E・T・A・ホフマンの多くの作品において特徴的なのは、その幻想的な場面の奇想天外さと迫真性である。ホフマンの破天荒な想像力は他に比肩するものがないほどの幻想描写を可能にしている。
『悪魔の霊酒』においてもそれは例外ではなく、いくつかの幻想的場面があるが、なかでも凄いのは、小説後半で罪を悔いたメダルドゥスが贖罪の苦行を果たしながら、時折見る悪夢の場面だろう。ホフマンの真骨頂である。
「騒ぎはますます気違いじみていき、さまざまな姿の化け物たちは、いっそう奇怪で奇抜な形に化け、人間の脚をして踊りまくる小さな小さな蟻から、ぎらぎら光る目をもつ長い長い胴体の馬の骸骨まで、それはさまざま。この馬の骸骨の皮はそれがそのまま鞍敷そのものになっていて、光を放つ梟の頭をした騎士が乗って跨っている」(第二部第三章「贖罪の苦行」より)
ほとんどシュルレアリスム絵画を思わせるような描写であり、グリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉の世界そのままである。ホフマンはグリューネヴァルトのこの作品を見ていたのだろうか。
ホフマンが手本にしたルイスの『マンク』にはこのような幻想的な場面はないし、あったとしてもルイスの力量ではこれだけの破天荒な迫真性を持った描写をは不可能だっただろう。
だから他にもいくつも『悪魔の霊酒』が『マンク』を凌駕している要素はたくさんあるのだが、その一つがホフマンの奇想天外な想像力にあることは間違いない。
ところで、ホフマンの幻想描写には、いつでも滑稽味がつきまとう。暗くおどろおどろしいだけではなく、ある種の軽妙さがそこには感じられる。それこそホフマンの言う“カロ風”の味わいなのである。『悪魔の霊酒』に先だって書かれた『カロ風幻想作品集』という作品もあり、ホフマンは『悪魔の霊酒』に「カロ風幻想作品集著者の編纂によりて」というサブタイトルを付けている。
ゴシック的ということとカロ風ということとはイコールではないだろうが、それらが共鳴しあうことは可能である。そうした共鳴の姿を我々はベルトランの『夜のガスパール』に見たばかりである。
『悪魔の霊酒』においてもそれは例外ではなく、いくつかの幻想的場面があるが、なかでも凄いのは、小説後半で罪を悔いたメダルドゥスが贖罪の苦行を果たしながら、時折見る悪夢の場面だろう。ホフマンの真骨頂である。
「騒ぎはますます気違いじみていき、さまざまな姿の化け物たちは、いっそう奇怪で奇抜な形に化け、人間の脚をして踊りまくる小さな小さな蟻から、ぎらぎら光る目をもつ長い長い胴体の馬の骸骨まで、それはさまざま。この馬の骸骨の皮はそれがそのまま鞍敷そのものになっていて、光を放つ梟の頭をした騎士が乗って跨っている」(第二部第三章「贖罪の苦行」より)
ほとんどシュルレアリスム絵画を思わせるような描写であり、グリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉の世界そのままである。ホフマンはグリューネヴァルトのこの作品を見ていたのだろうか。
ホフマンが手本にしたルイスの『マンク』にはこのような幻想的な場面はないし、あったとしてもルイスの力量ではこれだけの破天荒な迫真性を持った描写をは不可能だっただろう。
だから他にもいくつも『悪魔の霊酒』が『マンク』を凌駕している要素はたくさんあるのだが、その一つがホフマンの奇想天外な想像力にあることは間違いない。
ところで、ホフマンの幻想描写には、いつでも滑稽味がつきまとう。暗くおどろおどろしいだけではなく、ある種の軽妙さがそこには感じられる。それこそホフマンの言う“カロ風”の味わいなのである。『悪魔の霊酒』に先だって書かれた『カロ風幻想作品集』という作品もあり、ホフマンは『悪魔の霊酒』に「カロ風幻想作品集著者の編纂によりて」というサブタイトルを付けている。
ゴシック的ということとカロ風ということとはイコールではないだろうが、それらが共鳴しあうことは可能である。そうした共鳴の姿を我々はベルトランの『夜のガスパール』に見たばかりである。