「ぬれたろうそく立てにご注意」との、記事があった。
乾いたろうそく立てと、ぬれたろうそく立てで、実験したところ、
ぬれたろうそく立てがまれにろうそくのもえつきる瞬間に火のついたままの芯がろうそく立てから落下したり、飛び上がったり、数センチも
飛ぶことがあることがわかったそう。
受け皿に残っていた水が、ろうそくの熱で沸騰、受け皿にのこっていたロウを破裂させるのだそうな。
線香を点ける時だけ、ろうそくを灯すのが一般的なのかはしらないが、無人となった、仏間のろうそくが、少しずつ、融けて行ってろうそくは、
自然に消えるというイメージがあった。
受け皿に水は少量なら、蒸発してしまう気がして、気にしない場合が多いかもしれない。
台所の、てんぷら油、寝たばこの火、灯油そばの洗濯物。
そうしたほんの些細なことが火災になることがある。
火災予防のPRが浸透してきて、こうした火災は、だいぶ減ったのではないかと思う。
しかしながら、最近、驚くような原因、放火の類が増えてきているようだ。
火の怖さを忘れた、現代人。
怖さを気にしない風潮があらゆるところに転がっている。
怖さを先人たちは、様々な方法で子孫や世間に教えていた。
年々、人々の意識が薄れ、先人の教えは闇に葬られ、周りの大人も、世の中には危険なことなど、無いかのように
平然と暮らすようになった。
危険なこと、危ないことは、周りにたくさんあるのに、誰も気にしなくなっている。
そんな気がする。
安全は神話。
身を守る手段は、自分で責任をもって、対処していかなければならないということを皆、忘れてしまって
いるのではないだろうか。
安全、安心は先人の知恵で築いてきたもの。すべてを網羅することはできない。
保護は必要だし、危険が隣り合わせではやってられない気もすす。
しかしながら、ぬくぬくとし過ぎではないだろうか。
考える予知をする、そんな人間にあるはずの、アンテナさえ人は失いつつあるのかもしれない。