ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

ウチナータイム

2011年01月03日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 先々週、飲み会があった。友人のHとその女房のE子も一緒である。飲み会の場所は首里にある居酒屋、私の家から徒歩30分ほどの距離。集合時間は7時。
 夕方、ついでがあったのでHの店に行った。用事を済ませたのは6時前、二人を乗せて私の家まで行き、車を置いて、三人で、飲み屋まで歩いて行く十分の時間があった。
 二人には高2の息子がいる。その時間になって、学校にいるその子を迎えに行って欲しいとHが言う。子供を家まで送って、すぐに飲み屋に向かえば10分程度の遅刻で済む。「まあ、その位ならいいか」とHの言うとおりにする。ところが、息子を家に届けると、「息子に晩飯を作ってあげたいから、後30分かかる」とE子が言う。「高2の時、俺は朝晩、自分で飯を作っていたぞ!」と思いつつ、「先に行ってくれ」というHの言葉に従う。彼らに振り回された結果、私は30分遅刻し、彼らは1時間半の遅刻だった。
 そもそも、HとE子には、時間に間に合わせようという意識が無いのである。これっぽっちもないのである。遅れてあたりまえ、というか、遅れたいのである。何故だかは不明だが、まあ、ウチナーンチュの性(さが)とでも言うしかない。
 Hが幹事で飲み会を開くこともたまにある。その際、私と相談して話を決めることも多い。「じゃあ、集合は7時半ということで」と私が言うと、「おー、皆には7時集合って連絡しておくよ」と彼は答える。そのくらいがちょうど良いと言う。ウチナータイムとは、ウチナーンチュは時間に遅れるのがあたりまえで、沖縄の時間は常に遅れているというようなことを表している。Hのウチナータイムは30分遅れということになる。
  ウチナータイムは確かに存在する。H(彼より女房のE子の方がもっとひどいが)のようなウチナーンチュは今でも多くいる。であるが、昔に比べるとだいぶ良くなっている。昔はホテルの結婚式などでも30分遅れはよくあった。最近(10年前か、あるいは20年前くらいからか)はもう、そういうことは無い。仲間内の忘年会などでもHのような数人を除いては概ね時間通りにやってくる。最近のウチナータイムはよって、平均して5分から10分遅れといったところであろう。その程度は何の問題も無い。・・・ということはつまり、私のウチナータイムは5分から10分遅れということである。

 HやE子との飲み会があったその一週間前、アメリカから帰省している姉と飲み屋で待ち合わせた。私は約束の時間に5分遅れた。テーブルに着いてビールを頼み、そのビールを半分ほど飲んだ。約束の時間から20分が過ぎた。ここで、「おかしい」と気付く。姉はそう遅刻しない人である。20分も遅れることは無かろうと店内を回る。奥のテーブルに彼女はいた。約束の時間の少し前には来ていたとのことであった。
 姉はアメリカ生活が長い。人生の半分以上はアメリカである。アメリカ生活が長いからというわけなのかどうかは不明だが、少なくとも沖縄生活から長く離れているからという理由は当てはまるに違いない。彼女からはウチナータイムが消えている。
     

 記:ガジ丸 2007.1.30 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


沖縄の中のアメリカ

2011年01月03日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 ある日曜日、米軍基地内にあるレストランへ出かけた。米軍基地の中へは一般の日本人(もちろんウチナーンチュも含めて)は普通入れない。基地内へ出入できるパスを持っている人の好意で、彼のゲストとして入ることができた。
 基地内へ入るのを私は過去に何度も経験している。父親が米軍基地で働いていたので、子供の頃に何度かあり、大人になってからも仕事の関係で何十回となく行っている。その仕事を辞めて二十年ばかりになる。よって、今回の基地内進入は二十年ぶりとなる。

 店のボーイ(日本人)さんに、「写真を撮っても構いませんか?」と訊いた。「構いません」との返事。ここには軍事的な施設は無く、住居が主で、レストランやスーパー、文化施設などがあるだけとのこと。写真はフリー(注1)であった。
 ということで、レストラン内の、食事を楽しんでいる人々も撮った。客は家族連れが多かった。みな幸せそうである。基地の中は平和ですと感じられる写真である。
 前にもどこかで書いたかもしれないが、私は人妻の浮気、人夫の浮気に対しては寛容である。それと同じくらいに政治家が私腹を肥やすことに対しても寛容である。「その代わりおめぇ、平和を守ることに関しては全力を尽くせ。」という条件をつけるが。平和でありさえすれば、私は生きていける。貧乏でもいいのだ。
 前にも紹介したが、「百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」(山本五十六)は正しいと思う。軍隊はあっても無くてもいい、基地はあっても無くてもいい。平和であることが最も大事。100年平和が保障されれば、その間、基地は必要ない。100年(なるべくなら1000年くらい)、平和が保障されるような世界規模のシステムがいつかできるであろうか。人類の叡智はそこまで進歩するのであろうか。

