玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(12)

2015年04月07日 | ゴシック論
 放浪者メルモスはアイルランドに生まれ、百五十年以上を生きて、アイルランドで死を迎える。その間メルモスは世界中の至るところに出没する。「何の障碍もなく遅れもなく空間を往来」する能力を与えられているからである。だから最後に“旅”について触れておかなければならない。
 放浪者メルモスは「スタントンの物語」ではスペインとロンドンに出現する。「スペイン人の物語」ではマドリッドに、「印度魔島奇譚」ではインドの孤島に、「グスマン一族の物語」ではセビリアに、「恋人の物語」ではイギリスに姿を現す。第三十二章ではオランダにも、ポーランドにも出現したことがほのめかされているし、アロンソの話がメルモス自身によって妨げられることがなければ、さらに多くの場所に出現したことが明らかにされただろう。
 メルモスはなぜ“旅”をするのか? 言うまでもなくそれは残酷な運命に弄ばれ救いを求める者に、メルモス自身の運命との交換を提案するためである。しかしメルモスの立場からでなく、小説の内部の問題としてそれがどうなのか考えてみる必要がある。小説という場にあって“旅”というものがどのように機能しているのかをこそ考えるべきである。
 アロンソが修道院からの脱出を企てる場面で、修道院から抜け出したところでマドリッド全体が修道院化されているので、脱出の意味がないと悩む場面がある。アロンソにとっては修道院だけでなくマドリッド全体がゴシック的空間と認識されているのである。
 ならば、メルモスが“旅”をすれば訪問先の土地は必ずやゴシック的空間と化すだろう。印度の楽園の孤島でさえもが、メルモスの出現によってゴシック化されるように。“旅”はつまり世界をゴシック化するための企てなのである。
 坂本光が『英国ゴシック小説の系譜』で言うような「転地療法」だとか、「己の心情と目に映る景色とを重ね合わせることによって自己確認し、同時にそれによって心情の働きを増幅する」働き、などという規定は完全な的はずれと言わなければならない。メルモスは自身のおぞましい似姿を世界に対して与えるべく世界中至るところを旅するのである。
 第一に、旅するメルモスの原型が“さまよえるユダヤ人”伝説にあるとしても、メルモスは必ずしも一定の地に安住することなく、旅することを宿命づけられているというわけではない。メルモスは「何の障碍もなく遅れもなく空間を往来」する能力を持っている。メルモスは自分自身の判断で、世界中好きなところに出現することができる。がから、インドの孤島にイマリーを尋ねている途中で訪問を切り上げ、ロンドンにいるスタントンのもとに駆けつけることだってできるのだ。
『放浪者メルモス』は“旅”というものを世界のゴシック化の手段として示した、おそらく最初の小説であろう。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』でも、フランケンシュタインは怪物を追って北極圏まで旅をするが、人間のいない北極圏などゴシック化されてみようがないのであって、メルモスは必ず人間のいる場所(それが孤島であっても)にしか出現しないのであった。ゴシック的空間は人間の認識と分かちがたく結びついているのである。そのことについては他の作品について考察するときに明らかにしてみたい。
(この項おわり)