ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

結婚式

2011年01月03日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

  20年ほど前までは結婚披露宴なるものにたびたび出席していた。友人たちが世間で言う結婚適齢期にあったからだ。ちゃんとした披露宴は15年前の、模合(相互扶助的飲み会)仲間KT、UT(この2人は同じ年に結婚している)が最後で、軽めのものは同じく模合仲間Mの、一昨年やった披露宴となる。・・・と思っていたが、
 ちょっと調べてみたら他にもあった。友人の姪の結婚式と同僚のMの結婚式が2001年に、同じく同僚のTが2003年にやっている。それらの披露宴に私も出ている。従姉の子供たちが2~5年前に結婚し、披露宴もやっているが、酔ったら何する か分らないとでも思っているのか、私はそれらには呼ばれていない。念のため言っておくが、私は酔うとお調子者になってしまうことがまれにあるが、暴れたりはしない。
 先日(4月28日)、友人Hの娘の結婚式があり、その披露宴に呼ばれた。本格的な披露宴に出席するのは、よって、同僚のT以来の4年ぶりとなる。

 倭国での結婚披露宴に、私は3度参列している。1度目は従姉の披露宴、岐阜で30年ばかり前。それは、小さな会場でこじんまりとしたものだっ た。沖縄の結婚披露宴は新郎新婦の友人だけでなく、二人の両親の友人も呼ばれる。親戚はもちろん、職場からも大勢参列して、200人から300人くらいの人数となる。そういうのが当たり前と思っていた私は、岐阜の結婚披露宴には何か淋しい感じを受けた。でも、倭国の結婚披露宴はたいていそんなものだと周りの人たちから聞いた。
 2度目は東京で20年ばかり前。新郎が付き合いの広い人だったため、場所は大きなホテルの広い会場で、たくさんの人が集まっていた。3度目は宮崎で10年ほど前。これは岐阜の時に近く、倭国の一般的な規模の披露宴のようであった。

  東京での披露宴は大勢の参加者がいて、沖縄のそれに規模は近かったが、東京を含め、岐阜、宮崎の披露宴と沖縄の披露宴にはさらに違いがある。
 沖縄では、新郎新婦の両親は礼服を着るが、その他の参列者は普通のスーツ姿である。また、最近はちゃんとした祝儀袋を使う人も増えているが、以前は薄っぺらな祝儀袋で済ます人が多かった。10年前までは私もそうであった。宮崎の結婚披露宴の時に、それを持っていこうとしたら、その前に立ち寄った鹿児島の友人に、「そんなのここでは使えない」と注意され、立派な祝儀袋に替えてくれ た。

 沖縄の披露宴はまた、余興が多い。余興のための披露宴といってもいいくらいである。その代わり、倭国に多いスピーチは、乾杯の音頭の他に新郎の職場代表、新婦の友人代表などせいぜい3、4人である。新郎新婦の友人たちはスピーチよりも余興に力を入れる。いろんな出し物が見られる。観客を楽しませてくれる。
 余興の最初はほぼ決まっている。めでたい時に演じられる琉球古典舞踊「かぎやで風」が新郎新婦の親戚の誰かによって舞われる。その後、数少 ないスピーチを挟み、新郎新婦がお色直しをして再入場するのを挟みながら友人、親戚による余興が続く。最後の舞台もほぼ決まっている。新郎新婦、両方の両親を含め、披露宴参列者の有志によるカチャーシーが舞われる。それが終わると舞台には幕が下りる。
 その後、新郎新婦が両親に感謝の辞を述べ、二人が退場して、披露宴は終わる。飲みながら食いながら、周りの人々とおしゃべりしながら、余興を見ながら、短くても2時間、長い時は3時間が楽しく過ぎていく。この日は3時間の楽しい時間だった。
     
     
     
     
     