 レストランにアルコール飲料は少なかった。昼間からアルコールを飲む人は、今は少ないようだ。二十年前までのアメリカ人たちはビールを水代わりのように飲んだ。水という認識なので、車運転しながらも飲んだ。ウチナーンチュにもそういう人は多くいた。夏、肉体労働をし、したたか汗をかいて、その帰りの車の中でビールを飲む、という光景を私は何度も目撃している。昔の話である。最近は、暢気者のウチナーンチュたちも飲酒運転が罪であることを認識しつつある(注2)、たぶん。
 沖縄が本土復帰する以前、米軍人による犯罪は多かった。ベトナム戦争の頃である。戦地に送られて命のやり取りをする若い米兵たちである。彼らの精神が不安定な状況にあったことは容易に想像できる。だからといって犯罪を犯してよいということは無い。沖縄の夏は暑い。そこでの肉体労働はきつい。喉も胃袋もビールを熱望する。その時のビールほど旨いものは無い。だからといって飲酒運転してよいということもまた、無い。
 復帰後、米兵たちの品格は概ね上昇していった。事故や事件が起きるたびに沖縄県や市町村から綱紀粛正の要望が出される。米軍はそれに応える。などということが続いて、今は、米兵たちの品行は昔に比べ、概ね方正となっている。

 レストランの中にフリーマガジンがあった。OKINAWAという名前。ページの半分以上は広告が占めている雑誌。沖縄だけで無く、日本全般を紹介している。
  毎号、観光と文化を紹介しているみたいで、12月号の観光地は鎌倉、文化は沖縄のサンシン(三線、三味線のこと)、剣道、沖縄ガラス。1月号の観光地は岡山と沖縄のホェール・ウォッチング、文化は日本の正月と寿司。詳しい内容については、私は英語がほとんど読めないので紹介できない。でもまあ、「地元のことを理解し、仲良くしようぜ」というアメリカ軍の意図はよく理解できる。良いことだと思う。
 レストランの入口にはシーサーが飾られてあった。ちゃんと阿吽している一対のシーサーである。もっとも、大理石でできているところをみると沖縄製では無く、中国か台湾製なのであろう。それでもまあ、「地元と仲良くしようぜ」という気分は伝わる。そう、仲良くしましょうね。お互い争うことは無いようにしましょうね、と私も思う。

 私は平和が大好物である。そして今、沖縄は概ね平和であると思う。平和であり続けるために、今沖縄にある基地の機能、基地で働く人々の生活、基地がフェンスの外へ及ぼす影響などをちゃんと知っておかなければと思う。できれば、兵士たちの気分も知りたいと思う。でもなあ、英語できないからなあ、それは無理かなあ。
 沖縄の中にアメリカがあり、少なくとも今は、そのアメリカは平和である。でも、ここからアフガンやイラクに向かう人々がいる。彼らの傍にはいつも戦争があるようだ。「傍にはいつも戦争がある」気分って、きついんだろうなって想像する。
 「綱紀粛正でアメリカ軍人軍属による犯罪は復帰前に比べ減った」と書いたが、それでもなお、年間100件前後の事件が起こっているらしい。「相互理解が平和の道」とも書いたが、理解しあえない人は、基地の中にも100人前後はいるというわけだ。それでもなお、理解しあう努力は必要であろう。たぶん長い道、コツコツだ。
 平和の道は基地反対だけでは難しいと思う。どうすれば基地を必要としない世界が構築できるか、も考えなければと思う。いつかその答えが見つかるよう人類の叡智に期待したい。沖縄はこれから先もずっと、戦争は嫌いである。
     

 注1、その日、レストランの中外の写真を多く撮った。写真を撮ることはフリーであるが、その写真をHP載せていいかどうかは聞いていない。で、紹介は1枚だけ。
 注2、飲んで、平気で運転する人は今でも多い。飲酒運転の検挙者は人口比率だと沖縄が断トツの日本一らしい。その罰金額は年間20億円になるとのこと。

 記:ガジ丸 2007.1.27 →沖縄の生活目次


外人墓地

2011年01月03日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 ガジ丸HPの記事数が1000を超えた。何を書いて、何を書いていないか、把握するのが難しくなってきている。また、「このHPは子供も見ているらしい。誤字脱字、言葉の間違った使い方などがあれば訂正しなくてはいけない。そのうちやろう。」と思っているのだが、しかしもう、1000を読み返すのはちょっときつい。
 先日、「熾烈(しれつ)な戦い」という文字を使った時、ふと、熾烈の熾という字に興味を持った。中学生の時、漢字の書き取りテスト全100問のうち3問しか正解できなくて、クラスで最下位だったほど、元々漢字の書き取りを苦手としている私は、熾烈の熾という字は、手書きしている頃には書けなかった字である。ワープロのお陰で、「おー、シレツとはこう書くのであったか」と分った次第。
 HPの別の記事で、「火鉢に火をオコす」の「オコす」を「起す」とたぶん書いてしまった。が、「オコす」という字は、正しくは「熾す」と書く。熾烈の熾という字に興味を持ったのは、もしかしたらそうではなかったかと薄い記憶があったからである。こんな間違い、探せばもっとあるんだろうなと思う。でも、いいさ、恥かく人生さ。

