ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

芋の時代再来

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 かねてから考えていたことを、今年は実現に一歩近付ようと一年の計として決めた。一歩近付けるのである。実現は来年以降の話である。鬼が笑うが。
  先ず、計画を文書化し、スケジュールを立てる。そして、実現に必要な情報を集め、具体的な方法を考え、決定し、スケジュールに組み入れる。予算や時間に無理が無いと判れば、実行する。絵に描いた餅にはしないつもり。予算や時間に無理が無いという条件下では、やはり、実行は来年以降となりそうなのである。鬼が笑うが。

 芋を作る。塩の作り方を覚える。以上を最初の目標とする。芋があり、塩があれば少なくとも生きていける。その次に、水の確保(雨水などを溜める)、トイレを作り、小屋を建てる。衣食住の住とい うことである。これについては10年後の目標となる。

 『芋の時代(ンムヌジダイ)』という琉球民謡がある。古い唄だが、私は、2、3年前に民謡スナックで飲んでいた時に聴いて、初めて知った唄。その時に「良い唄だ」と気に入ったのだが、今、その曲や歌詞を思い出すことができない。その曲が収録されているCDも手元に無い。が、工工四(くんくんしぃ:琉球民謡の楽譜)はある。
 『芋の時代』は歌詞が5番まである。その5番を和訳の意訳をすると、

 三度三度の食事を芋と塩でお腹を満たし、生き延びてきた。
 それは親のお陰、その恩を忘れてはいけない。

となる。歌全体の大意も概ねそういうことになっている。

  昔の沖縄では、庶民の主食は芋であったらしい。戦中、戦後のしばらくもそうであったらしく、私の父は子供の頃ずっと芋ばっかし食わされたと聞いている。 
 私が子供の頃はもう、三度三度の食事は概ね白いご飯であったが、芋の食卓も稀にあった。芋を主食として、汁物がつき、おかずはスクガラス(小魚の塩辛)、またはスクドーフ(豆腐の上にスクガラスを乗っけたもの)などがあった。塩辛は塩分たっぷりである。『芋の時代』の歌詞にある「芋と塩でお腹を満たし」に近い食事であった。

  芋はデンプン質が多く、米などの穀物と同等の主食になる。さらに。ビタミン・ミネラル・食物繊維が豊富で、野菜の代わりにもなる。これ一つでご飯とおかずを兼ね備える優秀な食品なのだ。足りないのはタンパク質くらいらしい。タンパク質は豆腐に豊富。そうか、だから我が家の芋食卓にスクドーフが添えてあったわけだ。

 沖縄では芋の葉も食べる。芋の葉のことをカンダバー(蔓葉)と言い、カンダバージューシーは子供の頃何度も食べている。今回参考にした『甘藷の文化誌』には、カンダバーも含めて、芋の食べ方もいろいろと紹介されてあった。このHPでも既にウムクジソーミンを紹介しているが、芋のデンプンからは麺も作ることができる、などとわざわざ述べるまでも無い。芋のデンプンは春雨の原料にもなっている。
 なお、芋は単位面積当たりの供給熱量が米の約2倍あるらしい。つまり、1人が生きていくための量を、芋は米の半分の面積で供給できるということ。そういったことも含め、芋が不況の世の中を救う作物になるかも・・・といった話は後日、別項で。
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2009.1.1 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『甘藷の文化誌』比嘉武吉著 比嘉菊発行


時間に余裕のない年齢

2011年01月07日 | 通信-社会・生活

 住む人のいなくなった実家、真っ暗で、何の音もしないまま新年を迎えるのは、仏壇の父も母も寂しかろうと思い、大晦日の夜から元旦までは実家で過ごすことにした。大晦日の夜からの予定であったが、実際には、午後3時には実家にいた。
 全国的にも寒いようだが、沖縄も暮から冷えた。こんなに寒い正月なんて、私が子供の頃はあったと思うが、ここ20年では記憶に無い。念のために沖縄気象台のデータで確かめた。大晦日11.9、正月12.5が今回の平均気温、それに次ぐのは、2004年の大晦日15.2、翌年正月13.0で、平年値は大晦日17.4、正月17.4となっている。
 で、あんまり寒いので、焼け石に水程度の小さなヒーターしかない我が家では、座ってパソコンに向かっていると体が震えてくる。んで、焼け石に水よりはずっと増しな暖房器具があるに違いない実家へと早めに出かけたわけ。
         

 早めに行ったからと言って暇ということは無い。年末に実家の大掃除をし、その際、布団干しや洗濯もした。洗濯はベッドカバー、布団カバー、枕カバー、シーツ、タオルケットなどだが、実家には寝室が5部屋あり、それぞれにそういった洗濯物がある。年末に洗濯できたのは全体の2割程度に過ぎない。残りの洗濯をし、年末大掃除でやり残しておいた台所のコンロ周り、流しなどの掃除をする。買い物へ行き、鉢物に水をやる。

