2月5日に東京ミーティングを開催しました。
参加者の方から感想を頂きましたので、ご紹介します。
★
このようなミーティングに参加するのが初めての方も何名かいた為、ファシリテーターがLGBT用語のレクチャーをしながらのスタート。
「性同一性障害」、「トランスジェンダー」との呼び方の違いに、ほぼ困惑。
(「トランスジェンダー」は自分の性別に対する違和感を持つ人の総称で、「性同一性障害」は医学的な診断基準による診断名です。)
そのためLGBTの内、Tのグラデーションについて話が及んだ。
参加者の親が語る当事者の子どもの様相は千差万別で、同じFTMの範疇でも、手術を終えて、男性として一家をなしている者、自分は女性ではないことは確かだがいわゆる男性の価値観の中に自分をあてはめたくない、「自分は自分である」という者、性別違和は強いものの末だ葛藤の中にある者、その状態から踏み出そうとしている者と、カミングアウトから現状までの道のりもそれぞれのようだ。
揺るぎなく望みの性に向かっていく者もいれば、揺らぎながら自分の落ち着きどころを探している者もいる。
多分、L、G、Bも似たようなもので、性自認にしろ、性指向にしろ、セクシャリティはグラデーションということなのだろう。
しかし、これはセクシャルマイノリティと関わったことのない者にとっては理解しがたい。
世界は男女に分別されていると思い込んで生きてきた人々を混乱状態に落とし込む。
セクシャルマイノリティのコミュニティは通常ワンカラーで集うことが多いと思うが、このつなぐ会はあらゆるセクシャルマイノリティの当事者とその家族、及び友人、サポーターと幅広い層が集まるので、新しい出会いあり、発見あり、ここのミーティングを通して少しづつ自分の価値観が切り替わっていくのが、疲れるけれど面白い。
一旦休憩の後は、グループに分かれてグループミーティング。
現在、大学でセクシャリティについて勉強中という男性は、当事者と出会い、その苦悩や経験談を聴くことで学ぶことが多く、視野が広がったとのこと。
その一例として、震災時のゲイの帰宅困難者の話が出た。
当時、都心から自宅まで延々と歩いて帰ろうとしたが、不安と疲労で心が押しつぶされそうな状況の中、やっと見つけたパートナーと手をつなぎたくても人の目が気になって手をつなぐことができない。
その理不尽な現実を聴き、心が痛んだという。
このエピソードには疑問も出た。
なぜ、人の目が気になるのか。
手をつなぎたいのにためらってしまうのは何故なのか。
当事者自身にも偏見があるからなのか? いや、今まで他人から変な目で見られてきた。
物珍しさで写メ撮られたり、からかわれたり、幼少期からの嫌な経験の積み重ねがトラウマとなり、図らずも他者の視線を意識してしまうようになる・・・
異性愛者にとって、セクシャルマイノリティの苦労話によって目が開かれることは多い。
世の中はノーマライゼーションだ、バリアフリーだと言いながら、自分の心の中にあるバリアに気がつくのもこんな時だ。
当事者との出会いを重ね、話し合うことが学びとなり、心の垣根が砕かれ人として成長していく。
こうしてアライが増えていけば、社会の偏見は薄まっていくのではないか。
★
M
参加者の方から感想を頂きましたので、ご紹介します。
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このようなミーティングに参加するのが初めての方も何名かいた為、ファシリテーターがLGBT用語のレクチャーをしながらのスタート。
「性同一性障害」、「トランスジェンダー」との呼び方の違いに、ほぼ困惑。
(「トランスジェンダー」は自分の性別に対する違和感を持つ人の総称で、「性同一性障害」は医学的な診断基準による診断名です。)
そのためLGBTの内、Tのグラデーションについて話が及んだ。
参加者の親が語る当事者の子どもの様相は千差万別で、同じFTMの範疇でも、手術を終えて、男性として一家をなしている者、自分は女性ではないことは確かだがいわゆる男性の価値観の中に自分をあてはめたくない、「自分は自分である」という者、性別違和は強いものの末だ葛藤の中にある者、その状態から踏み出そうとしている者と、カミングアウトから現状までの道のりもそれぞれのようだ。
揺るぎなく望みの性に向かっていく者もいれば、揺らぎながら自分の落ち着きどころを探している者もいる。
多分、L、G、Bも似たようなもので、性自認にしろ、性指向にしろ、セクシャリティはグラデーションということなのだろう。
しかし、これはセクシャルマイノリティと関わったことのない者にとっては理解しがたい。
世界は男女に分別されていると思い込んで生きてきた人々を混乱状態に落とし込む。
セクシャルマイノリティのコミュニティは通常ワンカラーで集うことが多いと思うが、このつなぐ会はあらゆるセクシャルマイノリティの当事者とその家族、及び友人、サポーターと幅広い層が集まるので、新しい出会いあり、発見あり、ここのミーティングを通して少しづつ自分の価値観が切り替わっていくのが、疲れるけれど面白い。
一旦休憩の後は、グループに分かれてグループミーティング。
現在、大学でセクシャリティについて勉強中という男性は、当事者と出会い、その苦悩や経験談を聴くことで学ぶことが多く、視野が広がったとのこと。
その一例として、震災時のゲイの帰宅困難者の話が出た。
当時、都心から自宅まで延々と歩いて帰ろうとしたが、不安と疲労で心が押しつぶされそうな状況の中、やっと見つけたパートナーと手をつなぎたくても人の目が気になって手をつなぐことができない。
その理不尽な現実を聴き、心が痛んだという。
このエピソードには疑問も出た。
なぜ、人の目が気になるのか。
手をつなぎたいのにためらってしまうのは何故なのか。
当事者自身にも偏見があるからなのか? いや、今まで他人から変な目で見られてきた。
物珍しさで写メ撮られたり、からかわれたり、幼少期からの嫌な経験の積み重ねがトラウマとなり、図らずも他者の視線を意識してしまうようになる・・・
異性愛者にとって、セクシャルマイノリティの苦労話によって目が開かれることは多い。
世の中はノーマライゼーションだ、バリアフリーだと言いながら、自分の心の中にあるバリアに気がつくのもこんな時だ。
当事者との出会いを重ね、話し合うことが学びとなり、心の垣根が砕かれ人として成長していく。
こうしてアライが増えていけば、社会の偏見は薄まっていくのではないか。
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