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2007.4.29 →沖縄の生活目次


良き隣人

2011年01月03日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 復帰後、日本の経済発展のお陰で、つられて沖縄も発展して、沖縄の物価がアメリカを凌ぐようになり、今では近所にアメリカ人が住んでいるなんてことはほとんど無いが、私が子供の頃、沖縄はまだ本土復帰前で米軍の統治下にあった。その頃は、アメリカは裕福で、沖縄は貧乏であり、貧乏なウチナーンチュにとっては家賃の高いアパートも、アメリカ人にとっては安かったらしく、民間のアパートに住むアメリカ人も多くいた。そういったアメリカ人は軍人では無く、軍属である。軍人は基地内に住まいがある。
 私の家の向かいにアパートがあり、そこにアメリカ人一家が住んでいた。私と同年代の男の子が一人いた。名前も覚えている。愛称なんだと思うが、彼はポッカと言った。ウチナーンチュは人の名を語尾を伸ばして呼ぶので、我々は彼をポッカーと呼んだ。
 なにしろ言葉が通じないので、そうたびたびでは無かったが、彼と一緒に遊ぶこともたまにはあった。で、名前を覚えているのだ。そう仲良しってわけでも無いが、仲が悪かったなんてことも無かった。我々も普通の人間で、彼も普通の人間で、わけも無く嫌い合うようなことは無かったのである。我々は、まあ、普通に良き隣人であった。

 今週の別の記事『嘉手納カーニバル』で紹介している『隣人の素顔』(NHK沖縄放送局編)という本では、米軍も現地との相互理解に力を入れるようになり、それ専門の部署を設け、現地との交流をスムーズに運ぶようにし、米軍内部に対しては、現地住民の「良き隣人」になるようにと指導しているようなことが書かれてあった。
 相互理解を深めるために、米軍もいろいろ努力しているようである。私も相互理解が進むことには賛成である。どんどん交流を深めていったら良いと思う。しかしながら、相互理解の、その目的は彼我で大きく異なっている。同床異夢である。
 米軍にとって沖縄の基地は、東アジア戦略の重要な基地である。しかも、ここは太平洋戦争における大きな戦果でもある。戦争に勝って得た領土である。手放すわけにはいかないのである。なので、現地住民の基地反対運動は彼らにとって困ったことなのである。できれば、現地にも基地運営に協力的であって欲しいのである。これが彼の目的。
 相互理解は良いことであると言う我の目的は、「ウチナーンチュは争い事を好まない平和を愛する人々である。」と理解させ、「こんな島に戦争の可能性のある武器や基地は似合わない。」と思わせることにある。まあ、何とも甘い考えであるが、しかも、そのためにはウチナーンチュがそうであるよう努力をし続けなければならないが・・・。

  いつの日か、良き隣人が、戦争の可能性の全てを引っさげて、沖縄から出て行く。隣人が去っていくのは淋しいことであるが、沖縄が良い島であれば、そこには戦争の可能性を持たない新たな隣人がやってくるであろう。そして、沖縄が良い島であればまた、去って行った良き隣人たちも、いつか良き旅人となって訪ねて来て、旧交を温めるなんてことがあるかもしれない。まあ、なんとも甘い考えではあるだろうが、全く可能性が無いわけでは無い。未来には、そんな甘い考えが実現するであろうと夢を見つつ、少なくとも今、隣人である間は、互いに良き隣人でありたいと思っている。

 なお、『隣人の素顔』は2000年の発行で、今からもう7年前の話である。この7年間で米軍側の、相互理解への取り組みはさらに進んでいるに違いない。基地反対の立場にいる人でも、身元がはっきりしていて、ちゃんとした理由があれば、基地内見学を許可してくれるに違いない。近いうちに、申し込んでみようかと思っている。
     

 記:ガジ丸 2007.3.24 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


嘉手納カーニバル

2011年01月03日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 沖縄の嘉手納飛行場(通称を嘉手納基地)は、アジア最強の米軍基地である。広さは約1990ヘクタール、東京ディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の約20倍であり、東京都中央区の面積の約2倍にあたる。だが、それで驚いてはいけない。隣接する嘉手納弾薬庫地区は約2800ヘクタールあり、さらに言えば、沖縄にある基地の総面積は約237000ヘクタールとなる。東京のJR山の手線で囲われた面積の約38倍となっている。「すげぇー」と思う。
 嘉手納基地の軍備はたぶん、アジア最大最強の米軍基地である。つい最近、アメリカ国外には配備されたことの無かった最新鋭戦闘機F22が12機、臨時配備としてやってきた。嘉手納基地はアメリカのアジア戦略にとって、最も重要な基地なのであろう。

