昨日15日は午前中しか時間が割けず、小木六、南田中地区に入ったのが正午頃で行列に遭遇できなかった。
大沢地区もきのうの午後歌舞伎が行われたのだが、これにも行けずに残念だった。
12年後を待つことにしよう(^_^)v(^^;)
きょうは大沢地区の御幸渡御行列の出発風景、そして砂押地区の神社からの出発風景を撮影することができた。
明日このブログに掲載したいと思う。
どちらもアットホームな雰囲気の中にも、卯年大祭本来の「厄除祈願・家内安全・五穀豊穣」の願いがこめられていて
地区を挙げて盛り上がっていた。ずっと行列と一緒にいたいと思った御廻であった。
思えば50の半ば過ぎまで、卯年まつりといえば、「舞子大山組」と「仙石柄沢」のさわり部分と「早川・三郎丸・長表」
しか見たことがなかったので、2011年の卯年大祭は他の地区のまつりを見ることができてとても良かったと思う。
昨年、「来年の卯年まつりを盛り上げようよ」と何人かの方と話してから、このブログで取りあげてきた。
自分にできることをやってみよう、12年に一度のまつりを記録に留めたい、そんな思いで続けてきた。
3月11日の東日本大震災や翌12日の長野県北部地震で中止になるのかな、それもやむを得ないかと思ったこともあった。
しかし、各地区の実行委員会では「こういう年こそ本来の趣旨に立ち返って、まつりを開催しよう。」という多くの意見
があり、春の大祭は一部自粛もあったが予定していた全ての地区で開催された。
夏の大祭も直前に未曾有の水害に見舞われ開催が危ぶまれたが、ここでも全地区で開催された。
「災害なんかには負けないぞ、必ず復活・再生するぞ」という強い意思を地域全体が共有した2011卯年大祭であり、そのこと
を当地域からのメッセージとして発信できたことを確信している。
相棒のキャノンkiss X2と夏から仲間入りしたキャノン60Dに感謝。
そして春から全ての卯年大祭を取材し続けた南魚沼市の広報の秋山さん、文化班の平賀さんに心から感謝申し上げたい。
ご苦労さんでした。
日本で唯一、卯年だけにこの地域だけで行われる「卯年大祭」、全てしっかりと南魚沼市の記録に残して頂いた。
下の写真は5月4日の舞子大山組大祭から。
御神山登頂への突撃を待つ一服休みの屋台風景、この後キャスターを外して「担ぎあげ状態」にシフトチェンジ、
山への一直線の道はすぐそこで待っている。
大沢地区もきのうの午後歌舞伎が行われたのだが、これにも行けずに残念だった。
12年後を待つことにしよう(^_^)v(^^;)
きょうは大沢地区の御幸渡御行列の出発風景、そして砂押地区の神社からの出発風景を撮影することができた。
明日このブログに掲載したいと思う。
どちらもアットホームな雰囲気の中にも、卯年大祭本来の「厄除祈願・家内安全・五穀豊穣」の願いがこめられていて
地区を挙げて盛り上がっていた。ずっと行列と一緒にいたいと思った御廻であった。
思えば50の半ば過ぎまで、卯年まつりといえば、「舞子大山組」と「仙石柄沢」のさわり部分と「早川・三郎丸・長表」
しか見たことがなかったので、2011年の卯年大祭は他の地区のまつりを見ることができてとても良かったと思う。
昨年、「来年の卯年まつりを盛り上げようよ」と何人かの方と話してから、このブログで取りあげてきた。
自分にできることをやってみよう、12年に一度のまつりを記録に留めたい、そんな思いで続けてきた。
3月11日の東日本大震災や翌12日の長野県北部地震で中止になるのかな、それもやむを得ないかと思ったこともあった。
しかし、各地区の実行委員会では「こういう年こそ本来の趣旨に立ち返って、まつりを開催しよう。」という多くの意見
があり、春の大祭は一部自粛もあったが予定していた全ての地区で開催された。
夏の大祭も直前に未曾有の水害に見舞われ開催が危ぶまれたが、ここでも全地区で開催された。
「災害なんかには負けないぞ、必ず復活・再生するぞ」という強い意思を地域全体が共有した2011卯年大祭であり、そのこと
を当地域からのメッセージとして発信できたことを確信している。
相棒のキャノンkiss X2と夏から仲間入りしたキャノン60Dに感謝。
そして春から全ての卯年大祭を取材し続けた南魚沼市の広報の秋山さん、文化班の平賀さんに心から感謝申し上げたい。
ご苦労さんでした。
日本で唯一、卯年だけにこの地域だけで行われる「卯年大祭」、全てしっかりと南魚沼市の記録に残して頂いた。
下の写真は5月4日の舞子大山組大祭から。
御神山登頂への突撃を待つ一服休みの屋台風景、この後キャスターを外して「担ぎあげ状態」にシフトチェンジ、
山への一直線の道はすぐそこで待っている。