  そういったことを終え、焼け石に水よりはずっと増しな暖房器具が見つかったので、それをつけて、テレビを観る。年末年始のテレビ番組は、若い頃は大好きでよく観ていた。お笑いも歌番組も、格闘技もドラマもよく観ていた。しかし、ここ数年は、そういったものがつまらないと思うようになり、あまり観ておらず、音楽を聴いて過ごしていた。家のテレビが室内アンテナで、画面がきれいに映らないという理由もあった。実家で年末年始を過ごすと決めた時、実家はBSアンテナも付いており、地デジ対応でもあったので、何か面白い番組が、きれいな画面で観られるであろうと期待していた。
 ところが、ほとんどのテレビ番組がつまらない。あちこちチャンネルを替えてみたが、今記憶に残っているのはNHK教育のクラッシックコンサートと朝日テレビ系のニュース番組(2010年のニュースを解説するもの)だけであった。
 年明け元旦のテレビ番組、若い頃はフジ系のお笑い番組をよく観ていたが、今はそれももう「くだらない」と思うようになってしまっている。その他のチャンネルもほとんどつまらなくて、私がじっくり観たのは、BSフジ(だったと思う)がやっていた世界遺産を紹介する番組、その中の沖縄の世界遺産を紹介している時間だけ。
 
 テレビ番組がつまらないと思うようになったのは年取った証拠かもしれない。感性が鈍ってしまっているのかもしれない。バカな事をして馬鹿笑いするテレビの向こうの感性に私は付いていけないでいる。「何が楽しいの?」と思ってしまう。
 正月二日から私は畑に出て、草抜きをし、土を耕している。非生産的なテレビ観賞よりずっと崇高な事をやっているなどと自慢したいわけでは無い。つまらない時間を過ごすよりは食糧生産に繋がることをやっている方が楽しいと思っているに過ぎない。「つまらない時間を過ごす」余裕の無い年齢になった、という証拠なのかもしれない。
         

 記:2011.1.7 島乃ガジ丸


仕来りの生まれ方

2011年01月07日 | 通信-社会・生活

 2011年の年明けは実家で迎えた。前日大晦日の午後、実家へ行き、そのままずっと実家にいて、仏前に年越しソバを供え、御相伴し、年が明けてから寝た。
 年が明けてから寝るのは久しぶりのこと、ここ数年記憶に無い。大晦日はいつも一人で酒を飲んで過ごし、除夜の鐘が聞こえる前には酔って、寝ている。早く寝るので、元旦の目覚めが早い時もあり、建物の間からだが、初日の出を拝めたこともある。
 2011年の目覚めは午前8時であった。12月後半にひいた風邪もすでに完治して、体長は良好、実家には暖房器具もあって快適な睡眠であった。ぐっすり寝た。
           

  寝坊したせいで遅くなってしまった元旦の朝飯、用意したのは自作の雑煮とスーパーで買った御節4点(ごまめ、黒豆、栗きんとん、昆布巻き)セット。自作の雑煮は前日に家で作って、一人分をタッパーに入れて持ってきてあった。我が家の伝統、つまり、母の作る雑煮は鶏肉と大根(人参なども入っていたかもしれない)の白味噌仕立てであったが、私の雑煮は魚介の出汁に大根とコンニャクとネギの済まし汁仕立て。
 我が家の伝統に逆らっているのは、母の作る雑煮が不味かったからではけして無い。母は料理上手であった。他の沖縄風御節料理も含めて皆美味しかった。ただ、澄まし汁仕立ての方が酒の肴に代えやすいからという飲兵衛の都合によるものである。
 自作の雑煮、タッパーから出して鍋に移し温める。ところが何と、迂闊にも、肝心の餅を忘れた。前日買ってあったのだが、家に忘れた。外は寒いし、今から買いに行くのは面倒だし、ということで、餅の入っていない雑煮を仏前に供えた。
          

 餅が入っていたとしても私の自作の雑煮は、我が家の伝統では無い。他の御節4点セットも我が家の伝統では無い。ごまめ、黒豆、栗きんとん、昆布巻きなどは倭国風であり、沖縄の伝統的正月料理でさえ無い。沖縄の伝統、及び我が家の伝統的正月料理は豚肉、昆布、ゴボウなどの煮物、魚、ゴボウ、インゲンなどの天ぷら、紅白の蒲鉾、サーターリンガク(田芋のきんとんのような物)そして、中味(ブタの内臓)の吸い物。
  大晦日の年越しソバもまた、私は伝統に則っていない。沖縄の伝統はおそらく沖縄ソバであろう。我が家の伝統は、私が子供の頃からずっと、母が作る鍋焼きウドンであった。母の作る鍋焼きウドンは美味しかった。美味しかったが、私の年越しソバは鍋焼きウドンでも沖縄ソバでも無く、倭国風の蕎麦、ざるそばにして食う。

 お節料理も年越しソバも我が家の伝統に則らないのには訳がある。先ず、沖縄風お節料理は手間がかかるのと、私は正月には日本酒を飲む、日本酒には豚肉料理よりもごまめ、黒豆、昆布巻きなどが合うからだ。また、ざるそばも日本酒の肴になるからだ。
 もしも私に子供がいたら、私の作る年末年始の料理を見て、それが我が家の仕来りだと思い、受け継がれていくであろう。仕来りはそうやって生まれる。私が飲兵衛であるばっかりに、我が家の料理は「酒の肴になる」ということが条件になるに違いない。
 そんなわけで、母が長年かけて作り上げた仕来り、大晦日には鍋焼きウドン、正月は沖縄風御節に、白味噌仕立ての御雑煮というのは絶えることになる。
 「母さん、残念だろうけど、これも運命だ。」と言うしかない。

 記:2011.1.7 島乃ガジ丸