 そんな嘉手納基地であるが、私には良い思い出がある。
 ここ2、3年はやっていないらしいが、嘉手納カーニバルという祭事が、アメリカの独立記念日だったかの日に嘉手納基地内で開かれている。通常は、軍関係者以外の人間は基地の中へ入れないが、嘉手納カーニバルは倭人もウチナーンチュも基地の中へ入って、アメリカ人たちと一緒に祭りを楽しむことができる。
 本土復帰前、私が子供の頃も、嘉手納基地では毎年嘉手納カーニバルが開かれていた。私も2度ばかり、父に連れていってもらった。会場にはたくさんの模擬店が並んでいて、店員は皆アメリカ人で、そのアメリカ人のオジサンたちは皆ニコニコしていて、たくさんのゲームがあって、大きなホットドッグやハンバーガーがあって、キャンディーやチョコレートが溢れていた。夕方からは空に花火が咲いた。子供には夢のような世界だった。

  子供の頃の嘉手納カーニバル、子供の私にとって、アメリカのオジサンたちは皆良い人に見えた。輪投げゲームをやって的から外れた時も、黒い肌白い肌のオジサンたちはチョコレートやキャンディーをおまけしてくれた。子供の私にとって、アメリカのオジサンたちはウチナーンチュの優しいオジサンたちと何ら変わりなかった。同じ人間であった。
 基地の弊害も多くあろうが、でも、今はそこに基地がある。在るものとはできるだけ楽しく付き合えた方が良い。たくさん交流して、相互理解を深めた方が良い。基地側も、ウチナーンチュの基地内への出入をもっと緩くしたら良い。基地の中の人間が基地の外へ遊びに行くように、基地の外の人間が基地の中へ買い物に出かけることが日常的にできるようになると良い。そこにはきっと、たくさんの喜びが生まれるであろう。
 基地が無くなればという夢は、将来の夢として淡々とその夢の実現に向かって計画を練っていけばいい。10年後20年後でなくても良いのだ。100年後200年後の計画で良いのだ。今、計画を練る努力は、この島の将来の、平和の礎(いしじ)となろう。
     

 この記事を書くために1冊の本に目を通した。『隣人の素顔』(NHK沖縄放送局編)という本。サブタイトルに「フェンスの内側から見た米軍基地」とある。それによると、海兵隊基地司令部には1997年に「外交政策部」が設置され、地元との相互理解に力を入れるようになった。翌98年には『東アジア戦略報告』に「良き隣人」という項目が設けられた。フェンスの外に対して良き隣人になりましょう、ということだ。
 相互理解は良いことである。交流を深めることに私は賛成する。嘉手納カーニバルは楽しかった。ぜひ、復活させていただきたいものである。
 なお、相互理解については補足したいことがあるが、これは別項『良き隣人』で。

 記:ガジ丸 2007.3.24 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


コクサイドオリ

2011年01月03日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 高校生の頃、「遊びに行こう」、「本屋に行こう」、「レコード屋に行こう」、「飲みに行こう」というとたいてい国際通り(那覇のメインストリート)へ向かった。
 首里からバスに乗って那覇へ下りていく。首里も那覇の一部ではあるが、首里高校生たちは国際通り近辺へ行くことを「那覇へ行く」、「那覇へ下りる」などと言った。
 現在の那覇市は、琉球王朝時代には首里、泊、那覇、真和志、小禄の5つの村(間切と云う)に分かれていて、王府のあった首里は当然その中でも一等格上、と思っている首里の人は多かっただろう。首里高校生たちはそこまで思ってはいないが、少なくとも首里と那覇は別物という感覚はあったのである。

  当時(70年代)の国際通りは、ウチナーンチュの遊び場所であり、買い物する場所であった。観光客相手の店も多かったが、今ほどでは無い。現在では沖映通りに2軒残っている程度のパチンコ屋、マシン屋(スロットマシン)が当時は15軒ほどあり、スマートボール屋、アレンジボール屋なんてのもあった。射的もあり、卓球場もあり、ビリヤード場も数軒あった。本屋、めがね屋、レコード屋にデパートが3軒あった。国際通りは、ウチナーンチュの買い物場所であり、アミューズメント通りだったのだ。

 沖縄を訪れる人は年々増えている。年間入域者数は、1980年代で200万弱、1990年代で300万ほどとのこと。数年前からの沖縄ブームもあって、確か一昨年からは500万人を超えている。私が高校生だった当時は100万に満たなかった。国際通りを歩くのはウチナーンチュがほとんどで、倭国からの観光客はちらほらであった。
 ウチナーンチュの買い物、及び遊び場所は今、分散している。現在、最も多くのウチナーンチュが集まる場所は、国際通りからほど近い那覇新都心となっている。大型スーパーがいくつもあり、シネコンがあり、飲み屋も数多くある。他に、若者たちは車で3、40分ほどの北谷ハンビータウンへ行ったりする。