 恥かくオジサンはまた、基地という基の字と墓地の墓の字をよく間違える。字の書き取りを間違えるのでは無く、読みを間違える。墓地をキチと読み違えるのである。これはしかし、無知のせいでは無く、老眼のせい。ぼやけた基と墓が同じに見えるせい。

  先日、たまたま近くに用事があり、那覇市泊にある外人墓地(老眼で、老眼鏡を頑なに拒否している皆様、外人キチでは無く、外人ボチです)を訪れた。那覇市泊は私の実家がある街、私は泊小学校出身である。外人墓地は泊港北岸近くにあり、小学生の頃、この辺りは遊び場所であった。私の家から歩いて5、6分の距離である。
 外人(主にアメリカ人)墓地は沖縄の墓とも倭国の墓ともまったく趣を異にし、異国情緒溢れる風景となっている。また、泊港北岸は慶良間へ向かう船の発着場所であり、若い頃、慶良間諸島へたびたび遊びに行っていた私は、小学生の頃や若い頃の思い出と外人墓地の風景が交錯して、ここに立つと、何とも懐かしい気分になる。

 若い頃、慶良間諸島へ何度も行っている私が、1度だけ慶良間へ向かう人の見送りをしたことがある。私の下半身は「さほど」であったが、私の心は「大好き」と思っている人であった。その頃私は浪人生、彼女は大学生。大学のサークルか何かの行事で慶良間へ出かけると聞き、見送りに行った。泊港北岸を出ると目の前に外人墓地がある。見送った後、そこで少し休む。未成年であったが、煙草に火をつける。「好きなんだろうな」としみじみ思う。結局、彼女と恋仲になることは無かったが、外人墓地を見ると、そのことが真っ先に思い出される。彼女の笑顔がくっきりと思い浮かぶ。

 泊にある外人墓地についての詳細については、残念ながら文献が無いので(あるいは、私が探せないので)不明。少なくとも40年前からはあった由緒正しい墓地。
     

 記:ガジ丸 2007.1.25 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


正月

2011年01月03日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 31日までに掃除を全部終わらせて、正月は「はっ、はっ、はっ」と余裕の高笑いをする予定であったが、余裕持ちすぎて、映画を観たり、親戚の子供たちと遊んだり、飲みに行ったりして、余裕が消えた。今年もまた、正月早々掃除となった。その影響はまた、ガジ丸HPの記事にも現れた。貯蓄が全て消えた。できあがった記事が1つも無いという状態になった。正月はのんびりという予定がまったく駄目になってしまった。

  1日、実家へ行って、新年の挨拶をして、買い物へ行く。31日に買い物はほとんど済ませていたのだが、年が明けてから急に足りないものができた。天麩羅油と天麩羅ガードとパン粉である。酒の肴も予定が狂ってしまったせいである。
 大晦日に特大車海老を5尾買った。火鉢に炭をおこして、塩焼き車海老にしようと予定した。有頭車海老に塩を振って、殻ごと炭火で焼いて、あちちっと言いながら殻を剥き、湯気の立つその白いプリプリした身を、はふはふしながら食うと旨いのである。
 ところが正月、火鉢に炭をおこすような気候では無かった。1日の午後3時、私の部屋の気温は25度あった。半袖Tシャツで過ごせる正月となった。
 そんな気候では、炭はおこせない。さて、しかし、今年の正月のメイン肴にしようと予定した特大車海老をどうするかである。塩焼きを変更してフライにすることとした。というわけで、天麩羅油と天麩羅ガードとパン粉が急遽、必要になったのである。

  実家から近い那覇新都心の大きなスーパーを2軒回る。2軒ともパン粉はあるが、天麩羅油と天麩羅ガードが無い。売場はある。その名が書いてある棚もある。右に左に別の油はびっしり並んでいるが、天麩羅油のところだけぽっかりあいている。天麩羅ガードも同じで、2軒ともまったく同じ状況であった。
 首里に戻って、よく行っているスーパーを4軒とも回る。そして、その4軒ともに新都心の2軒と同じく、天麩羅油と天麩羅ガードが無かった。
 首里のスーパーの最初の1軒目で私は気付いた。そう、沖縄の正月に天麩羅は欠かせないのであった。ほとんどの家で天麩羅を揚げる。天麩羅ガードと天麩羅油は沖縄の正月に絶対必要品なのである。よって、スーパーからそれらが消えたのである。

  正月3日に、従姉の娘夫婦と飲みに行った。彼らは今北海道に住んでいるが、正月休みで帰省していた。帰省?普通、帰省は亭主の実家だろう?亭主の実家は神奈川だろう?とちょっと疑問を持ったが、まあ、暖かい沖縄で正月も良かろうと亭主も賛成したということなのであろう。その、神奈川出身の亭主に、「倭国でも正月に天麩羅をするか?」と訊いたが、「天麩羅はあまり見ない」とのこと。おせち料理のほとんどが煮物とのこと。倭国の正月の三日間、常温に煮物を置いても大丈夫というわけ。沖縄の正月の三日間、常温で煮物は痛んでしまうというわけ。揚げ物なら何とか持つというわけ。
     
     

 記:ガジ丸 2007.1.4 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行