玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(8)

2015年04月20日 | ゴシック論
 詩人ベルトランにとっては聴覚現象も視覚現象も、詩的感受性に受け止められるときには同じ現象の違った現れに過ぎない。ボードレールの言うコレスポンダンスの世界である。ベルトランが『夜のガスパール』で、絵画に触発されて作品を書いたことは前に言ったが、ベルトランはそこで視覚的現象を言語的現象に置き換えているわけである。さらにモーリス・ラヴェルはベルトランの詩を聴覚的現象に翻案しているわけだから、二人の目的としたものには、諸感覚の意識的な混交であると言ってもいいだろう。
 ラヴェルの曲はその多くが“色彩感覚”に溢れていると言われている。オーケストラ曲はむろんのこと、ピアノ曲で最も“色彩感覚”を感じさせるものの一つがこの〈Le Gibet〉ではないだろうか。
 ラヴェルの〈Le Gibet〉の始まりに戻る。不吉で不安を掻き立てる変ロ音に対応しているのはla cloche qui tinteである。これは「Le Gibet」の最終連に出てくる言葉であり、ラヴェルは〈Ondine〉の場合のように最初からベルトランの詩句をなぞっていくわけではない。
しかしラヴェルが鐘の音を主調音にしたことは、この詩編に対する深い理解があったからこそと言うことはできる。ce que j’entends?という自問に対する解答が最終連で与えられているのであり、それを主調音とすることはラヴェルにとって当然のことであっただろう。
 曲は変ロ音にからみつく主題のヴァリエーションによって彩られる美しい旋律によって特徴づけられる。変ロ音とは違って場違いなほど美しい主題であって、それがこの曲における美と醜との相克を演出している。対立する二つの要素、不安を駆り立てる変ロ音のゴシック的音素と主題のロマンティックな美しさが、この曲にあっては二律背反的に共存しているのである。
 主題の変奏は原詩のce que j’entends?という問いへの様々な答えに対応している。その変奏が“色彩”を感じさせて止まない。ラヴェルの天才が可能にした“諸感覚の混交”というものを我々は感じ取らなければならない。