濯物が干してあり、下町風情が漂っています。庄内各地では高度経済成長の頃より、人口の増加に伴い密集して建てられた文化住宅が多く見られました。

ここに写っている建物は「文化住宅」と呼ばれましたが、今から思えばどこが文化的なのかよく分かりません。今も庄内~服部の辺りでは文化住宅を結構見ることが出来ます。

この頃は鉄筋コンクリートの建物も少なく、いわゆる「マンション」をまだ見かけませんでした。地面は舗装されていない所の方が多く、自転車もよく釘を踏んでパンクしていました。今では家の前の道で釘が落ちているなんて、若い人は見たことも聞いたこともないでしょう。雨が降れば地面はぬかるみました。

だからこそ、気温が今のように上昇しませんでした。木造家屋に土の地面。あちらこちらに溜池に雑木林。そういう環境が人に優しかったのでしょう。今は池は埋め立てられ、雑木林は宅地になり、「蚊」や「虫」も減りましたし、自転車も快適に走ることが出来、パンク修理も不要です。しかし、その代わりに春なのに「夏日」を過ごすことになりました。薬に副作用があるのと同じように、環境は毒にも薬にもなります。

また大阪万博がやって来ますが、その後に迎える生活環境はどうなって行くのでしょうか?

 


映画看板にときめいた日々 ~TOHOシネマズ梅田

2024-04-14 | 昭和・懐かしい大阪の風景

1980年に「ナビオ阪急」としてオープン。1988年に阪急ファイブとナビオ阪急が統合され「HEP NAVIO」と改称、現在は阪急百貨店メンズ館とTOHOシネマコンプレックス、飲食店などの商業施設が入っています。

阪急電車を降り、改札を出て長いエスカレーターを降りて、信号を渡れば「グランドビル」と道路を隔てて「HEP NAVIO」があります。昔は「阪急ファイブ」と「梅田コマ劇場」があった場所には「HEP FIVE」があり、屋上には観覧車が。

ここは、その同じ場所・・・ただし昭和41年(1966年)の風景。昭和53年(1978年)頃までは、こういう風景が僕は見慣れていました。

1番左に少し写っているのが「梅田コマ劇場」。「梅田コマ・ゴールド」「梅田コマ・シルバー」の2つの映画館も併設していました。長らく「ウメコマ」の愛称で親しまれましたが、建物の老朽化で移動して、「劇場・飛天」として再開場。しかし、改称後も「コマ」のイメージが強く「飛天」の名称が浸透しなかったことから、2000年4月に劇場名を再び「梅田コマ劇場」に戻しました。2005年4月1日に阪急電鉄がシアター・ドラマシティと併せて買収し、「梅田芸術劇場」(梅芸)としてリニューアルオープン。旧梅田コマ劇場はそのメインホールとなり、現在に至っています。

この写真の中央に写っている建物が「北野劇場」で、これが取り壊されてナビオ阪急~HEP NAVIOとなったのです。

僕がこの当時を懐かしむのは、写真のように公開する映画作品によって、宣伝・看板が毎回変わり、それがとても素晴らしかったからです。

ナビオ阪急時代は、まだ正面の壁には上映作品の看板が見られたのですが・・。(北野劇場、梅田劇場、梅田スカラ座の3枚の看板が並んでいました。写真はその中の1枚。)。

その後1998年に「ナビオシネ4」と「ナビオシネ5」を増設、2002年にはシネマコンプレックスに改装。2007年に館名を現在の「TOHOシネマズ梅田」に改称し、今では建物に見られるのは「TOHO CHINEMAS」のロゴマークだけで、昔の映画看板とは雲泥の差。映画を観に行っても毎回風景は同じでワクワク感が全く感じられないのです。