玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(7)

2015年04月19日 | ゴシック論
「絞首台」Le Gibetもまた、原「スカルボ」と同様『夜のガスパール』本編に入れられなかった作品である。その理由は原「スカルボ」の場合と同じであろう。どちらもロマンティックな“私”の苦悩を描いて、『夜のガスパール』が真に目指したものとは違う部分を持っているからである。
 第一に『夜のガスパール』本編には原「スカルボ」や「絞首台」のように一人称で書かれた作品は第三の書「夜とその魅惑」La Nuit et ses prestigesのいくつかの作品を除いて全くないのである。このことはベルトランが一人称で語られる“魂の叫び”のようなものを目指したのではないことを証明している。
 ところでモーリス・ラヴェルは〈夜のガスパール〉の中にベルトランがはずした〈絞首台〉と原〈スカルボ〉の二曲を入れた。これが何を意味しているのかについては原「スカルボ」と新「スカルボ」の比較で見なければならないが、やはりその単純明快さが理由の一つであったことは明らかであろう。「絞首台」も原「スカルボ」も一人称で書かれた分かりやすい作品である。あまり複雑な内容では作曲が難しくなるからということもあっただろう。
 では原詩を(序詩は省略)。

                 LE GIBET

Ah ! ce que j’entends, serait-ce la bise nocturne qui glapit, ou le pendu qui pousse un soupir sur la fourche patibulaire ?

Serait-ce quelque grillon qui chante tapi dans la mousse et le lierre stérile dont par pitié se
chausse le bois ?

Serait-ce quelque mouche en chasse sonnant du cor autour de ces oreilles sourdes à la fanfare des hallali ?

Serait-ce quelque escarbot qui cueille en son vol inégal un cheveu sanglant à son crâne
chauve ?

Ou bien serait-ce quelque araignée qui brode une demi-aune de mousseline pour cravate à ce
col étranglé ?

C’est la cloche qui tinte aux murs d’une ville, sous l’horizon, et la carcasse d’un pendu que
rougit le soleil couchant.

ラヴェルの〈Le Gibet〉は執拗に繰り返される変ロ音に支配されている。最初から最後までこの不吉で不気味な音が鳴り響く。この音に対応するのは何かと言えば、最終連にあるla cloche qui tinte aux murs d’une villeなのであり、それは同時にla carcasse d’un pendu que rougit le soleil couchantでもある。ここで聴覚的な現象が視覚的な現象と同類のものとされていることに注意しなければならない。
(〈Le Gibet〉つづく)