青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

70年代 “映画チラシ” 大ブーム!

2024-10-05 | こんな「モノ」ありました!

1970年代中旬、昭和45年頃に空前の映画チラシ・ブームが巻き起こりました。僕が学生時代に1番映画館に足を運んだ時代のことなので、今でもよく覚えています。それまで劇場に行くと、「ご自由にお取り下さい」と、次回公開作品、近日公開作品のチラシが劇場に置かれていたのですが、74年~75年頃になるとチラシが置かれていません。劇場に訊くと、「最近、置いたチラシを1人で全部持って行く人がいるので、これまでのように置くことが出来ないのです」と説明され、希望者には渡しているということで、僕もチラシを貰うことが出来ました。

中高生の子供たちが、窓口でチラシを下さいと映画館回りをする姿を見出したのもこの頃でした。この映画チラシのブームの火付け役は、「少年マガジン」(講談社)でした。

少年マガジンが1974年に巻頭カラー特集で、映画のチラシを紹介し、それが定期的に掲載された為にチラシが大ブームになったのです。それまで映画館に行っても、チラシは宣伝物として持ち帰り、気に入ったものは取り置きをしていたのですが、まさか収集そのものがブームになっているとは思いもしませんでした。でも、確かに映画のチラシはレコードのオビと同じで日本独特の文化です。

映画のタイトルのレタリング・デザイン、写真、宣伝のための煽り文句・キャッチコピー。時には映画には出てこないシーンがデザインされていたり、チラシの為にわざわざ作られた写真までが使われていて、チラシそのものが1つの芸術作品と呼んでも過言ではありませんでした。チラシの男優・女優の顔は本物でも、首から下は日本の配給会社がモデルを使って撮影し、合成したものというのも「あるある」でした。

同じ作品であっても、公開時のチラシとリバイバル時のチラシでデザインが違ったり、大作映画になると何種類かのチラシが作られたりするので、そういうものを見るのも楽しかった。

今考えると、この映画チラシブームを作り上げたのが、「ロードショー」「スクリーン」「キネマ旬報」といった映画専門誌ではなく、「少年マガジン」という少年向けの雑誌だったというのが面白い。専門誌の面子丸潰れです。

映画チラシがこれだけの人気になると、少年マガジンの巻頭特集のままで終わるはずが無く、映画チラシの本が筍のように発売されたのですが、その最初のものは極めて地味なものでした。しかも、それを発行したのも「少年マガジン」でした。(続く)

 

この本は、映画チラシ制作の裏側についての読み物と、美しいチラシのカラー写真満載の、映画のチラシに関する最高の1冊です。お薦めします。


南街劇場 ~さよなら南街ラストショー!

2024-10-03 | 昭和の映画館

僕が若き頃に映画を観まくった劇場は、大阪は「キタ」と呼ばれる梅田界隈の劇場。時には神戸・京都・北摂地域の映画館にも、映画は元より「映画館」自体を観たくて足を運んだこともありました。また、旅行先でも地方の映画館がどんなものか見に行きましたし、海外でも映画館を見たくて足を運びました。

2番館やいわゆる名画座も足げく通いましたが、大阪の「ミナミ」と呼ばれる難波周辺の映画館に行ったことは、そんなに多くはありません。ミナミと言えば旧・大阪府立体育会館。70年代~80年代のここでの新日本プロレスの興行は全て観戦しました。そんな僕ですが、ミナミでも「南街会館」だけは時々利用していました。

1番記憶に残っているのはホラー映画の「サンゲリア」。なぜかキタでは上映しておらず、南街劇場まで足を運んだのを今でも覚えています。

さて、この南街会館ですが、2004年2月1日、大阪府知事選挙の戦いが繰り広げられる中、建物の老朽化が進んだために、その50年の歴史に幕を閉じました。

1月31日、2月1日の2日間に閉館イベント「さよなら南街 ラストショー ~ありがとう、映画のような50年~」が開催され、31日は「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」「ラストタンゴ・イン・パリ」「ブラック・レイン」、1日は「伊豆の踊子」「太陽を盗んだ男」「エレキの若大将」が上映され、最終上映は「七人の侍」で、その前には浜村淳のトークショーもありました。オープン以来、50年間の総動員数は8300万人。年間最高記録は1959年(昭和34年)の295万人。