  那覇新都心に多くの客を奪われてはいるが、国際通りも廃れたわけでは無い。いや、まだまだ賑やかなのである。こんな賑やかな地方都市の商店街が他にあろうか、と思うほどなのである。先週土曜日、模合(モアイ、言い訳の効く飲み会)があった。飲み会の場所は、国際通りから横道を入ったところにある。せっかく国際通りに行くのだからと、私は大好きな桜坂劇場へ寄る。映画『ダーウィンの悪夢』を観る。桜坂劇場から飲み会場所までは徒歩で6、7分の距離。映画の後、国際通りをブラブラと歩く。
 新しいホテルができていた。建築中の場所もいくつかあった。国際通りにはたくさんの人がいた。ウチナーンチュの買い物場所であり、アミューズメント通りだった昔とちっとも変わらないくらいの人通りである。ただし、その構成は違っている。昔は歩いている多くがウチナーンチュだったのに、今は多くが観光客となっている。
     
     

 記:ガジ丸 2007.3.11 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


コザ一番街

2011年01月03日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 大学浪人している頃、浪人の癖に私には彼女がいた。中学、高校とモテなかった私にとって、恋人と呼べる初めての人だった。初めての彼女は、初めての淫らな行為をする人になった。有頂天になった私は、彼女とほぼ毎日のように淫らな行為をしていた。私は愛欲の海に溺れて行き、大学受験のことは二の次になっていた。
 私は溺れていたが、彼女の方はずっと落ち着いて(女は強い)いて、私との付き合い方も冷静であった。乳繰り合うだけが男女の付き合いでは無いことを良く知っていた。
 彼女はコザ(現沖縄市)の人で、コザの街をたびたびデートして、伝統のエイサーを教えてくれた。ジャズクラブの存在も教えてくれた。ジャズの他、ロックや琉球民謡も盛んであることを教えてくれた。ピザやタコスの美味しい店も教えてくれた。コザの街とは、何ともチャンプルー(ごちゃ混ぜ)な文化を持っているということを私は知った。
  インド人のやっている店が並ぶ(これも彼女が教えてくれた)空港通り(突き当たりに嘉手納飛行場のゲートがあるのでこの名がついている)から北側の一角に、一番街という名前のアーケード街がある。当時、できてからまだ、そう年月の経っていない新しいアーケード街であった。賑やかな街であった。何か全体がキラキラしている街であった。クリスマスパーティー用のドレスとブーツを、彼女はそこで揃えた。その時私は荷物持ちをしていた。一番街にあるいくつかの店をあちこち回りながら、彼女はドレスを選ぶ。
 「似合う?」と、試着するたびに私に訊く。
 「うん、似合うよ。」と私は若造のくせに、大人の男のような口調で答える。荷物持ちは、大人の男のような気分になって、ちょっと嬉しいのであった。ちなみに、それから数日後のクリスマスパーティーに私は呼ばれなかった。彼女は、彼女の女友達数人と連れ立って、アメリカ人の多くやってくるホテルのパーティーに参加した。アメリカ人の若い男共とダンスを楽しんだということである。「とっても楽しかった」とのこと。

  コザ一番街には有名な楽器店、レコード店があり、まだ私がギターを掻き鳴らしていた25年ほど前までは、たまに訪れることもあった。しかし、その後はほとんど行っていない。最近では、沖縄市民会館でオペラのあった5年前に一度、義兄と南京食堂(ショウロンポーの有名な中華料理屋)へ食べに行った3年ほど前に一度、同じ頃に、静岡の美女Kさんと南京食堂目的(閉まっていた)で行ったくらいである。
 私が初めての彼女と乳繰り合っていた当時は賑やかであったコザ一番街であるが、現在は、倭国の地方都市の商店街のようにちょっと寂れてしまっている。コザ(沖縄市)の隣の北谷町にハンビータウンという名の商店街がある。そこが十数年前から若者の街として人気がある。コザ一番街はどうも、そこに客を奪われてしまっているようだ。
 コザ一番街の周辺には面白そうな店が多くあり、ライブハウスなどは、なお健在であるらしい。独特の空気を持った街である。昔の賑やかさを取り戻して欲しいと思う。
     
     

 記:ガジ丸 2007.3.11 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行