青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

関西大学・天六学舎 ~大学のレベルが高かった時代!

2025-02-16 | 昭和・懐かしい大阪の風景

今や大学が全入の時代になろうとしています。しかし、反面「Fラン」という名前が一般化するほど、大学のレベルが低くなって来ています。東大や慶応等のように、昔も今も入学するのが難しい大学もありますが、多くの大学が昔に比べて合格するのが簡単になっている・・と言うと語弊がありかも知れません。

大学が増え、子供は減っているのに、大学は学生を募集するために学部を増設したり・・。大学に行こうと思えば、今や誰でも入学して卒業可能になりました。完全に最高学府が商売になっています。

ここは関西大学。と言っても、長い関大の歴史の中に消えた「天六学舎」です。

天神橋筋6丁目下車、徒歩5分。大阪市内のど真ん中という立地にあった、関西大学の夜学部です。学生数は少なく、通っているのは昼間は公務員として働いている人たちがほとんど。もしくは弁護士事務所や司法書士事務所で働いていて、弁護士試験を目指している人や、教員免許取得の為に大学に戻って来る人たちの受け皿になっていました。

そのため、千里山学舎よりも入学難易度は低いものの、平均的な大学よりは遥かに偏差値も高い。おまけに授業は夕方5時半頃から夜の9時半頃までの、毎日3時間。それで千里山の全日制と同じ教授陣が教え、全日制と同じ単位取得の厳しさがあったので、入学しても卒業出来る人が本当に少なかったのです。昼間は仕事を持ちながら、夜間こんな厳しい環境で勉強した上に、部活もここでは可能でしたので、そちらに席を置いている人たちの「やる気」「本気度」は凄いものがありました。

道路に面した校門の左手にあった体育館には、夜遅くまで灯りがついていました。

1970~80年当時、関西大学の司法試験合格率は、全国の大学の中で1~2を争っていましたが、この夜間の法学部の司法試験合格率は、昼間の全日制法学部を上回るほどでした。

社会人になって知り合った、ここを卒業した友人と共に、1988年に関大天六学舎を訪れた時に撮影した写真が、上記カラー写真。伝統を感じる、まさに大学といった感じの校舎でした。

天六学舎の歴史を見ると、1935年から1965年までは大学本部と第2部(夜間)がここにありました。昭和28年(1953年)、第2部(夜間)を千里山から天六へ全面移転することになり、この写真の学舎が増設されました。しかし、全国的な夜間学部の人気低迷と共に、平成6年(1994年)に第2部が、再び千里山へ移転するまで長く利用され、法学部をはじめとする学部の2部が置かれ、都心のキャンパスとして苦学生らが学び、関西の政官財界、法曹界などに多数の人材を輩出しました。その後もここ天六キャンパスでは、公開講座などを実施していましたが、2003年に廃止され解体されました。

現在ここは、ジオ天六ツインタワーズとなっていますが、「関西大学・天六キャンパス跡地記念碑」が置かれています。