南街会館の最期には、シネマスコープの「南街劇場」「南街東宝」「南街シネマ」「南街スカラ座」「南街文化劇場」が入っていました。この地には南街会館の前には「南地演舞場」が建設され、1897年(明治30年)2月15日、フランスのリュミエール兄弟製作によるシネマトグラフが上映され、この上映会は入場料を接収した日本で初めての興行であり、そのことから南地演舞場跡地の南街会館が映画興行発祥の地とされ、その碑はTOHOシネマズとなった現在も、1階のTOHOシネマズ直通エレベーターの右側の壁に埋め込まれています。

ちなみに南街会館での初の映画は、1953年12月の「聖衣」が南街劇場のシネマスコープで公開。座席数1,488席は、キタの北野劇場と並び大阪の映画の殿堂と呼ぶに相応しい劇場でした。

閉鎖後は南街会館は解体され、会館跡には「なんばマルイ」が建てられ、8階から11階に後継館であるTOHOシネマズなんば・本館(開業当初は単にTOHOシネマズなんば)が開館して、現在に至ります。ミナミの映画館については、キングさんの長く続く映画ブログ「MOVIE KINGDOM」に、とても詳しく書かれていますので、ぜひご覧下さい。

 


通販で興味津々!“シーモンキー”

2024-10-01 | こんな「モノ」ありました!

僕が子供の頃は、少年マガジン等の少年誌の裏表紙には、いろいろ怪しげな(笑)通販広告が載っていました。映画スターやアイドルのポスターも人気でしたが、僕が最も興味を持ったのが「シーモンキー」のこの広告でした。

通販というだけでも何か惹きつけるものがあるのに、その上に「アメリカですごい人気」と煽られては、興味が湧いてしまうのも仕方がないところ。インターネットも何も無い時代、海外情報はほとんど皆無。海外で大人気と言われると、それだけで食指が動く。それだけ流行は、海外から黒船の如くやって来る時代でした。

友達は学校の門前の駄菓子屋で日々買い食いをしているので、こういうものに興味を持っても買うお金が無い。僕は親が「買い食い」を厳しく禁止していましたし、ガチャポンのように何が出るか分からないものも買わせてもらえず、本当に欲しい物にお金を使いなさいと言われていたので、こういうものを試すお金はありました。

小学校に行ったか行っていないかの時代、さすがに僕一人で通販に挑戦するのは敷居が高く、親に相談するしかないのですが、却下されないか不安でなかなか言い出せず、「これが欲しい」と広告を見せるまでに随分時間が掛かった記憶があります。親は「じゃあ、今度の日曜に買いに行こうか」と、あっさりと承認。

え?通販じゃなくどこで買ったの?と思われる方も多いと思うのですが、何と大阪・梅田の阪急百貨店本店の玩具売り場に現物が売っていたのです。こんなに怪しげな品物なのに!(笑)それだけ当時は人気があったのかも知れません。

皆さんご存知とは思うのですが、このシーモンキーは何かの粉が入った袋が2つか3つ入っていて、それを水に溶かせて放置しておくだけ。すると24時間くらいで上の広告のような風変りな生き物が生まれて来る・・・はずもなく、変なエビの子供みたいなものが出て来る。今はネットで調べればすぐに分かりますが、1億年前から変化していない生きている化石とされる「アルテミア」という小型の甲殻類を、愛玩用・観賞用に改良した品種です。

60年代僕が子供の頃は、図鑑をいくら探してもこいつが載っておらず、謎の生物として友達の間でも話題になりましたが、すぐに飽きてしまって最後はどうなったか覚えてもいません(笑)今もこの商品は販売されていると聞き驚きました。アメリカの通販業者ブラウンハットによって1957年に「インスタントライフ」、1962年には特許を取得した上で「シーモンキー」と名付けて売り出された、それなりに歴史のあるモノだけに、僕の知人のアメリカ人達もこれを知っていて、お互いに「え?これを知っているの?」と笑い合ったものです。